暗い暗い闇の中を舞う……白い蝶。
以前よりもかすかに色づき。
ひらり、ひらり。
燐光を放ちながらゆるやかに舞飛ぶそれは……。
何を意味し、何を表し、それ自体が何であるのかを知っている。
それは人の魂
(もうすぐ……)
そう、もうすぐ。
もうじき、なのだ。
訪れが近い。
あと少しで、火が消える……。
真冬の記憶 中編
(このまま目が覚めることなく永の眠りについてしまったら、死んでも死にきれないだろうな……)
まだ伝えていない思いがある。
せめて、その時がくるまでにこれだけは為しておきたい。
そんなことを夢現に思いながら、は差し込む光の眩しさに目を開けた。
目を開けると見慣れた天井の梁が見えて、少し視線をずらすと泣きそうな顔で覗き込む弟の姿が目に入った。
「昌浩……?」
重たい手を持ち上げて、小さな弟の頭に手を乗せる。
「ねーまぁ。だいじょーぶ?」
どうやらかなり心配させてしまったらしい。くしゃりと顔を歪めて安否を気遣う弟には笑みを浮かべた。
「ああ、泣くな昌浩。私は大丈夫だから。ほら、じい様のところにでも行っておいで」
そう促すと昌浩はこくんと頷いて、とてとてと歩いて部屋を出ていった。
その背を見送っていたはある人物がこの部屋にいることに気が付いて瞠目する。
何故、彼が此処にいるのだろう。
常に昌浩の傍について離れない、彼が。
「騰蛇……」
金色の瞳を持つ、その人がそこに居た。
隣に腕を組んだ勾陣がいる。
それを見て、はああと何か妙に納得をした。
仮にも十二神将である勾陣だが、さすがに女一人では体格的にを抱えてくるのに無理があったのだろう。察するところをその任を、騰蛇に任せたのだ。
(他の神将でも構わなかったのに……)
ならそう言うだろう事を勾陣も解っていた。それでもそうしなかったのは……他の神将に任せる事をしなかったのは、恐らくはが騰蛇に思いを寄せていることを知っていたからなのだ。
胸中で嘆息を漏らして、は身を起こそうとして両腕に力を込めた。だがまだ僅かに残る胸の疼き、痛みに体勢を崩し再び褥の上に伏した。
見かねた勾陣が手を貸して起こしてくれる。
ありがとう、と礼を述べては方に打ち掛けを一枚羽織った。
そうして、入り口近くで微動だにしない騰蛇に向かって声を掛ける。
「騰蛇。そのような所にいないで、貴方も此方へ来ればいい」
の言葉に、しばし逡巡していた騰蛇だったがややって頷くとの傍まで移動した。
勾陣が気を聞かせてか否か、すっと姿を消す。
完全に気配を断たれてしまっては、さすがのも見つけることは叶わなかった。
何の前触れもなく二人きりにされ、暫くの間重たい沈黙が続く。
(何を話すべきなのだろう……)
気まずい雰囲気の中、がちらりと騰蛇を見やる。図らずしもと目が合った騰蛇はすっと視線をそらした。
その態度にがおやと首を傾げる。
おかしい。
何時もの騰蛇なら目が合ったとしてもそらすことなどないというのに……。
「騰蛇……もしかしなくても先ほどの私と勾陣の会話……聞いていた?」
ぴんと来てそう訊ねると、騰蛇は一瞬視線を彷徨わせ一言「すまない」と言った。
それは否定ではない、聞いていたという肯定の証。
はそう、と頷いた。
「聞かれちゃったなら、仕方ないね」
言いながら頬にかかる髪を払う。解いたままの髪は長く弛んで、枕もとに散っていた。
ちらりと騰蛇を一瞥すると、彼は何か言いたげな面持ちをしていた。
気付かれぬようくすりと笑んで、訊ねる。
「何か……言いたい事があるのでは?」
「……何故」
「?」
「何故、俺なんだ……?」
その問いには一瞬きょとんとした。それから眉間にしわを寄せ、首を傾げる。
「何故だろうね……」
曖昧に笑って、は視線を落とした。
再び訪れた沈黙。
それを破るように口を開いたのは、騰蛇だった。
「……俺ではお前の気持ちに応えてやることは出来ん……」
「そう、でしょうね」
「十二神将が人間に懸想することはない」
懸想とはいささか大袈裟だな、と思いながらもは頷いた。
「知っている。末席ながらも神である貴方達に、そんな感情を抱く心などないのでしょう。……たとえ、あったとしても、私ではあなたの相手になれない」
解っている、とは再度頷いた。
「私は、貴方に思われることを望んだのではない。ただ……笑顔を、与えたかった。貴方のその凍てついた心を溶かしたかった。それだけ」
全ては小さな弟の昌浩に、為されてしまった事だけれど。
「騰蛇。さっき、何故俺なのかと聞いたわね。理由を一つ述べるならば、私はあなたの瞳に惹かれたの。その悲しげな色を宿していた瞳に。聞いていたのでしょう? 先ほどの勾陣との会話を」
は騰蛇の頬に手を伸ばした。
騰蛇は拒む事もせず、ただを見つめ返している。
「私は貴方には何も望まない。ただ幸せであって。その笑顔を、忘れないで。私の弟を……何時までも守って欲しい。おじい様とあなたが後継と認めた昌浩を」
「お前は何を……自分が何を言っているのか解っているのか?」
「何を、とは?」
「それではまるで自分の死期を悟った者の言い方だ。何故そのような」
「知っているから、だよ。自分の死期を、その訪れが程近いことを。ありえないと、思う?」
でもあるんだよ。
そう言って、は微笑んだ。
添えていた手を下ろし、左右色の違う瞳で真っ直ぐに騰蛇を見て。
胸に手を当てた。
「私の中に宿る力は、人間には余りすぎるものだ。使いこなす事も、またその力を引き出すことも出来ない。それだけで命取りになる。私の身体が弱いのはそのため。あまりにも強すぎる暴虐な……理不尽な力に器が耐えられていないから」
時折生じる発作で病臥しなくてはならないのはその為なのだ。
疎ましい力。何の役にもたたぬ、ただ自らを死に至らしめるだけの、最早それは呪いといっても過言ではない。
「多分これは葛葉様の力、天狐の力のせいでもあるんだよ」
の祖父、晴明の母親は信太の森を統べる神狐であった。間隔性遺伝として顕れる、その力。は色濃くついでしまった。
「昌浩も……あの子も私ほどではないが強く受け継いでいる。でも力の均整が取れているから私みたいになることはないだろうけどね」
そこまで話して、はふぅと息を吐き、ふと入り口近くで此方を覗き込む弟の姿に気がついた。
「ああ、貴方を探しにきたようね」
に促されるように入り口近くを振り返る騰蛇を視界の端に止めて、昌浩に向かって手招きをする。
昌浩はにこっと笑うとと騰蛇の元へ駆け寄ってきた。
まだ足元がおぼつかない小さな弟は、途中ぽてっと倒れる。
「昌浩!」
慌てた騰蛇が昌浩に手を伸ばすと、一人で起き上がった昌浩はまた笑った。
「大丈夫か、昌浩?」
弟を気遣い、そう声を掛けてやると昌浩はこくんと頷いて騰蛇の腕にしがみついた。
その昌浩に向ける騰蛇の笑顔を見て、の顔が僅かに曇るが騰蛇は気付かない。
「本当に……騰蛇。貴方、昌浩にはそんなにも優しい笑顔を向けるのね」
昌浩の頭をなで、ふっと瞳を伏せては呟くようにそういった。
庭のほうへと顔を向け、御簾の向こうをすかし見る。
さんさんと降る白雪。
降りしきり、降り積もる雪のように募っていく想い。
少しずつ、けれど確実に。
死が間近に迫るほど強く根付いていくのだと、気付いた。
(それならば、せめて……)
「ねえ騰蛇。一つだけ……願いを聞いてはくれない?」
昌浩を膝の腕に抱き上げて、騰蛇を見据えた。
「なんだ?」
「私の命は……あとすこし。だからそれまで傍に居て欲しい。居てくれるだけでいい。私の命が尽きる、その時まで」
の言葉に、騰蛇は少し考えるそぶりを見せてやがて是と頷いた。
はふわりと微笑む。
いつもの毅然とした態度からは想像がつかぬほど、柔らかい少女らしい微笑みだった。
「ありがとう。……心配はしないで。僅かの時間だから。多分私の身体は……月が変わるまでは持たない」
は再び庭先へと視線を向ける。
雪の降る、今の暦は睦月の半ば。如月になるまで数えるところあと……十日余り。
H16.07.16 橋田葵
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