雪去り
ちら、ちらと。
舞い散る雪に儚く消えた、一つの灯火。
涙と共にこぼれおちたのは、大切な大切な至宝の名前。
暖かく優しいぬくもりは、冷たい雪の中に溶ける様に消えて、そうして。
紅い蝶の誘いのもと、二度と覚めやらぬ眠りへと。
***
時折吹く風は冷たく、冬の訪れが近いことを告げている。赤く色づいた庭の木々がさわさわと音を立てて揺れ、落ちた紅葉が風に運ばれてははらりと縁台に落ちる。廂まで届いた紅葉を一枚拾い上げ、主の背を見守りながらもう秋も終りだな、などとまるで人のようにしみじみと思っていた騰蛇は枯葉を踏みしめる音に気づいて柱に背を預けたまま視線を巡らせた。細めた金の瞳を音のしたほうへ向けると赤く色づいた木々の中、微かに動く白いものを捕らえる。
ひらり、と。風に乗って翻る、白い衣の袖。
一瞬遅れて長い黒髪が踊るのを見た。目を凝らしてよくよく見れば、それは葉を落としすっかり寂しくなった銀杏の木を見上げるようにして立っている白い狩衣姿の女―――長い後ろ髪と細身の体系から多分そうだと思われる―――であることがわかった。
鮮やかな緋色に交じる、穢れない純白。怪訝そうに騰蛇はその後姿を見つめる。あれは誰だ。
この邸に長い黒髪を持つ女性といえば晴明の息子の妻、露樹しか思い浮かばなかったが、あの後姿は彼女ではない。露樹よりもずっと若い、どちらかといえば女というよりは少女のものであるように思えたのだ。高く結い上げられた射干玉の髪はみずみずしい輝きを放っていて、それはまだ彼女がとても若い証。狩衣の袖から覗く手は細く白く、指先は白魚の如きだった。
じっと食い入るように見つめていると、騰蛇の視線に気付いたように少女がくるりと振り向いた。淡雪のように白い顔(かんばせ)が覗く。思っていた通りまだ若い。年のころは十五、六…昌浩の兄二人と同じ頃ではないだろうか。面立ちがどことなくではあるが露樹に似ているような気もする。
けれど変だと騰蛇は首を捻る。昌浩に兄はいるが、姉がいるなどという話は聞いたことも無い。それとも自分が知らない間にもう一人生まれていて、聞かされていないだけだったのだろうか。可能性が全く無いとは言いきれないので、もしかしたらそうなのだろうと釈然としないまま騰蛇は一人結論付ける。
害を為す存在でないのなら、別に気に留める必要はないだろう。少女から視線を逸らそうとした騰蛇は、気紛れにもう一度見やった少女と視線が絡み合った。逸らすことなく真っ直ぐに騰蛇を見た少女の瞳に息を呑む。彼女の瞳は不思議な異彩を放っていた。
左右が同じ黒ではない、色違いの瞳。紅玉のような赤い瞳と黒曜石のような澄んだ黒。
その瞳で彼女は見ていた。隠形し気配を消して、常人には見えない状態でいる騰蛇を。
ただ目が合っただけなら偶然と片付けられる。けれど彼女は騰蛇を見て、にこりと微笑んだのだった。故に騰蛇は驚いた。強い見鬼の才を持っていたとて、隠行している神将が人間に見えるはずが無いのに。
騰蛇が驚愕していることなど露知らずといった様子で少女はしばらくそこに佇んで銀杏を見上げていたが、やがて飽いたのかゆっくりとした動作で踵を返すと庭の向こうに姿を消した。
「誰だ…?」
思わず疑問が声となって口から出た。
それを聞きとめた晴明が読んでいた書物から顔を上げ、なんだと振りかえるが騰蛇はしばしの間の後「いや」と呟き首を振った。
柱にもたれたまま目を閉じる。瞼裏に一瞬、あの少女の笑みが浮かんで消えた。
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始めてしまいました真冬の記憶紅蓮サイドのお話です。
紅蓮さんの心情とか、真冬の記憶の中では書いてないちょっとした二人のやり取りとかが書きたくてですね。
十話ぐらいで終わる予定、です。よろしければお付き合いくださいませ。
H22.09.12 橋田葵
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