雪去り
外では雨が降り始めていて、濡縁をしっとりと濡らし色を変えている。ぱらぱら、ぱたぱた軒を打ち付ける雨音は止まない。
天気が良ければ庭で遊んでやることも出来るがこの天気ではそうもいかないなと、部屋の中をよたよたと危うげな足取りで歩く昌浩を見ながら、騰蛇はそんなことを考えていた。
「れーん」
子供特有の高く舌足らずな声で昌浩が騰蛇の名を呼び、上機嫌で両手を伸ばして騰蛇に向かって歩いてくる。よたよた、よたよたと危なげに。途中よろけてぽてんと倒れるが、めげることなく果敢にも立ちあがり再び騰蛇に向かっての歩みを開始する。強い男子(おのこ)だ。
無事自分の元にたどりついた昌浩を抱き上げて誉めてやると、昌浩はきゃっきゃと嬉しそうにはしゃぎ声を上げそんな昌浩を見て、騰蛇も頬を緩ませた。
親ばか、ともとれる騰蛇の様子に呆れたか、はたまた驚いたか。
おそらく前者であろうが、どちらとも判断つけがたい表情で騰蛇の隣に音も無く顕現したのは十二神将が一人、勾陣だった。
肩が剥き出しになった裾の短い衣装。腰には二本の筆架叉。髪は肩につかない長さで切り揃えられ、色は闇を塗り固めたかのような黒。
腰に手を当てて騰蛇を見下ろす瞳は、髪と同色の黒曜の色だった。
騰蛇と同じく強い神気を持つ彼女は、子供の傍にめったに顕現することはないが昌浩の場合は多少除外される。昌浩は闘将である彼らを怖がらないからだ。
やれやれとため息を零しながら勾陣は騰蛇の隣に腰を下ろした。
「全く…昔のお前からは想像もつかん有様だな」
言いながら騰蛇の腕に抱き上げられている昌浩の柔らかい頬をちょんとつく。
昌浩はいやがることなく勾陣を見てにぱっと笑った。邪気の無い笑顔に心の中が暖かくなるようで、つられて勾陣も微笑を刻んだ。
騰蛇にしがみついて金冠やらひれやらをいじっていた昌浩だったが、しばらくして突然動きを止める。おやと思い紅蓮が覗き見やれば、遊びつかれたのかすやすやと寝息を立て始めていた。
「寝てしまったな」
「ああ…」
ずしりと腕にかかる重みが増す。子供というものは寝てしまうととたんに重くなるから不思議だ。
昌浩の無邪気な寝顔を眺めて微笑し、騰蛇は敷かれたままだった褥の上に起こさないようそっと寝かしつけてやった。風邪を引かぬよう衾を一枚掛けてやりながら、ああそうだ、と後ろで腕組みをしたまま座る勾陣を振り向いた。
「なあ」
「ん? なんだ」
「年の頃は十五、六なんだが……この邸にそれくらいの年の娘がいたか?」
騰蛇の問いに、勾陣は突然なんだというように目を瞬かせて、それから考えるまでも無くすぐに頷いた。
「姫のことだな」
「姫? 吉昌に娘はいなかったはずだろう?」
「いや…成親と年子の娘が一人いる。お前が会っていないだけでな」
「初耳だぞ」
「…昌浩が生まれるまで、お前は滅多に降りてこなかっただろう」
だから知らなくて当たり前だ、と言外に告げられているようだった。
「まあ理由はそれだけではないけどな」
「どういう意味だ?」
「一姫はあまり身体が丈夫ではなくてね」
だから彼の強すぎる神気にあてられて、万が一のことがあってはならないとの晴明の計らいだったのだ。もっともそれも杞憂に終わったのだが。
そこまで説明して勾陣は言葉を止めた。
続きを促してくる騰蛇に面倒くさそうな顔をして、ため息一つ。そのうち分かるとそれだけを告げて肩を竦めると姿を消した。
勾陣が話さなかった一姫の脆弱な理由。それは、生まれついて持った強すぎる力のため。晴明の後継とされた昌浩よりも更に強い、隠行している神将すらをも容易に見つけ出すことが出来る。そして己が命すらも苛む人の身には過ぎたる力。
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H22.09.22 橋田葵
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