3.




 朝食の支度に勤しんでいたは背後からルックに呼びかけられ、驚いたように振り向いた。青い瞳は見開かれ、手元の包丁がトンとまな板に落ちる。
 それと同時には前に向き直って、慌てたように水場へと走って行った。どうやら刃先で手を傷つけたようだった。

 ルックがここへ来ておよそ一月。
 その間が言葉を発した事は一度も無かった。それと同じく、彼女は笑顔を見せる事すらしなかった。十にも満たない幼い子供が、全く笑顔を見せないことほど不自然なものはない。
 は笑わないのではなく、笑えないのだとレックナートは言っていた。
 それを聞いたルックは密やかに、何とかを笑わす事は出来ないだろうかと考えたものだったがどれも無駄に終わっていた。
は微笑すら見せる事がなかった。それと同時に怒りの表情も見せることがない。
 意志の疎通などは初めてにあったとき、彼女がしたように指文字でとることが出来るし、そうでなくても何となく言いたい事は察する事が出来るので問題はなかった。

「大丈夫?」
 を追いかけたルックは水で指先を流しながら渋面を浮かべるに声を掛けた。
振り向いたは首を振り掛けて、頷きに変える。呆れたようにルックはの横に立つと手元を覗き込んだ。
 水桶の澄んだ水の中に、紅い液体がじわじわと滲み出て水の色を赤く染め替えている。
 傷事体は酷くないようだが些か出血が多いように感じられた。
 溜息一つ。
 水の中に手を突っ込んでの手を掴みあげる。どくどくと流れ出る血液は二人の伝い、ぽたりと水面に滴り落ちた。
「知ってた? 水に浸けてると、余計に出血って止まらなくなるんだよ」
 それをきいて泣きそうに歪んだの指先の血を手近な布で拭ってやって、ルックは右手を差し出した。
 一転してきょとんとするの前でルックは短く呪文を紡ぐ。柔らかな風と光がの手を包み込んで、それが消えたとき指の傷はじくじくとした痛みとともに綺麗に消え去っていた。
「―――ッ!」
 驚いたように自分の手元とルックを交互に見やる
 ルックは事も無げに水桶を持ち上げると中の水を外に流した。
『すごいね、ルック』
 ルックの手を掴み、ひっぱって少し急いだように文字を綴る。読み取りかねてルックが首を傾げていると、もう一度同じ言葉をは綴った。
「すごくないよ。ただ……紋章の力だから」
『ううん、すごいよ!』
 首を振ってそう綴り、は少しだけルックに向けて笑みを見せた。それはすぐに消えてしまったけれど、少なくともルックが見た初めての笑顔だった。
 目を見張るルックをよそに、傷の癒えた手を握ったり開いたりを繰り返して、再び朝食の準備に取り掛かるべく台所へ戻って行こうとしたをルックは慌てて呼び止めた。
先程を呼んだ本来の目的をすっかり忘れるところだった。
、あのさ」
 なぁに、と唇が動き小さな頭が傾ぐ。
「後で一緒に来て欲しいところがあるんだ」
 ルックの言葉にはいいよと頷いて、朝食が終わったらね、と指文字で付け足した。

 師となったレックナートに、先ごろ聞いた話があった。
 この魔術師の島の北側に古い大きな木がある。その木は数十年、あるいは数百年に一度花を咲かせるものなのだと。長い時を生きるレックナートですら、片手で数えられるほどしか花が開いたところを知らないのだと言う。
 興味を持ったルックは一度、一人でその木を探しに言った事があった。
 森に囲まれ守れるようにしてあるそれは、圧倒されるほどに大きく威厳に満ちていた。
 レックナートの言うとおり、とても古い木であったけれどだからこそ、包み込むような屋椎雰囲気を醸し出しているように感じられた。
 それを一度、にも見せたいと思ったのだ。
 木の周りにはの好きそうな植物も沢山あったので、きっとは喜ぶと思った。
 の手を引いて、急く気持ちを押さえながら覚えた道を歩く。
 しばらく歩いて、光が差し込むその場所に古木はあった。
「あ……」
 ルックは古木を見あげて声を上げる。同じようにして木を見あげたは、目をぱちくりとさせ、ゆっくりと手を伸ばした。天に向けた掌に、薄い青を纏った花びらが乗る。まじまじとそれを見つめ、驚いたようにルックを見るとルックも驚いたようにの掌を、正確にはその上に乗った花弁を見つめていた。
 古木は花を咲かせていた。
 滅多に見られるものではない。あるいは奇跡。そうとしか言いようの無い瞬間に、巡り合ってしまったのだ。
 沢山の花を咲かせて花びらを落とす。その様はいっそ幻想的であり、神聖的なものでさえあるように感じた。
 木を見あげ見つめていたが頬を紅潮させて、笑った。
 心の底から嬉しそうに。喜びに溢れた、笑顔。溢れんばかりの笑みは無垢で、純粋で。それはルックがずっとみたいと、いつかさせたいと想っていた笑顔だった。
 掌の花びらを握り締めて、は唇を動かした。
「あ……り、がと。る、く」
 それは確かに音としてルックの耳に届いた。初めて聞くの声は、彼女によく似合う可愛らしいものだった。
 ルックは驚きと喜びをない交ぜにしたように、笑う。
 求めていたものを手に入れられるのはこれほど嬉しいものなのだと、生まれて初めてルックは知った。
 古木はそれから一度も花を咲かせる事はなかったが、二人にとってそれはよき思い出となり、そこはそれから先も幾度と無く足を運ぶ場所となった。




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