闇の中をひらり、ひらり音もなく白い蝶が舞う。
それは何かを示唆するように、目の前を不規則な動きでひらひらと。
誘われるようにして手を差し伸べて、直感とも言える何かが動いた。
ああ、そろそろ……。
燈っていた小さな灯火が消えるのだ。
真冬の記憶 前編
白雪の降り積もった庭先を、ようやっと歩けるようになった弟の昌浩がよたよたと歩いていた。傍から見るとかなり危なっかしい足取りで、けれど本人は一生懸命前に進もうと努力している様子だ。
雪の積もったこの季節、薄物の着物一枚じゃ寒いだろうにと思いながらも、昌浩の姉で今年十六になったはただ簀縁から眺めているだけであった。
少女でありながら狩衣に狩袴といういでたちの彼女は、方から衾代わりにしてある大袿を一枚羽織っている。さすがに狩衣だけでは寒さを感じたからだ。
膝に頬杖を付いて、弟の昌浩を眺めていただったが、その弟が時折くしゅっと可愛らしいくしゃみをするのをみるとさすがに重たい腰を持ち上げた。
手近にあった衣を一枚掴んで弟の元へ歩み寄ろうとするが、それより先に昌浩の下へ一つの影が現れた。
近づいたのではない。それは突如として昌浩の傍らに現れたのだ。
褐色の肌、濃色の髪。端正な顔立ちに逞しい体躯の長身の男だ。
十二神将最強にして最凶。炎の闘将、騰蛇。
彼はと昌浩の祖父である安部晴明の式神の一人だった。
は突然現れた彼に驚く風でもなく、ただ一つ溜息をつくと再び腰を落ち着けた。
先ほどから彼が昌浩の傍にいることは知っていた。否、性格には知っていたのではなく、見えていた。常人や、強い見鬼の才を持った人間ですら見ることができないよう隠行したままだった彼を。
肩からずれ落ちかけた袿をひっぱってかけなおし、ふいに胸を突き刺すような痛みが走り僅かに顔をしかめた。
だが大した痛みでもないので気にする事もない。……何時もの事なのだ。
胸に手を当て様子を窺いながら、昌浩と騰蛇に視線を戻した。
二人のやりとりを見ていると、これが以外に面白い。
よちよちと、小さな手を一生懸命に伸ばして少し離れた位置にいる騰蛇の元へ近寄ろうとする。けれど途中雪に足をとられてよろめき、それに慌てた騰蛇が昌浩に手を差し出す。と、昌浩は小さな顔いっぱいに笑顔を浮かべて騰蛇を見やり、その笑顔を見た騰蛇が破顔するのだ。
その一連を見ていたはくすくすと笑うとそのまま空を仰いだ。
はらりはらりと冷たい気配。雪の欠片が視界をかすめる。
また降り始めたようだ。このまま昌浩を外に出しておいて、悪い風にでも入り込まれたら後でじい様になにを言われるかわかったもんじゃない。
そう危惧したは、とりあえず昌浩にいっても彼は首を傾げるだけだろうと思われるので、隣で昌浩をあやす騰蛇に臆することなく声を掛けた。
「騰蛇」
の声に反応して、騰蛇がゆるりと振り向く。
金色の瞳がを映して、僅かに細められた。
足元で騰蛇にじゃれついていた昌浩も一緒になってをみる。
「ねーま」
"姉様"と本人は言いたいのだろうが幼さゆえ、舌足らずにそう言ってにぱっと笑った。
その弟に笑顔を手向けて、再び騰蛇に視線を戻す。
「また雪が降り始めた。あまり長く居ると風邪を引くから」
その言葉が、弟の昌浩の為に発せられたと気づいたのだろう。
騰蛇は一度頷くと、不思議そうに見上げている昌浩を腕に抱き上げた。風も無いのに彼の纏う薄布が翻る。
今更だがこの雪の中、あの格好で寒くはないのだろうかとは詮無いことを考えた。
彼らは人間ではない。恐らくは寒暖などあまり感じないのだろう。
「そろそろ部屋に入るか、昌浩」
昌浩に向けって話し掛け、手向ける笑みはどこまでも優しい。戦場で見せる冷笑などではなく、今までの彼からはおよそ想像もつかないだろうほどに穏やかな。
昌浩が生まれる以前の彼と、そして今の彼を知っているは僅かに目を眇めた。
弟に対してだけ向けられる、彼の笑顔。その事実は小さな針となり、の胸をちくりと刺した。
果たして騰蛇は気づいているのか、いないのか。
当面切って話したことなど数えるほどしかないので解らないが、は彼を……騰蛇を好いていた。
煉獄の闘将と呼ばれ、冷酷無比と恐れられた彼を。けれど本当は心優しい人であると知っていた…否、気づいていたからは彼に思いを寄せた。
どれほど望んでも、自分には向けられる事の無かった笑顔。
孤独の中にいた彼を、凍てついた彼の心を溶かしたいと望んだのに自分には出来なくて、それをあっさりとして退けたのは生まれたばかりのの弟だった。
騰蛇は変わった。昌浩が生まれてから、それこそ目を見張るほどに。
ちりちりと、胸の中に燻るは小さな小さな嫉妬の灯火。
情けない、とばかりには嘆息を漏らした。
昌浩を抱え上げた騰蛇がの横を過ぎ、部屋から出て行くのを気配で確認すると深く息を吐いた。
「らしくないな、私も……」
少女らしからぬ声音で呟くの隣に、音もなく神将が顕現する。
それにあわせたかのように巻き上げていた御簾が解けて落ちてきた。
ばさりと払うその手は、細く白い女のもの。
「……勾陣」
「全く……」
が見上げた先で憮然と呟いたのは、騰蛇と同様六壬式盤に名を刻む十二神将が一人勾陣だった。
肩より少し短めに切りそろえられた髪と、を見下ろす瞳は闇を塗り固めたかのような漆黒。すらりとした長身の鋭利な印象を与える、けれど不思議と近寄りがたいとは思わせない雰囲気の持ち主だった。
「姫。お前もそろそろ部屋に入るべきだ」
「ありがとう。でも……私が風邪を引いて、誰か心配する人間がいて? それこそ今更だわ。この家の人間は、皆昌浩に付きっきりだしね。まあ父様も、年が行ってから授かったあの子が可愛いものわかるけど……」
自嘲気味な呟きは、酷く切なく勾陣の耳に届いた。
「姫」
諌めるように名を呼ぶと、は小さく肩を竦めた。
勾陳に言われたとおり部屋に戻ろうと立ち上がりかけて、再び襲った胸に痛みに顔を顰めた。
気付いた勾陣がの肩に手を掛けるが、は大丈夫といってその手を払う。
一度立ち上がることを断念して、少し乱れた呼吸を整えながら腰を落ち着けた。
濡場球の黒髪がさらさらと肩を伝い頬にかかる。それを指先で掴んで眺め、視線を落とした。
(この髪は黒いのに……)
心の中で呟いて、は自分の瞳の色を思い出していた。
赤と黒。
彼女の瞳は異彩を放つ双色で、それは身の内に巣くう余りにも強く理不尽な力の顕れだった。
隠行したままである十二神将をその目に捕らえる事ができるのもその為だ。
生まれたときより強い霊力と見鬼を兼ね備えていたはその力の所為で体が弱い。強すぎる力に、肉体が耐えられないのだ。
そして彼女は自分の死を覚悟し、またそれを悟っている。
その訪れが、遠くは無いだろう事を。
時折生じる胸の痛み、発作はその為なのだ。恐らくは。
柱に寄りかかるようにしては再び空を仰いだ。
先ほどよりも雪の降りが激しくなっている気がする。本格的に降ってきそうだ。
いつまでもここでこうしているわけにはいかないだろうが、生憎と今は動けそうになかった。
「姫、動けそうか?」
勾陳の問いかけには苦笑を漏らすて小さく首を振る。
「ちょっと……無理そう」
「運んでもらうか? さすがに私では無理だが……六合辺りを呼んで」
「いや……大丈夫。せっかくだから勾陣少し話をしない?」
「話?」
「そう。といっても私が一方的に話すから、聞いていてくれるだけで構わない」
頷いて、腰をおろした勾陣を視界の端で見て、はぽつりぽつりと話始めた。
「勾陣は……もう気付いているだろうね。私の、彼に対する気持ち」
「……ああ」
聞いているだけで構わないといわれたが、何か相槌を打ったほうがいいような気がして勾陣は一度だけ頷いた。
「初めて会ったのがいつだったのかなんて覚えてない」
何時頃から彼に惹かれ始めていたのかさえ今ではもうはっきりと記憶には残っていないけれど、初めて彼と見えたとき、自らに走った感覚だけは鮮明に覚えている。
戦慄が走るほどに強い神気を纏った青年。全てを射抜き竦ませるような金色の瞳は、けれどどこか寂しげで、切なかった。
同時には彼に、自分に似た何かを感じたのだ。
「強すぎる力は破滅を招く。私は多分彼に……自分を重ねたのよ」
その力を持て余して、疎んで。
孤独の中に生きる彼に、自分を重ねた。
「ただの人間である私が、末席ながらも神に連なる神将に似ているなんて思うこと自体厚かましいのだろうけどね。でも、その時確かに私はそう感じた」
気になり始めたのは、多分その頃からなのだ。
でも彼は滅多なことでは人界に降りてはこないし、また降りてきたとしても会う事は稀な事。
昌浩が生まれてよりここ数年は、以前に比べて驚くほど頻繁に姿を見かけるようになった。
そして知った。「驚恐」と恐れられている彼が、その実誰よりも優しいのだということに。
元々胸に内にあった想いに拍車がかかったのは、彼の昌浩に対する笑顔を見てからだった。
「騰蛇は優しい……凄くね。勾陣も見たことがあるだろうから解ると思うけど、昌浩に向けられる笑顔を見るたびにつくづくそう思うよ。そしてこうも思う……私では、昌浩には叶わないと」
そうして抱くのはまだ幼い弟に対する嫉妬の気持ちなのだ。
「情けないな、私も」
思いを打ち明ける勇気をもたず、またそれを振り切る覚悟もなく。
それでも死を目前にした今は、打ち明けてしまいたいと強く思う。
「あんな小さな弟に嫉妬するなんてね、本当に……情けない」
そういて話を一区切り付けて、はほうと息を吐いた。
額に嫌な汗が滲む。
苦しげに眉を寄せたに、勾陣が怪訝そうな視線を送った。
「どうした、?」
「ん……ちょっと、まずいかも」
呟いたの胸を、痛みが襲った。
「っ……」
先ほどのような優しいものではない。
「ぁ……ッ」
それは胸を刃で貫かれるような衝撃。
「――――――……ッ」
息を詰めて胸を押さえる。袷をぐっと掴んで、強く目を閉じたは身体が傾ぐのを感じた。
「姫!」
勾陣が慌てたように叫ぶ。
それに続くように、慌しい複数の足音。
「だ、いじょうぶ……」
喘息の元、搾り出すような掠れた声でそういうが、明らかに大丈夫ではないことぐらい本人でもわかった。
(駄目だ、まだ……)
倒れかかった身体を勾陣が支えてくれる。
縋るようにして、胸を襲う痛みをやりすごしていただったがそれも耐え切れず、やがて視界は闇に閉ざされた。
H16.07.09 橋田葵
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