月光

第五話



 ゆらり、揺らめく炎。
 淡い光の灯された薄闇の中、の目の前には背を向けて立つ彼の姿がある。胸が痛い。この痛みはあの時から続いている痛み。じわじわと体を苛んで行く遅効性の毒のように。自らを侵し続ける。
「どうしても、行くのですか?」
 ゆっくりと彼が振り向いて、を真っ直ぐに見据えて頷いた。光の空けると時折に金に輝く茶の髪が風に遊ばれて、白い頬にかかる。を真っ直ぐに、けれど少し迷うように見つめる瞳は宝石のように美しい翡翠の色。その色が大好きで、見つめられればいつも胸が切なくなるような愛しさを感じてた。
 彼は本当にどこまでも、綺麗な人で。外面だけではなく、その内面までもが純粋だった。純粋すぎたが故に、その道を選ぶしか出来なかったのだろう。だから、こそ。
「そう、ですか…」
 はそれ以上何も言えなかった。言わなければならなかったこと、言いたかったことは山ほどあったけれど、そのどの言葉も喉に押し込めたまま何一つ口に出せずに。目の前の彼から視線を逸らして頷くことしか出来なかった。
 の心の揺らぎに彼も気づいていたのだろう。
 そっと瞼を伏せて、薄い唇を開く。
「僕は、変えたいんだ。紋章に支配されたこの世界を……灰色の夢が見せる、世界の終焉を」
 人が紋章の意志ではなく、真実人の意志で生きていける世界にするために。
 世界の神たる紋章を砕き、人々を運命と言う名の楔から解き放つ。それが、彼の望み。
 そうして紋章を打ち砕いたとき、紋章の絡みついた彼の魂がどうなるか。
 聞きたくても聞けなかった問い。彼はきっと答えてはくれないだろうけれど、本当は自身すでに答えを知っていた。
 時に関わる紋章を宿した彼女だからこそ、見ることが出来た未来のビジョン。どうあっても彼の死をあらわしていて、何度見ても変わらない。傷だらけで倒れ付したルックの傍らで、は彼の死を嘆くのだ。時司の紋章が見せる、そう遠くない未来。
 が何よりも恐れるのは彼がいなくなってしまうことだ。その未来こそ避けたい、世界の終焉なんてにとってはどうでもいいことであったけれど、彼は憂いている。この世界にやがて訪れるであろう終焉の時を。
 かみ合わないと思った。互いに望むものが違っていて、想う心は同じなのに、願うものは重なり合わない。
 あの時、暗い闇の中から彼が手を差し伸べてくれたとき。初めて光を見出すことが出来たのに、外の世界はこんなにも光に包まれていて暖かいのだと、教えてくれたのに。今また暗く冷たい闇の中へ突き落とされようとしている。何よりも愛おしい彼の手で。
 光を知らなければ闇を恐れることはなかった。けれど光を知ってしまった今、再び孤独の闇に包まれるのは怖い。
 このままここで、今までのように平穏な日々を過ごして…彼が傍にいて。それだけでよかった。それ以上願うものなんて何もなかったのに。
 きゅっと唇を噛み締めるの元へ、一歩彼が近づいて手を差し伸べる。頬に触れる掌の温もり。揺れる翡翠の瞳が間近で覗き込んでいて、顔を上げたに少し躊躇うように彼は問いかける。
、君も一緒に来てくれるかい?」
「……はい」
 拒むことなんて出来やしなかった。
 頬に添えられた手を掴んで握り締めたに、彼は安堵したように微笑んでを優しく抱き締めた。彼もまた拒まれることを恐れていたのだと、このとき初めて知った。ゆっくりと抱き締め返して、互いの温もりが重なり合う瞬間をは何よりも愛おしく感じた。

 名を呼んで、触れ合って。愛する人の温もりに包まれる。
 優しかった日々は、もう二度と戻らない。
 今は手を伸ばしても遠く…掴む、ことすら。

***

 ふと意識が浮上する。ぼんやりとした意識の中で重たい瞼を瞬かせる。薄暗い視界の中に見える天井が見慣れないものであることに気づき、は眉根を寄せた。
 ここはどこだっただろうか。緩慢な動作で額に手を当てて眠る前まで記憶を遡れば、と共にブラス城に来ていたことを思い出した。ここは宿屋の中だ。が出て行った後少し休もうと横になったはいいが、すっかり寝入ってしまったらしい。辺りはすでに夜闇に包まれていて、首を巡らせれば隣に並べ置かれたベッドの上にはいつの間に戻ってきたのかが此方に背を向けるように横になっていた。
 深く息を吐く。
 ゆっくりと体を起こしたは、まだ少し重い頭を抑えるように右手を米神に当てた。何か夢を見ていた気がするけれど…。
「…」
 思い出せない。ゆるく頭を振った。
 喉が渇きを訴えていて、無意識に視線が水差しを探すように動く。テーブルにあったそれを見つけ、立ち上がり手に取るとグラスに半分ほど注いで飲み干した。
 喉が潤ってほっとする。同時に意識もしっかりと覚醒してきた。窓の外へ目を向けると、もうすっかり陽は落ちきっていて、藍色の空にくっきりと浮かぶ月と控えめに瞬く星が見える。室内に視線を戻すと部屋の中が完全な闇に包まれていなかったのは、窓から差し込む月明かりと灯された蝋燭の火があったからなのだと気づいた。
 の視線がへと行く。足音を立てずに近寄れば、がごろりと寝返りを打ちは思わず息を呑む。起こしてしまっただろうか。
「……」
 息を殺すようにしての様子を伺うが、彼の瞼が持ち上がる気配は無くほっと安堵の息をついた。
 仰向けに寝転ろび、健やかな寝息を立てる彼の寝顔はまだあどけない少年のものである。
 は小首を傾げて、眠る彼に問いかけた。
…。・マクドール。あなたはいったい、誰なのでしょうね」
 かつて解放軍を率いて勝利へと導いた、トランの英雄と同じ名を持ち、強い力を持った紋章を宿した少年。彼がトランの英雄その人自身であるのなら、解放戦争の折に解放軍に参加していたルックとは面識があったはずだ。もちろんは、ルックとが親しい関係にあることを知らないだろうし、とルックがどれだけの関係にあったのか知らない。けれど、その彼とが出会ったことは果たして偶然の一言で済まされるのだろうか。
 もしも、これが誰かの意図するところであったのだとしたら…。
「あなたの目的は、何?」
 彼の目的は一体なんなのだろう。何のために自分に近づいてきたのだろう。
 疑う気持ちはないけれど、もし彼が自分の望みを妨げようとしてここにいるのだとしたら?
 は首を振る。何もかもまだ分からないことだらけだ。憶測や推測で答えを出せるはずもない。自嘲するように口元に笑みを乗せ、目を伏せた。

 自分ももう一眠りしよう。そう考えて踵を返そうとしたは、ふとの足元に丸まる掛け布団の存在に気づいた。そういえば彼は何もかけずに眠ってしまっている。そのままでは風邪を引いてしまうのではないだろうかと心配をして、を起こさないように手を伸ばすとそうっと薄掛けを彼の胸元まで引き上げた。
「…っ」
 何かに気づいたの手が、ぴたりと動きを止める。ゆるゆると近づいてくる色濃い魔力の気配。これは何? いったい、どこから…。
 はっと気づいてから離れたときにはもう遅く、はレナンの右手から吹き出るようにして現れた黒い霞に囚われてそのまま意識を失った。
「ルック……っ」
 無意識に助けを求めるように、その人の名を口にして。
 冷たい床の上に、力なく倒れ伏す。





H22.09.10 橋田葵



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