翌朝、起きだした二人は早々に身支度を整え出立した。日が昇りきっていない草原は薄暗く、肌をなぜる風は冷たいけれど澄んでいる。
胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込むと、体も頭の中もクリアになるようだった。
二人がブラス城に辿り着いたのは、陽が中天に差し掛かるより少し前のことだった。
生き物が活動を始める時間より前にブラス城に向かっていたため、先日のように立て続けにモンスターと遭遇することなく無事に到達することが出来た。
ブラス城はゼクセン連邦の騎士団が駐屯する城である。グラスランド領との境界線近くにあるため有事には最前線の砦の役目も果たす城塞だ。そのためか、街中に入ればグラスランド人の姿を見かけることは少なくなった。
何はともあれ二つ目の目的地に辿り着けてほっとする二人である。一つ目の目的地とは言わずもがな、焼き落とされたカラヤクランだった。
「何とか着いたね」
思っていたより早くつけてよかった。そう口にするには頷く。
「ええ。そうですね」
辺りの様子を伺うように視線を走らせるを見て、は気づかれぬ程度に眉をひそめた。道中も思っていたことだが顔色が悪い。ここへ来る途中も時折疲れたようにため息をつき俯いていることが多かったのは、身体的な疲労のせいであるのか精神的なものであるのかには分からなかったけれど、少し休息を取るべきだろう。
「」
「あ、はい。なんですか?」
「宿を取ったら少し休むといいよ。今日はもうここまでで止めにしよう」
「え…でも…」
「無理をして、倒れでもしたらそれこそ、元も子もないんじゃないかと僕は思うよ。気づいて無いかもしれないけれど、凄く顔色が悪い」
穏やかに指摘をされ、頬に手を当てたは口をつぐんで頷いた。その通りかもしれない。急く気持ちがあるのは確かだけれど、体も心もついていけないことを自身気づいていた。酷い疲労感を感じていたのも事実。の言うとおり宿を取ったら少し休ませてもらうことにしよう。
「の言うとおりですね。分かりました。そうさせてもらいます」
「うん。そうして。さ、行こうか」
二人は揃って歩き出す。
ブラス城には強固な城を中心として東西に長く伸びる町がある。町といってもここは城塞であるからとてもこじんまりとしたもので、あるのは道具屋や鍛冶屋、指南所といった類のものばかりだ。宿屋は城の中にあって、向かいには騎士団のためのものだろう食堂があった。
二人が城の中に足を踏み入れてみれば、騎士団の駐屯地であるにも係わらず人気は少なく、どことなく閑散とした雰囲気を漂わせていた。
「人の姿が少ないのですね」
「そうだね。出払っているのかな?」
戦でもあったのだろうか。そんなことを思いながら二人は宿へと入って行った。
宛がわれたのは二階の角部屋。一応仮にも女性であるのことを気遣って、は部屋を二つ取ろうとした。野宿をしていたときとはわけが違う。けれどにやんわりと止められた。手持ちの路銀も多くは無いのだから、無駄遣いをする必要は無い。自分なら気にしないからと。逡巡しただったが、彼女の意見ももっともだったので素直に従った。部屋に足を踏み入れながらは思う。普通なら男であると一つ屋根の下というシチュエーションに、本人には全くその気がなくとも多少の警戒心を抱いても良さそうなものだけれど、には全くそれがない。やれやれと呆れたように溜息をついた。
幸い備え付けのベッドは二つあるわけだし、一晩過ごすぐらいなら問題はなさそうだ。
に視線をやれば、脱いだ外套を椅子の背もたれにかけて窓辺に寄っていた。立て付けが悪いのだろう窓を試行錯誤の末開けて、部屋の中に空気を迎え入れる。爽やかな風が駆け抜けていき、気分が軽くなるようだった。紗織のカーテンが風にはためく様を横目で見やって、荷物を適当な場所へ置くとは麻袋の中を漁る。そうして、小さく声を上げた。
カラヤの事があったから頭の中からすっぽりと抜けてしまっていた。いつまでも持ち歩いていても仕方が無いし、換金できるならしてしまいたい。このあたりに交易所はあっただろうか。
「反対側にあったかな…」
ぽつりと呟くの声に、が不思議そうな顔をして振り向いた。
はあけていた麻袋の口を閉めなおして肩に担ぐと、得物である愛用の棍へと視線を移す。持って行く必要はないだろう。仮に誰かに襲われたとして、体術に覚えが無いわけでは無いし、いざとなれば紋章もある。
「ちょっと出かけてくるよ」
「はい。どちらへ?」
「交易所。あとは街の中を少し見てくる。何か必要なものがあれば買ってくるけど…」
は首を傾げて考える仕草をした後、小さく首を振った。
「大丈夫です。お気をつけて」
に見送られは宿を後にした。
***
が出て行った後、一人になった部屋の中では深く息を吐き出した。片手で目元を覆うようにして俯く。目を閉じれば蘇ってくるのはあのカラヤの惨状だった。焼き落とされた村。未だ残る血の香り。怯えたように自分たちを見つめていた少女の瞳が、頭から離れない。
「ルック…」
あれは、ルックが為そうとしていることのために、本当に必要不可欠なものであったのだろうか。悪戯に命を奪い、怒りや悲しみや憎しみを無益に生み出すことが。
鬱々とした思考を振り切るようには小さく頭を振る。考えていても仕方が無い。今はとにかく体を休めることが先決だ。
顔を上げたは窓の外に視線を移し、ため息を零した。
***
宿を出たは城内を見て回った後、来たときとは逆の西側の町に出ていた。あたりの様子を伺いながら歩いてみるものの交易所らしい看板は見つけられず僅かに肩を落とす。大抵何処の町にも交易所はあるものだが、この街にはないのだろうか。そもそもが要塞としての役割を持つ街であるから必要ないのかもしれない。
だとすると必然的に次の街までこの荷物を担いだまま行かなくてはならないことになるのだが…。
「参ったな」
重さがあるから割と骨である。それだけは勘弁願いたいところだ。
ため息一つ。荷物を担ぎなおしたは道行く人に声をかけることにした。自力で見つけられないのなら訊ねるほかないだろう。
「すみません」
が声をかけた相手は、彼の問いかけに快く答えてくれた。この街の中に交易所はないが、西側の橋に個人で交易を行っている人がいるらしい。個人となると店で買い取ってもらうより値段は安くなるが、無いよりはマシだろう。にこりと笑みを乗せ、相手に礼を述べると橋へと向かった。
交易所というよりも、交易を行っている人間は確かに居た。肩に鳥を止まらせた奇妙な形の男だったが、彼はの持ち込んだ品を予想以上の値段で買い取ってくれた。思わず懐が暖かくなり、しばらくの間路銀の心配をする必要もなくなったのでほっとする。
軽くなった麻袋を担ぎなおして、さてどうしようかともと来た道を振り返った。このまま宿に戻るのもがいいが、もう少し情報集めのために街を歩いてみるのもいいだろう。
ここを訪れたときから思っていたことだが、街の中の空気がぴんと張り詰めているように思う。この感覚をはよく知っていた。
「戦、かな」
街の人々の様子からして、恐らくの様子は外れていないだろう。何処と無く落ち着かず、不安げな面持ちの婦人も多い。兵士の姿が少ないのは遠征に出ているためなのかもしれない。
立ち止まっては空を仰ぐ。晴れ渡る空に燦然と輝く太陽は厳かに、けれど優しく地上を照らしている。眩しさに一度目を閉じて、右手を瞼の上に翳す。「テッド…」呟いたのは、今はもう居ない大切な友の名前。
戦などむなしいだけだ。罪もない沢山の命が奪われて、流される涙はあまりにも悲しく。続いていく怨嗟。得られるものなど失うものに比べたら微々たる物でしかない。戦の中で得た栄光など、刹那の間に失われてしまうのだ。残るのは多くの人の命を奪ったことに対する重責と、虚しさだけ。
この戦は悲しすぎる。グラスランドの人々とゼクセンの人々が争いあう切欠になったもの。その真実を知るものはほんの一握りしかいない。ももそれを知っていた。知っていたのに止めることも出来ず、今はただ傍観者でいるしかなかった。
傲慢な人間が生み出した、一つの悲しき命。その唯一つの願いのために、この大地は犠牲とされようとしている。
「だけど僕は、彼を責められやしないんだ。本当は…止めることすら出来なかったんだから」
今また自らの意思で戦渦に加わろうとしている自分を、君は愚かだと笑うだろうか。
出来ることなら、僕は。
もう二度と、大切な友人を失いたくないんだ。
***
しばらく街中を歩き回り、そろそろ戻るかと踵を返したはふとしった気配を感じて足を止めた。紋章が静かに脈打つ。
「これは…」
とても懐かしい、昔感じたことのあるものだ。強い独特な魔力。惹かれるように足を向けたのは、紋章屋の看板を掲げた店だった。
ドアベルを鳴らして中に入る。少し薄暗い店内、カウンターの向こう側に座る人物を見てああやっぱりと微笑を浮かべる。その人物はが来ることに気づいていたようで、少しも驚く様子を見せず人間離れした美しい顔に妖艶な笑みを乗せた。
「あら。珍しいお客さんね」
ふふ、と笑う声音すら艶やかに。
「ジーンさん…久しぶりだね。変わってないな」
「貴方もね、」
彼女はかつて、十八年前の解放戦争で仲間として共に戦った紋章師だった。十五年前の統一戦争でも姿を見かけることはあったが、その容姿も神秘的な雰囲気もあの頃と少しも変わっていない。強い魔力を持っていて、外見どおりの年齢ではないことぐらいしか、はジーンについて知らなかった。謎の多い人だと思う。
少しも損なわれることのない美貌は、更に磨きがかかっている気がする。体にぴたりと添った黒いドレスは些か露出の高いもので、けれどジーンが着ていると彼女の美しさを引き立てるものにしかならないから不思議だ。
「まさかこんなところで逢うとは思わなかったわ。どの後調子はどうかしら…?」
ジーンの瞳がの右手に向けられる。
「ああ…うん。大丈夫だよ。前よりはね、自分の意思で制御できるようにもなったし」
「そう。それはよかったわね。共に生きて行くのなら必要なことだから」
「うん、そうだね…あのさ、ジーンさん。折角あったんだし、ちょっと聞いてもいいかな」
結い上げた銀髪をふわりと揺らして、ジーンは首を傾げる。
「何かしら?」
「落ち込んでいる人を元気付けるには、どするのが一番だと思う?」
「あら」
らしからぬ質問だと思ったのだろう。パープルの瞳を刹那驚きに丸くしてそれからジーンは微笑んだ。
「そうね。気晴らしをさせてあげるのが一番かしら。賑わった場所なんかいいかもしれないわ」
「賑わった場所…」
「この街は少し殺伐としているから駄目ね。この先のビネ・デル・ゼクセでバザールが開かれているから、行ってみてはどうかしら。国内外さまざまなものが取り寄せられているというし、女の子は喜ぶと思うけれど」
なるほどと頷きかけてから、はあれと目をぱちくりとさせた。
「…僕、女の子だなんて言った?」
「ふふ。違ったかしら」
全てお見通し、であるらしい。読めない人だ、本当に。
「敵わないなぁ、ジーンさんには」
肩をすくめて笑い、ジーンに礼を述べるとは紋章屋を後にした。
年長者であるジーンの助言は参考にさせてもらうことにしよう。果たして外の世界を知らずに育ったが、一般的な女性の括りに入るのかどうかは別としても気晴らしになることは確かだろう。
それからが宿に戻ると、はベッドの上に横になり健やかな寝息を立てていた。ここ数日歩き通しであったし、加えて連日の野宿は女性であるにとってはつらいものであったに違いない。が近づいても閉ざされた瞼は震えることもなく。
それにしても、無防備な寝顔だ。は小さく笑う。
荷物を床に置き、窓辺に近づくと開けっ放しになっていた窓を閉めた。昼間は汗ばむほどの陽気であるけれど、日が落ちれば外は肩掛けが一枚必要になってくるほど気温が落ちる。部屋の空気も幾分冷えているようだった。
起きる気配のないの傍に寄ると、頬にかかる髪を指先でそっと払う。
「…頑張って。僕は君の味方だよ。だから、どうか」
全力を持って最後まで、君の味方であり続けるから、挫けずにその意志を貫いて欲しい。
眠るにの声は届いていないだろうけれど、気のせいだろうか。一瞬だけ、の寝顔が穏やかなものになった気がした。
H22.09.08 橋田葵
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