月光

第八話



 が知っているものよりも、出会った頃よりもずっと幼い顔立ちだけれど、間違えるはずがない。柔らかな色味のブラウンの髪。緑の法衣。人の背丈ほどもある石版にもたれるようにして腕を組み、目の前に立つ人物を翡翠の瞳でじっと睨むように見据えている彼は。
「ルック…」
 思わず出たの声にも反応することない。少しばかりの寂しさを覚えるが、ここは過去の世界であって本来は存在していないのだから仕方がない。立ち尽くすの耳に二人の会話が届いてくる。不思議なことに、とルックの会話は驚くほど鮮明に聞き取ることが出来た。

 を見据えて明らかに不機嫌ですといわんばかりのルックの表情に、は苦笑しつつ片手を挙げて彼に挨拶をした。
「やぁ、ルック」
 じとりと目を眇めてを睨んだルックは腕を組み替えて、わざとらしくため息をついて見せた。
「何しに来たのさ」
「わ、相変らず冷たい反応」
「…あんたさ、いつもいつもここに来るけどほかにやることないわけ? そんなに暇なのかい、軍主ってやつはさ。そんなことしてる暇があるならとっとと仲間集めにでも行ってきたら。石版の名前はまだ完全に揃ってないんだから」
「いや、僕も暇ってわけでもないけどさ。ルックいつも一人だしつまらないんじゃないかと思って遊びに来たんだよ。仲間集め? それなら一緒に行こうよ。ルック暇でしょ?」
「暇じゃない。見て分からないかい。大体余計なお世話だし、鬱陶しい」
 ぴしゃりと言い放つルックには肩をすくめる。
「酷い言い草だなあ」
 冷たい態度に少しもひるむことなく、寧ろ楽しげに笑みを浮かべるにルックは疲れたように額に手を当てた。いつも以上に眉間に皺が寄り、彼の心中を雄弁に語っている。全くこいつはいつもいつもいつも一体何なんだ。睨みつけても何処吹く風、きつい言葉を浴びせてみても全く気にした様子もなし。可笑しいんじゃないのか?
「…こんなところで油売ってるからマッシュに小言言われるんじゃないのかい?」
「凄いねルック、何で知ってるの?」
「少し考えればわかることだよ。馬鹿なんじゃない」
 馬鹿なんじゃない、じゃなくて馬鹿だこいつ。
 心底感心したように呟いたにルックは心中そう呟く。本当になんなんだろうか。レックナートに命じられたのでなければ今すぐにでも、この城から立ち去ってしまいたいのに。しかし師である彼女にの命には逆らえないし星に組み込まれた身である自分はこの戦争の行く末を見届けなければならない。全く腹立たしい。れ合うのは好きじゃないのに。
 軽く舌打ちをしてルックは足元に適当に積み上げた本の一冊を引き抜くと、の存在をさっぱり無視してパラリと頁を捲った。
「ルック? おーい、ルックってば」
「……」
「えー、無視? ねぇ、無視なの? 流石にそれは酷いんじゃないかと思うんだけど、ルックってばー。僕一応軍主だよ?」
「………(イラっ)」
「ルックルックルックルックー?」
 しつこく名を連呼されるとさしものルックも本に集中できず、半ば投げやりになって勢いよく本を閉じた。パンッと響く高い音にが驚いたように目を丸め、言葉を止める。
「あのさ」
「え、何なに?」
「あんたさ、自分の顔鏡で見た?」
「鏡ならとりあえず朝見たけど…なんで?」
「だったらさっさと部屋帰って寝ることだね」
「…ごめん、ルック。さっぱりと意味がわからないんだけど」
「あー、だから! そんな青い顔でふらふらされてたら気になってしょうがないんだよ。倒れられでもしたらそれこそ堪らないね。あんた仮にも軍主だろ? 自覚があるかどうかは知ったことじゃないけど、だったら自己管理ぐらいで出来なくてどうするのさ」
「……え?」
「何、聞こえなかったわけ? その耳は飾りかい?」
「いや、そうじゃなくて。驚いたぁ」
「は?」
 胡乱気に聞き返す、ルックの眉間の皺が増す。
「ルックって意外と優しいんだね。知らなかったよ」
「ばっ…、何馬鹿なこといってるんだよ!」
「あー、ルック照れてる」
「いい加減にしないと怒るよ!」
「もう怒ってない? それに大抵いつもルックってば怒ってるじゃん。そんな今更―…って危ないな、本気で切り裂き発動しなくても…」
「今度は本気であてるよ」
 疑問系ではなく確実に当てると宣言するルックに、流石にも退散時と悟ったらしい。にこりと笑みを浮かべて一歩、下がった。
「はいはい。そろそろ退散するよ。ありがとね、ルック。じゃあまた来るよー」
「もう二度と来なくていい」
 しかしそんなルックの言葉をさらりと無視し、とてつもなくにこやかには立ち去っていった。
 台風一過。やっともとの静けさを取り戻した石版の部屋で、ルックはうんざりといった様子のため息をついて片手に持った本に視線を落とす。
 ふ、と。何かの気配に気づいたように視線を上げた。翡翠の瞳が真っ直ぐに向かう、その先には二人のやり取りを見守っていたの姿。

 翡翠の瞳が此方を向いた瞬間、ははっと息を呑んだ。どく、と鼓動が強く鳴ってざわざわと胸の奥が騒ぎ出す。見えているはずがない。ここは過去の世界で、は紋章により飛ばされてきたここに存在しているはずのないものなのだ。けれど胸の奥を騒がすこの感情は、彼の瞳が迷うことなく自分へと向いた期待と喜びなのだろう。
 震える手を口元にあてた、瞬間。
 だれ、と。
 ルックの唇がそう動き、疑問を露にするように首を傾けた。
 瞠目する。ルック、とが唇を動かした刹那。
「……ッ!」
 ぐん、と引きずられる感覚がして意識は闇の中へと。そうして唐突過ぎるほど唐突に覚醒した。

 はっ、短くと息を吐き出す。固い床の上に投げ出されたままだった四肢に意識を向ければ、少し鈍いながらもそれらはの意識に従った。早鐘のように鳴る鼓動を抑え、呼吸を整える。ゆっくりと体を起こせばまだ辺りは薄暗く、さほど時間は過ぎていないようだった。
 俯いた頬に黒髪がかかる。胸を押さえる手は微かに震えていて、ぱたりと座り込んだままの膝の上に温かなものが落ちた。
「ルック…」
 ルックだった。あれは確かに、彼だった。の知らない過去のルック。自分が知っているよりもずっと冷たい瞳をしていて、人を突き放した印象もあったけれどあれは確かにルックだった。
 口元を両手で覆い、喉から溢れそうになる嗚咽を隠す。言葉を交わせたわけじゃない、温もりをあたえられたわけじゃない。ただほんの刹那、彼が此方を向いただけ。意識の片隅に、自分の存在を捉えてくれただけ、なのに。それだけのことに、こんなにも喜びを感じるだなんて。
 嗚呼、逢いたい。たった数日、傍を離れただけなのに。苦しいほどに、狂おしいほどに彼を求めてる。
 はらはらと白い頬を伝う涙は床に落ちて、儚く散った。






H19.09.22 橋田葵



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