山道を抜け、グラスランドへ入ったのはとが出会ってより二日後のことだった。予想より険しい道のりに苦労しながら山を下り、眼前に広がる草原を目にした時は心底ほっとした。やっとなだらかな道を歩ける。ブーツの底で柔らかな草を踏みしめた時には感動まで覚えたものだ。
しかし草原に出たからといって安心できるものでもなかった。草原にモンスターはつきものだ。商人が護衛を伴って旅をするのもそのためで、モンスターたちは草や岩の陰に隠れて相手の隙を狙い突如襲い掛かってくる。道の舗装された街道沿いに歩いていけばいくらかはマシになるが、それでも敵が現れることに変わりはなかった。
現れる敵の大方は、小さく力も弱いものばかりで簡単に蹴散らせるものばかりである。しかし時に巨大で強力なモンスターが現れることもあった。
現在、との二人は運悪く遭遇してしまったキメラ二体と交戦中である。ここへ至るまでも合計三体のキメラと遭遇した。キメラなど早々出会うものではないのに何故、こんなにも。半ばうんざりとした様子で、二人はそれぞれの武器を構えて敵と対峙している。
「なんだか、モンスターたちがやけに凶暴だね」
「気が立っているみたいですね。何かあったのでしょうか…」
交わす会話はどこか長閑なものだが、にもにも隙は見当たらない。目の前に立ちふさがるキメラは二人の背丈を遥かに越え、鋭い牙と爪を持つ生物だ。油断すれば怪我だけでは済まないだろう。二人もそれを承知しているから一見気を抜いているようで、その実視線は目の前の敵を鋭く睨み付けたまま逸らさない。
じりじりと動かない二人に焦れたキメラが太い足を持ち上げて、攻撃を仕掛けてくる。もう一方のキメラは牙を向き、口から灼熱の炎を噴出した。それを合図とするかのように、との二人は武器を振りかざしキメラに向かって走り出した。
それから数分の後、それぞれの前には事切れたキメラが横たわっていた。二人はやれやれと一息ついて顔を見合わせ、得物をしまいながらキメラに目をやった。
「どうしようか。路銀も確保しておいた方が良いから、角とか牙とかとって売りに行く?」
キメラの前にしゃがみこんだが、鋭い角を指先で撫でながら首を傾げる。
「そう、ですね。そうしましょうか」
路銀は大切である。それほど使用頻度の高い二人ではないが、いつ必要にならないとも限らないし、あって困るものではない。それには女性だ。にとって野宿は日常茶飯事であるし長年の経験で慣れているけれど、には辛いだろう。街が近くにあるならできるだけ宿に止まった方がいい。そのためには路銀がなければ話にならない。幸い、近くにはカラヤの村があったはずだ。彼らは自然のものを上手く利用する術を知っているからそこまで運んでいって買い取って貰えばいい。
そう考えていた二人の予想は、けれど大きく外れることとなる。あまりにも残酷な現実を突き付けて。
カラヤに辿り着くまでは何も無い草原を歩くだけの旅だった。見渡す限り広がる緑の景色は人の手が入っていないもので心が和んだが、しかしそれもカラヤクランに辿り着くまでの事だった。
日が傾き世界が茜色に染まる頃、目的地に辿り着いたとは目の前に広がる惨状に声もなく立ち尽くした。
そこに村は存在していなかった。あるのは焼け野原と化した、村の”跡”。家は炭となり崩れ落ち、木々は倒され家畜は焼かれ、血に染まった大地が広がるばかりだった。僅かに残る血臭には震える手を口元に当てる。風と大地の精霊に愛された村、カラヤクラン。平穏であったはずのこの村に一体何が起こったというのだろう。
カラヤクランの人々は勇敢な戦士としても広く知られている。グラスランドの中でもリザードに次ぐ戦闘力を誇る彼らが村の焼き討ちなどそう簡単に許すはずも無い。だというのにそれは為され、沢山の命が奪われたのだろう。
まさか。頭に過ぎる思いには目を閉じて神経を尖らせる。かすかに触れた魔力の残滓はのよく知るものだった。
これは彼らの…ルックの為したことなのだ。
「酷いね」
の呟きには無言で頷く。これはもはや戦などとは呼べない、ただの殺戮だ。
胸のうちにわだかまるものを吐き出すように、は深く息をつく。これほどに大地を焼いてしまったら、再び生命が住み着けるようになるまでどれだけの時を要することか。
果たして生き延びた村人はいたのだろうか。村の惨状に思わず目を背けたくなりながらも、これはルックを止めることが出来なかった自分の罪でもある。だから決して目を逸らしてはいけないのだと自分に言い聞かせ、はぐるりと周囲を見渡しある一点で視線を止めた。
「あれ、は…」
黒曜石の瞳が捉えたもの。それは草原に犇めき合うように立てられた、数多の墓標だった。それだけの数の人間が死んだのだ。恐らくはたった一晩のうちに。
「…」
気遣うように掛けられたの声には大丈夫ですと弱々しく頷いた。
「カラヤクランの人たちは何処へ行かれたのでしょう?」
「多分…リザードクランじゃないかな。ここから近くて、尚且つこれだけの人を収容できるのはそこぐらいしかないと思うよ」
カラヤクランの北に位置するリザードの住む巨大な洞窟。大空洞と呼ばれているそこならば、確かにカラヤクランの人たちのすべてを受け入れることが出来るだろう。
カラヤの人々の事も気になるが、自分たちの目的はもっと別の場所にある。大空洞へは寄らずにこのまま向かうべきだろうとが思考を巡らせたところで、が小さく声を上げた。
「どうかしました?」
見上げて彼の視線の先を追う。すると倒れた木材の陰に子供がいた。幼い少女だ。煤けた頬にあちこちすりむけた手足が痛々しい。赤黒く皮膚が変色しているのは火傷だろうか。とを見つめる瞳には強い警戒心が宿っていて、迂闊に声をかけたら逃げ出してしまうだろうと思ったが、このまま見捨てて行くわけにも行かなかった。
二人は一度顔を見合わせ頷きあう。
が怖がらないで下さいと声をかけ、ゆっくりと少女に近づこうとしたのだが、彼女はびくりと体を震わせると二人に背を向けて走り去ってしまった。
「あ…」
立ち止まったの肩をが励ますように叩く。
「仕方ないよ。大分警戒していたからね」
「そう…ですね。せめて怪我の治療だけでも出来たらよかったのですが…」
を見上げて、は力なく微笑んだ。
…これが。
村を焼き命を奪い、戦う力の無い小さな子供をも傷つけて、無益な血を流すことが。
ルック、あなたの望みなのですか。
心の中で小さく問いかけて、は目を伏せた。
***
カラヤを出た二人がアムル平原に差し掛かったとき、すでにあたりは夕闇に包まれていた。これ以上先に進むことは出来ないと判断して野宿の準備を始める。カラヤが無事であったなら宿に止まらせてもらうつもりだったがそうも行かず、こればかりは仕方が無い。
もうしばらく行けばグラスランドからゼクセン領へと変わる。国境にあるブラス城までさほど距離もないから明日の昼には辿り着けるだろうと、頭の中に描き出した地図を元には推測する。
薪になりそうな枝を適当に拾い集めて火をおこすと、二人はその側に座り込んだ。
パチパチと薪の爆ぜる音を聞きながらオレンジ色の炎をじっと見つめる二人の間に会話らしい会話はない。それというのも、カラヤを出てよりはずっと何かを考えこみ、もとより少ない口数が更に少なくなってしまっているからだ。
黒い瞳は揺れる炎を静かに見つめているように見える。けれど…。
「、大丈夫? 随分と顔色が悪いようだけど…」
の声にはっとしたように顔をあげ、強張った微笑を浮かべた。
「…大丈夫です。ごめんなさい、少し…考え事をしていて…」
「そう…。もし体調が悪いようなら無理はしないで。早めに寝たほうが良いよ。火の番は僕がしておくから心配しなくていい」
「ありがとうございます、。でも、本当に大丈夫ですから」
それだけを告げては再び燃え盛る炎を見つめた。長い睫が伏せられて、頬にかかる陰影が炎の灯りでゆらゆらと揺らめいている。立てた膝に顔をうずめるようにして目を閉じ、いっそ眠ってしまえればいいと思うけれど生憎と眠りの気配すら見えてこなかった。
「…」
「ん?」
「……いえ、なんでもありません。ごめんなさい」
自分は何をしたいのだろう。何をするべきなのだろう。どうしたらいいのだろう。
ゆるゆると心の中で首をもたげるのは迷いだ。何をしたいのか、何をするべきなのか。どうするべきなのか。答えは自分の中にあって、全てを決めて覚悟の上で彼のそばを離れ今ここにいるはずなのに。そばを離れるべきではなかったのだろうか。もし彼のそばにいて何かしら助言することが出来ていたなら、あの村は焼かれずに済んだのだろうか。そんな思いが頭を過ぎる。
深く息を吐き出したはのろのろと顔を上げてを見た。
「…ごめんなさい、。やっぱり少し、疲れたみたいです。先に休ませてもらっても構いませんか?」
「いいよ。ゆっくり休んで」
「はい。おやすみなさい、」
快く頷いてくれたに礼をのべ、は立ち上がった。火からほんの少し離れたところにローブに丸まるようにして寝転ぶ。満天の星空をじっと眺めてから目を閉じる。その姿を横目で見ていたは、枝で薪を突きながらやれやれと嘆息を零した。
「本当に、馬鹿だね」
その言葉は今はここに居ない、かつての仲間へ向けられたものだ。最愛の人をこんなにも苦しませて、本当に君は馬鹿だ何をやっているのだ、と。いっそ罵ってしまいたいが残念ながら相手はここにおらず、言ったところで返るのは無言の返答のみ。それも空しい。
再会した暁には一発殴らせてもらうことを心に決め、は先ほどがしたのと同じように空を仰ぎ星を見つめた。
定めの星は既に動き始めているのだ。
H19.11.26 橋田葵
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