月光

第七話



 暗い場所に立っていた。右も左も、上も下も分からない空間。じわじわと押し寄せ肌に絡み付いてくる冷たい闇に、寒いわけでもないのに体が震える。ここはどこだろう。
 灯り一つ無く、自分の体すら満足に見ることの出来ない完全な闇の中。耳を済ませれば無音の空間に、ほんの微かに胎動のようなものが聞こえてきた。
 とくん、とくん、と規則正しく。ゆっくり穏やかに。それはまるで人の鼓動。母体の中にでもいるようだとは思った。
 ここは紋章の見せる世界なのだろうか。そうであるならばあながち間違ってはいないのかもしれない。紋章はすなわち神。世界を作り出した人の、母。
「これは紋章の意思ですか…?」
 の問いかけに応えるように、小さな光が生まれる。一つ二つとそれは数を増し、やがて闇全体を覆うほどのまばゆい光と化した。突然の光に視界を焼かれ、痛みを歌える眼を誤魔化すように強く瞼を閉ざす。瞼越しでさえわかるほどの鮮明な光が収まるのを待って、ゆっくりと目を開けた。
 そこはどこかの街の風景だった。
 道行く人々の表情は明るく、活気に満ち溢れている。道端では子供たちが無邪気に駆け回り、大人たちは微笑ましく見守っている。立ち並ぶ家々に、街路沿いに植えられた手入れの行き届いた樹木。広場の噴水は飛沫をあげキラキラと美しく太陽の光をはじいていた。ゆっくりと振り返れば、の視界に飛び込んできたのは聳え立つ荘厳な城。はためく国旗に、そうかと頷いた。
 ここは赤月帝国首都、グレッグミンスターだ。現在はトラン共和国と改名されているが、改名される前の街だろう。
 しかし何故ここへ自分は連れてこられたのだろうか。黒髪を揺らして首を傾げたの傍ら、二人の少年が駆け抜けていった。
「…?」
 の知る彼よりは幼い顔立ちではあったが、紛れも無く少年の一人はその人だった。浮かべる笑顔は無邪気で、の知らないものだ。彼は友人らしい少年と二人広場を抜けて走り去っていった。
 その背を見送って空を仰ぐ。太陽の眩しさに目を細めて手を翳し、再び視線をが走り去っていった方向へと向けた。
 どうやらここは実在の世界ではないらしい。紋章が見せる過去の世界なのだろう。風の優しさも、水の冷たさも、太陽の暖かさもには感じることが出来なかった。
 何を見せようとしているのだろうか。これはの宿す紋章の意思なのか、それともレナンの宿す紋章の意思なのか。にはまだ分からない。
 何かがあるのだろう。この過去の世界に。紋章が見せようとする、とても大切な何かが。だからこそは招かれたのだ。
 小さく息を吐き出して、と少年の後を追った。

 彼らは街中にある屋敷の中へ入っていった。立派な建物だ。帝国6将軍の内の一人、テオ・マクドールの屋敷。の生家、なのだろう。
 が扉に手を当てるとその手は扉に触れることなくすっとすり抜け、なんに障害も無く家の中に入ることが出来た。戸惑うように扉を自分の手とを交互に見やり、どうしようかと悩んでから一歩を踏み出す。他人の家を勝手に歩き回るのは些か気が引けたけれど、誰にも見えていないのだ。この際痛む良心には目を瞑ることにしよう。
 一階を回ってみるが彼の姿は見つけられなかった。ならば二階だろうかと階段を上ったマナは直ぐにの姿を見つけることが出来た。広場を一緒に駆け抜けていった少年と二人、楽しげに話をしている。とても親しい間柄なのだろう。打ち解けた雰囲気だ。
 二人の会話に耳を傾けようとしてみても、何故かには「」という彼の名を聞き取ること以外適わなかった。他の言葉は全て薄ぼんやりとして、頭の中に何一つ残らない。  その不可思議な現象に首を傾げているとふいに、景色がぶれた。一見何も変わらないように見えたが、聴覚はその変化を確実に捉えていた。屋敷を激しく打ち付ける雨音が聞こえる。窓の外に視線を向ければ空には重い雨雲が立ち込めていて、大粒の雨が窓を激しく叩いていた。目の前にと少年の姿はない。
 バタバタと慌しく駆け抜けていく複数の足音。の前を通り抜けていった彼らは、一つの部屋の中に入っていた。後を追う。戸に手をつくとやはりすっとすり抜けて、抵抗無く部屋に入ることが出来た。
 部屋の中には傷ついた少年が一人ベッドに横たわっていた。全身に酷い怪我を負っていて、何か必死な表情でに頼み込んでいる。はそれを悲しげな顔で聞き一度は首を振るが、やがて少年の必死さに折れたように頷いた。
 笑んだ少年はに向かって、ありがとう、と確かにそう口にした。
 事の成り行きを見守っていたははっとする。傷ついた少年のグローブをが外し、そこに現れたものに驚愕し目を見張った。
 紋章だった。紛れもない真なる27の紋章のうちの一つ、生と死を司る紋章。ソウル・イーター。宿主の近しい人間、大切な人の魂を喰らい糧とする、闇に属する紋章。ゆえに宿した人間は人と触れ合うことを極端に恐れ、必要以上に踏み込まず距離を置こうとする。の瞳の奥にある翳りを思い出した。彼もまた、紋章に大切な人の魂を持っていかれたのだろう。
 真の紋章を宿した人の定めはいつだって、悲しいものばかりだ。
「こんなものが、あるから…」
 人は傷つく。争いが起こる。多くの涙が流されて、怒りと悲しみ、憎しみに大地は焼かれるのだ。
 
 継承が行われる。

 少年の手からの手へと託された紋章は、同時に彼にとてつもない思い定めを背負わせることになるだろう。
 きゅっと眉根を寄せ、目を伏せたの周りを包み込むように風が取り巻く。ふわりとマナの法衣と黒髪を揺らす。風が止み、落としていた視線を持ち上げたはそこに見慣れた少年の姿を見つけて黒曜石の瞳を見開いた。





H22.09.22 橋田葵



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