五月晴れ 二話







 その日玄武は晴明にささやかな用事を頼まれた帰り、一人川辺りを歩いていた。
 誰もそばにいないのに珍しく顕現して歩いていたというのはただそのときの気分によるものだった。
 人でない玄武ではあるが、耳がとがっていることを除けばその容姿はただの少年だ。誰も彼が神の末端であるとは思いもしない。
 晴明からの用事は早々に済ませたので、そろそろ帰ろうかと邸に意識を向けたとき。
 それは聞こえてきた。
 平常であればさらさらと涼やかな音を立てて流れる川に、重量のあるものを垂直に落としたかのような盛大な水音。そして悲鳴。
「―――ッ!!」
 ザバザバと水を掻き分ける音の中に途切れ途切れに声が聞こえる。成人男性の腰の高さほどしか水かさのない川だが、どうやら川に落ち溺れているらしい人物はあせってしまって、川底に足がつくことに気づいていないのだろう。
 橋の欄干から除きこむようにして川面を眺めると全身で助けを求めるように暴れる少女の姿が目に入った。周りをちらりとみやればここにいる人間たちは少女に気づきながらも見て見ぬ振りをしている。面倒事はごめんといった表情を浮かべる彼らに、玄武は小さく舌打をするとためらうことなく川に飛び込んだ。
 相変わらず暴れる少女に近づいていくと己の力で二人の周りに小さな水の囲いを作り、川の流れを遮断する。体が大きければそんなことをせずとも引き上げることは可能だろうが、そこはあいにくと体の小さな玄武。自分よりも大きな人間を川の流れに逆らいながら引き上げるのは困難と考えたからだ。
「落ち着けっ」
 水将である玄武は水の中でも自由に動き回ることができる。すい、と少女の後ろの回りこむと暴れる少女を押さえ込むようにして後ろから抱き込んだ。その際、少女の肘が鳩尾に命中したことも補足しておこう。
「、っ」
 小さくうめいてけれど少女の体を離すことはしない。
 少女はといえばようやく誰かが自分を助けようとしてくれていることに気づいたのか、先ほどよりも動きがおとなしくなった。そこを見計らって、玄武は一気に岸まで少女の体を引きながら泳いでいった。
 玄武の助けにより岸に引き上げられた少女は地面に四肢をつくと盛大に咳き込んだ。
 ゲホゲホと苦しそうに肩で呼吸をするその背をさすってやる。ぬれた着物がべったりとまとわり着いたその体は折れてしまいそうな細さだった。
「大丈夫か?」
「あ、はい…どうも。っ、こほ……ふぅ。助けてくれてありがとう」
 顔に張り付いた髪を払いのけながら少女は顔を上げ、ぱっちりとした大きく溌剌そうな瞳が玄武を映すにっこりと微笑んだ。
 けれどまだ呼吸が落ち着いていないのか、困惑気味に笑みを潜めると幾度か小さく咳き込んだ。
「……何故溺れていたんだ?」
 咳が落ち着いた頃、玄武はそう訊ねてみた。玄武の問いに一瞬きょとんとして、それから気まずそうな表情を見せると首を傾ける。
 聞かぬほうがよかったか、そう思ったのもつかの間。今度は少しばかり頬を染め、恥ずかしそうに彼女は笑った。
「笑わないでね。実は橋の上で足を滑らせちゃって。あ、私物売りをしているの。それで大事な商品が川に落ちそうになってつい手を伸ばしちゃってね。そのままドボン」
 いやぁ参ったと明るく笑う少女に思わず毒気を抜かれた。
 緊張感の欠片もなく、けれど多少羞恥は感じているのだろう。頬を赤く染めたまま明るく笑い飛ばす少女に玄武は思わず破顔する。
「そうか」と一言返すのがやっとの玄武に、少女は「あきれたでしょ?」と言いながらも屈託無く笑った。
「……ではその大事な商品はどうしたのだ?」
 玄武に指摘され、けらけら笑っていた少女ははたと笑みを引っ込める。あ、と小さく声を漏らし川と玄武を交互に見て、それからさっと顔を青くした。赤くなったり青くなったり忙しいことこの上ない。が、どこか目が離せないのはころころとよく変わる表情が見ていて飽きないせいか。
「ああぁああああ!!! 大変!! 溺れてあせって手放しちゃった! やだぁ、もうおぼれ損じゃんよ〜」
 叫んで落ち込む少女が些か哀れになって、玄武は無言で立ちあがると水際へ足を進めた。
「それは、どういったものなのだ?」
「ん…? んとね、このくらいの木箱。その中に全部いれてたんだ。多分バラけちゃったんじゃないかな。仕方ないよ。あきらめる」
「しばし待て」
「へ? あ、ちょっと、待……!」
 水に飛び込む玄武を止めようと差し出された手は意味をなさぬまま中途半端な位置で止まり、水に消えた玄武の後ろ姿を呆然と見送りながら少女は固まった。
 しばらくしてあがってきた玄武の手には少女が言っていた木箱が、中身もしっかり入ったまま収まっていた。
「これで間違い無いか?」
「うん! ありがとう! ね、君名前は? 私はっていうんだ」
「我は……玄武だ」
「玄武? なんかすごい名前。神様みたいだね」
「あぁ……」
 ばっちり的をいている言葉にどう返すべきか迷って曖昧に答えを返した玄武は不自然極まりない様子だったが、は全く気に留めていないようだった。
「ね、玄武。せっかくだからうちにきてよ。…っていってもボロ屋だけどさ。このまま返すの悪いし、たいしたお礼なんて出来ないけど」
「いや、構わない。我は……」
「いいからいいから、ほらほら」
 これから邸へ戻ると答えようとしたのだが、にがっしり腕を捕まれそういうわけにもいかなくなった。
 まあ少しくらい帰るのが遅れても晴明は文句など言わないだろう。ただ少し、何があったのかと疑いのまなざしは向けてくるだろうが。そんなものは隠行して姿を消してしまえばなんてことはない。
 にこにこと笑顔を浮かべて玄武を見下ろすの顔を見て、玄武はまあいいかと頷いた。












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