月光

第六話



 ――――…ル…ック……。

「……?」
 はっと顔を上げたルックは翡翠の瞳を見開いて、部屋の中を見渡した。一瞬ぞわりとした悪寒が背筋を駆け抜けていった気がする。浮かしかけた腰を落として、妙に脈打つ鼓動を抑えた。の声が聞こえた気がしたのだけれど、気のせいだったのだろうか。神経を研ぎ澄ます。触れるものは、ない。
「……」
 翡翠の瞳をきつく閉じて、ルックは首を振った。寄せられた眉根は苦悶を表すように。そうだ気のせいだ、聞こえるはずがない。だってはもうここにいないのだからと自分に言い聞かす。落ち着かない鼓動を宥めるように深く息を吐き出し天井を仰いだ。
「ルック様」
 今度は幻聴ではない。はっきりと名を呼ばれてルックがゆるゆると首をめぐらせば、開けた扉の横に立ち此方を伺い見る少女がいる。月明かりを思わせるプラチナブロンドの髪と冴えた氷のような青い瞳。失われたシンダル族の言葉を読み解くことが出来る、稀有な力を持つ少女…セラ。彼女もまた持って生まれた力ゆえに、ハルモニアという国に囚われていた者の一人だった。
「セラ、どうかしたかい?」
 ルックの問いかけにセラは目を伏せるとしばし逡巡したように視線を彷徨わせる。氷の瞳がルックを静かに見据えた。
「お疲れなのではありませんか。少しお顔の色が優れないようですが…」
「いや…大丈夫だよ、セラ」
 軽く手を振って答えると、ほっとしたように表情を緩めるセラに微かな罪悪感を抱いた。
 常にルックに追従する彼女の、自分に対する想いにルックは気づいていた。気づいていて尚、ルックは知らぬふりを続け、あまつ彼女の思慕を利用してさえいる。酷いことをしているとは思う。けれどセラの力はルックの立てた計画に必要不可欠であったのだ。セラもきっと納得はしていなくても理解はしているのだろう。ルックの命に対し、彼女の口から拒否の言葉が出たことは今まで一度もない。
セラに対して愛情がないわけではないのだ。元々その力を必要としてハルモニアから連れ出してきたのだとしても、それこそ自分の娘のように育ててきたセラにつらい思いをさせているのだという思いが、ルックに罪悪を抱かせていた。
 本当は争いごとを望まない性格であることを知っているから尚更に。
 けれど彼女の力なくして、この計画を完遂することは出来ないのだ。
 テーブルの上に無造作に置かれたままの仮面に手を伸ばす。自分の素性を、そして弱い自分自身を隠すためにつけることを選んだ仮面。それが今は少し重く感じられたのは、やはり疲れているからなのだろうか。
 吐き出した吐息は予想以上に重い。
「疲れた、かな…」
 聞き取られない程度に小さく呟いたルックの元へセラが一歩近づいた。髪留めが微かな音を立てて揺れる。
「あの、ルック様」
「準備に…取り掛かってくれるかい、セラ。それとこの部屋にはしばらく誰も近づけないでくれ」
 何かを言いかけたセラの言葉を遮るように促すと、セラは頷き一瞬だけ何か言いたげな瞳でルックを見たがそのまま部屋を出て行った。
 セラの後姿を見送って、心の中で謝罪する。今は少しだけ一人になりたかった。
 靴音が完全に消え去った後、ルックがポケットから取り出したのは小さなアクセサリーだった。ともすればなくしてしまいそうなほど小さなそれは、が去ったあの夜に彼女が自分の元に残していったものだった。何を思いこれを残して言ったのか、ルックには未だその意図が分からずにいる。握り締めるように額に押し当てて、愛しい人の名を口に載せる。
……」
 君が何を思って僕の元を去ったのか、わかってはいるけれど。
 彼女がいなくなって初めて、自分がどれだけ彼女に依存していたかを知った。
「時間がないんだよ、
 その呟きはとても苦しげだ。
 かつて彼女が言っていた言葉が脳裏に蘇る。

『私たちは、人に作られた存在。人為的に生み出され、偽りの命と体を持つもの。この体に流れるのは人と同じように赤い血潮で、刃物で傷つけられれば血は流れ、真の臓を貫かれれば終わりの瞬間が訪れるけれど…私たちに相応しい最後は”死ぬ” ではなく、”壊れる”なのかもしれませんね』

 どの会話で、どんな話の流れでそういう話題になったのか覚えていない。ただ深く刻み込まれたその言葉。遠くを見ながら彼女が口にしたそれが忘れられずにいたのは、紛れもない真実であったからだ。
 時間がないのだ。人と違う生まれ方をし、尚且つ不完全な容器として生まれてしまったルックには…。
 キシリと体の奥で軋む音がする。
 残された時間は少ない。ならその時間の中で出来ることをしたいのだ、とルックは思う。
 世界を救うだなんて、そんな傲慢な事を言うつもりはない。結果的に人によってはそう捉えられることになるかもしれないが、ただ自分が望むのは紋章からの解放だ。運命と言う名の鎖から人を解き放ち、本当の意味で自由にしたい。紋章同士の争いに巻き込まれること無く、人が人の意思で動ける世界に。
灰色の夢が見せる世界の終焉、人の息絶えた世界に残るのは紋章のみ。秩序の完成系を紋章は望んでいる。
 だから壊す。世界を構成する27の真の紋章のうち一つを壊せば、灰色の未来は訪れない。人の未来は守られる。そう信じてこの計画を始めた。そのために多くの命が犠牲になるのだとしても、世界中に存在する数多の命と比べれば微々たる物だ。ほんの一握りの犠牲で世界が救われるなら…。
 ルックの考えが正しいのか、間違っているのかなんてこの際どうでもいいのだ。
 自分の起こしたこの戦で多くの人が嘆き悲しみ、憎しみを自分にぶつけてくるだろう。けれどそれでいい。どうせ残りの少ない命なのだから、どれほど人に憎まれようと疎まれようと関係ない。
 心が痛んだとしてもそれは気のせいだと言い続けられた。耐えることも出来た。が、彼女が傍にいたから。
 翡翠の瞳を細めてルックは呟く。きつく握り締めた手の中には、唯一残された彼女との縁。
…逢いたいよ、君に」
 何処にいるのか知れない君に、ただ逢いたいと願う。
 この命が尽きる前に、どうか君と、もう一度。





H22.09.12 橋田葵



前頁 / / 次頁