scherzo ―諧謔曲―

V



 現在プラント王国の女王ラクス・クラインは行方を絶っている。その消息すら不明のまま、すでに一月が経とうとしているが彼女の不在を知っているのものは極僅かであり、なんとしても隠し通さねばならない。けれど玉座が開いたままでは、やはり不審に思う者が出てくるのだ。公の場に滅多に姿を表すことの無い女王ではあるが、それでも既に一月。そしてこれから先、彼女が戻ってくるまでの間玉座がカラのままでは困ると言い出すものも出てきたのだという。
 アスランとキラの報告によれば、昨日保護した身寄りの無い娘は髪色や瞳の色こそ違えど、背格好も声も女王とに似ているという。人前に姿を出す際もヴェールで顔を隠している女王ならば多少顔が違ったところでバレる心配も無い。一部の間でならばちょうど良いではないか、という声があがり…。
「つまりあいたままの玉座に、彼女を?」
 据え置いてしまおうと、そういうことなのだろう。
 どうか嘘だといってくれ。アスランの祈りもむなしく、バルトフェルドは実にあっさりと頷いた。
「いっちまえば身代わりだがな」
 身代わり。何の身分ももたない、関係も無い少女が女王の身代わりをさせられる。ことの重大さにアスランは顔を顰める。女王とは玉座とはそんなに軽いものだったのだろうか。ただの一般人が座っても構わないといえるほどほものだっただろうか。そんなわけがない。
 無茶苦茶だ。
 アスランは上司の手前、頭を抱えたくなる衝動を必死に抑えた。が、眉間の皺は明らかに彼の心情を物語っていた。
「本気ですか?」
「その娘にとっても悪い話じゃないと思うがな。大体、いつまでもキラの家にいるわけにもいかんだろう?」
「それはそうかもしれませんけど」
 しかし、だからといってこれは。頷けない。頷いてはいけないと思う。ただ一人を主と仰ぎ生涯忠誠を誓った女王付きの騎士としても、ラクス・クラインの婚約者としても。そしてプラントに住む国民の一人としても。彼女が無事戻ってくるまで玉座は空けておくのが正等ではないのだろうか。
 上司の目を真っ直ぐに見て、アスランは自分の意思を素直に告げた。
「俺は…賛成しかねます」
 だが彼一人が反対したところで、おそらくこれはもう決定事項。バルトフェルドがアスランとキラに告げた時点で、二人のこれからの仕事は決まっている。
「それに納得するとも思いませんよ、彼女が」
「それでも納得させてもらわないと困るんだ。こちらとしても」
「父は…上層部はこのことを…」
「ご存知だ。…というよりこれは、ザラ宰相閣下の命でな。逆らえんよ、どうあってもな」
「ザラ閣下の…?」
 キラの呟きにアスランは目を伏せた。
 プラント国の最高権力者は女王だ。けれど女王が不在の今、実質的なトップは宰相であるアスランの父。
 何を考えているのだろうか、あの人は。ラクス・クラインとの婚約も、そもそもは父が勝手に決めたことなのに。いなくなった女王を案じるどころか、空になった玉座を。体裁を先に取り繕おうとするとは。
 疎遠になっている実父を思い浮かべて、アスランは苦いものが胸に広がるのを感じた。


 バルトフェルドが出て行った後、しばし無言の空間と化した室内に響くペンを走らせる音。
 その音を傍らに、アスランは頭痛を堪えるかのように額に手を置いて俯いていた。キラがちらりと彼を見やるが、それにも気付かぬ様子で物思いにふけている。ぴたり、と手を止めたキラは窓の外に目をやり、そこから微かに見える雪の積もった小さな礼拝堂を見た。もうじき6時課(正午)の鐘が鳴る。
「…ねえアスラン。礼拝堂の炎さ、見たことあるよね?」
「は? そりゃもちろんあるけど…いきなりなんだ」
 突然の幼馴染の問いにゆるく顔を持ち上げたアスランは胡乱気に彼を見やった。端正な顔に今は微かな疲れと苛立ちが見て取れる。アスランの視線を受けてキラは困ったように微笑した。
 礼拝堂の炎……中央の祭壇に祀られた幾何学模様のあしらわれた白い球体の中、青白く輝く美しい炎だ。城に住むものならば誰でも見たことがある。それが一体なんだというのだ?
「僕も前に人づてにちらっと聞いただけだから、本当かどうかわかんないけど…あれってね、王の命なんだって」
「王の…命?」
「うん」
 キラの話によればこうだ。礼拝堂に燈された青白い炎。決して消えることの無いそれをだれも不思議に思うことは無かった。キラも、そしてアスランも例外ではない。
 プラントは魔術の盛んな国だ。この国に生を享けたものであれば魔術は誰もが目にしたことのある、極日常的なものだ。多少理を違えることがあっても、それに対して疑問を抱く人は少ない。それが魔術というものだと皆納得しているからである。ほづみが別の世界から来たかもしれないといったことを疑わなかったのも、実はそういういきさつがあるのだ。
 話がずれたが、礼拝堂の炎のともし火が消えずに燃えているのはただ魔術でそうさせているだけなのだと思っていた。実際間違ってはいないだろう。それが王の命とつながっている、というだけで。つまりキラが言いたいのは、あの炎は王の命。炎が消えず燃えている間はラクスは無事だと。どこかで生きている、だから安心しろとそういいたいのだろう。
 ラクスを案じるアスランを励まそうとした、キラなりの気遣いだということに気付いたアスランはやはり少し安堵して、表情を和らげた。


 それからキラの始末書が全て書き終えたのは、晩課の鐘(午後六時)が鳴り終えてさらにしばらく過ぎてからだった。
 冬の日没は早い。すでにとっぷりと日も暮れた町並みを、朝からずっと篭っている執務室の窓から眺めたアスランは呆れたように幼馴染を振り返った。
「終わったか?」
「なんとかね」
「全く。俺のは昼過ぎには終わってたぞ?」
 机につっぷすキラの頭を軽く小突くと紙の束を腕に抱える。これのせいで結局今日は修練の一つも出来なかった。
「さっさと出して、夕食にしよう」
「うん」
 そうしてアスランとキラが書き終えた始末書を揃って提出に行く頃、ヤマト家にいるほづみはカリダと共に和やか夕食の準備をしていた。