舞う。

 蝶が。

 ゆるやかに、ひそやかに。

 白雪の中を、踊る。

 ああ、色づいていく。

 紅く紅く……。

 どうか、もう少し。

 あと少しだけ。

 時間を下さい。




冬の記憶 後編




 が倒れ、騰蛇と約束を交わしてから七日が過ぎた。
 相変わらず容態は芳しくない。元々病からくるものではないため、治療の術がないのだ。
 ただできることといえば、陰陽道に連なるものの祈祷、呪い。それで全身を蝕む痛みを和らげる事くらいだった。



 二人の神将と、一人の幼子。
 庭で戯れるその様を眺めて、はふっと笑みを零す。
 自身、雪の中で遊ぶ事など出来ないので、常のように階に座り込んで見ているだけだった。
 つまらないと思うけれど致し方が無い。
 無理をして倒れてしまったら元も子もないのだから。
 肘杖を突いて、目を閉じたの頬にヒヤリと冷たいものが触れた。
「っ?」
 驚いて目を開けると、そこには雪を片手ににこにこと笑う弟の姿がある。
「昌浩……」
 名を呼んで彼を膝の腕に抱き上げると、昌浩は嬉しそうに声を上げて笑った。
「全く悪戯っ子め」
「騰蛇よ、あまり弟に悪い事を教えるな。先行きが不安になる」
 小さな弟を抱きすくめ、その頭に顎を載せて騰蛇を睨みつける。
 騰蛇は僅かに肩をすくめての隣に腰をおろした。
 その様子を傍から眺めていた勾陣は胸中で言葉を漏らす。
(若夫婦みたいだな……)
 そんなこと口にすると後々どうなるか知れないのでもちろん言わずに胸の中だけにとどめておく。
、体の調子は大丈夫なのか?」
 気遣わしげに訊ねる騰蛇に、は少しだけ首を傾げる。
「良くは……ないかな。以前よりも発作の回数は増えているしね」
 そうして単の袷を押さえるように胸に手を当てる。
 こうして笑っている今でさえ、心臓はぎりぎりと締め付けられるような痛みを感じているのだ。
「そうか……」
「ま、ね。死ぬときは楽に死にたいかな」
 冗談のように軽口を叩くに騰蛇は僅かに目を細めて笑った。
 ああやっぱり。
 自分は騰蛇のことが好きなのだ。
 彼の笑顔を見たは改めてそう思った。
「……」
 同時に、目の奥が熱くなった。
 喉が詰まって泣きそうになる。
 傍にいて欲しいと、そう望んだのは自分なのに、今更と後悔している自分もいた。
 今まで死ぬ事が怖いなどと思ったことはなかった。
 でも今は確かに、自分の死に対して少なからず恐怖を抱いている。
 それが何故なのか解っている。
 彼と……騰蛇と離れる事を、恐れるのだ。
(ああ……どうして)
 滲んだ視界を瞬きをしてやり過ごす。
 騰蛇とじゃれる昌浩が彼の腕をすり抜けて走り出す。
 紛らわすようにして、弟を追おうとして立ち上がったその瞬間、の体の中で何かが弾けた。
「―――――ッ!!」
 まずい。
 そう思ったが、もはや手遅れ。
 目の前が白く染まる。
「ぅ……」
 ガクリとの体が崩れ落ちる。
 胸が痛い……息が詰まって苦しい。
 喉に溜まる熱を吐き出す。それは紅い花となって白い雪の上に散った。
っ!」
「姫!!」
 突然のの様子の変化に驚いたらしい騰蛇の声と、勾陣の声が被る。
 ぐらりと傾ぎ、雪の上に倒れる寸前だったの身体を騰蛇の腕が支えた。
 勾陣が急ぎ晴明を呼びにその場を立ち去る。
 小さなの弟は、突如として緊迫したその空気に身をすくませて立っていた。
「だ、いじょうぶだよ、まさ、ひろ」
 ひゅうひゅうと喉が鳴る。
 苦しい。
「時間が……、ないみたいだね」
 途切れ途切れにそう呟くの身体を抱え上げ、騰蛇は部屋の中へと踵を返した。
 そのままの身体を褥に横たえ、血のついた口元をぬぐってやる。
 浅く乱れた呼吸をつくその顔色はすこぶる悪い。
 勾陣の知らせによって駆けつけた晴明は、を見ると言葉を詰まらせた。
 急ぎ呪いとともに形代での身体を撫で、痛みを緩和してやる。
 幾ばくか楽になったはふぅと息をした。
……」
「おじい様……?」
 神妙な面持ちで自分を覗き込む祖父に力なく笑いかける。
「そんな顔しないで下さい。私がこうなるのは……定めだったんです。それをおじい様だって分かっていらしたはず。違いますか?」
ゆっくりと、なるべく呼吸が乱れぬよう話す。
「でもおじい様よりも先に川をみることになるなんて、正直避けたい事でしたけれど。私の方が先におばあ様にお会いしてしまう」
 苦笑を漏らして、目を細めた。
「少し眠ります。おじい様はどうか、お部屋で休んでいて下さい。まだ……大丈夫ですから」
 そっと目を閉じたの顔をみて、晴明は深く息をつくと腰を持ち上げた。



 部屋を出た晴明の後を追う影がある。
「晴明」
「なんだ、紅蓮」
 紅蓮、と呼ばれた騰蛇は何か言いたげな面持ちをして、金色の瞳で己が主を見ていた。
は……」
 その先を……騰蛇の言わんとしているところを察して、晴明はゆっくりと首を振った。
「恐らくは……明朝までもたんだろう。……傍にいてやってくれんか、紅蓮よ」
「……分かった」
 踵を返した騰蛇の背を見送った晴明の元へ一陣の風が吹く。
 空気が僅かに揺らめいて、そこに現れたのは鳶色の長い髪をもった神将、六合だった。
 あまり感情を表に出す事の無い彼が、少しばかり驚いたような顔をしている。
「どうした、彩輝」
「騰蛇が……あのような表情をするところを始めてみた」
「ああ……そうだな……」
 六合のその言葉に、晴明は頷き、そして呟いた。
 あのような……今にも泣きそうな顔をした騰蛇の表情をわしも始めてみたよ、と。


 体が重い……。
 あぁ、どうしてこんなにも呼吸が苦しいのだろう。
 喉が詰まる。
 熱い。
「……――――――ッ、は」
 思わず身を起こして咳き込んだ。
 パタパタと手の隙間から喀血した血が滴り落ちる。
 二度目の喀血。
 口元をぐっと手の甲でぬぐって、は重たい体を引きずるようにして褥から這い出した。
 何故か無性に、降り積もる雪が見たかった。
 これが見納めになるであろうことを、自身で感じていたからかもしれない。
 廂をぬけて、勾欄によりかかる。
 一度呼吸を整えて、階をゆっくりと降り白い雪に爪先をつけた。
 ひやりと伝わる感触が心地いい。
 両手を伸ばして雪に触れ、はそのまま倒れ込んだ。
 長い緑なす黒髪が雪の上に散る。
 全身に染み渡っていく、雪の冷たさ。
 身体の体温と同化して、少しずつ呼吸が浅くなっていく。
 目を閉じた、の瞼裏に蝶が舞っていた。
 それはもう白くはない、紅く色づいた真紅の蝶。
 来るべき時がきた、その証。
(ああ……消える)
 吹く風に掻き消されるように、もうじき。
 消える。
 灯火が。
 ふっと全身の力を抜いたの身体を、誰かが掬い上げるようにして抱きかかえた。
(誰……?)
 朦朧とする意識の向こう、聞こえるのは望んでいた、自分が最も愛しいと思う人の声。
「―――…は!! !!!」
「と……だ?」
 重たい瞼を持ち上げて、自分を抱きかかえる腕の主を見やる。
「何をやってるんだ!」
 怒鳴られて、は小さく首を傾げる。いや、傾げようとしたが最早その余力すら残っていなかった。ただ開いた瞼を僅かに細めて、金色の瞳を見つめる。
「雪が、見たくなった」
「褥からでも見られただろう!」
「触れたかったの。直に」
 そうしてそっと指を動かしたの口元に、血の跡を見て取った騰蛇は形の良い眉を僅かにゆがめた。
 を抱えあげたまま部屋へ戻り、彼女を再び褥に横たえる。
 白い頬にはありありと死相が見て取れた。
 目の前で死に行く少女を前に、己の力の無さを歯がゆく思う。
「貴方らしくもない、そんな顔」
 目を細めて笑う。
 そのの眦から伝ったものをみて騰蛇は瞠目した。
 涙……。
「情けない……今になって、死ぬ事が怖いと思うなんて」
 流れた涙を誤魔化すように、再びは微笑んで騰蛇を見る。
 力の入らない手を伸ばして、騰蛇の頬に触れた。
「騰蛇……そんな顔をしないで。私は、貴方にはいつも……笑っていて欲しい。そのような顔をされることを望んだのではないのだから」
 の手を己の手で掴むようにして、騰蛇は目を伏せる。
 にこりと微笑んだに、何かを決意したように騰蛇は伏せた瞼を上げた。
「お前が望むなら……。晴明より与えられた俺の名を、お前にやろう」
 驚いて、は目を丸くする。
 晴明より与えられた騰蛇の名前。
 それは何よりの至宝であるはずなのだ。
 昌浩は生まれながらにして、その名を呼ぶ権利を与えられていたし、自分には生涯その権利を与えられる事などないと思っていたのに……。
「……本当に?」
 震える声音で訊ねたに、騰蛇は静かにけれど確かに頷いた。
「ああ」
「ありがとう。すごく、嬉しいよ……冥土の土産に持っていくね」
「持っていけ。俺の名は―――紅の蓮。紅蓮だ」
 の顔が泣きそうに歪む。
 最後の最期に、これ以上ないほどの幸せを与えられた気がした。
「好きだよ、紅蓮……」
 ふっと微笑んで、は目を閉じた。
 そうしてそれきり、二度と瞳を開くことなく……。
……」
 ぱたり、と騰蛇の頬に当てていた手が力なく滑り落ちた。
 そうしてそれが、彼女の最期。
 まるで眠っているように安らいだ顔をしているの額に、騰蛇はそっと口付けを落とした。




 蝶が舞う。

 ひらひらと。

 何かを伝えるように。

 さんさんと降りしきる白雪の中を、

 紅の蝶が、静かに舞い続けていた。



 遠い昔の、真冬のキオク。
 一人の少女が旅立ったその瞬間、誰よりも優しい炎の神将がひっそりと流した悲しみの涙は。
 誰にも知られることなく、雪の中へと滲んできえた。











H16.08.06 橋田葵







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