月光

第二話



 乾いた風が衣服の裾をはためかせる。足元でたった砂埃に刹那目を細めて、真っ直ぐに前を見据える瞳は夜明け前の空の色。漆黒の闇を思わせる艶やかな髪を束ねるのは二色のバンダナ。
 旅装の少年だ。この地方では珍しい装束を纏っている。整った面立ちは中性的な雰囲気を醸し出し、年の割に浮かべる表情はとても大人びている。
彼は、人を探していた。けれど彼はその人物に会ったことが無い。つまり、その人物がいかなる容姿を持っているのか知らないのだ。しかし彼にとってそんなことはさしたる問題ではなかった。”目印”を彼の探し人はその身に宿しているのだから。そうそれは、彼にはとても見つけやすいもの。
 紫暗の瞳が岩の陰にひらりと舞う、白いモノを捉える。
 それは翻る白い法衣。
「見つけた」
 呟いて彼は口元に笑みを乗せた。

 『どうか、あの子達を頼みます。
  あなたなら、きっと』

 彼女の声が蘇る。いつも淡々として、揺るがず。その定め故に孤独に生きただ一人の人間のために願うことなどないと思っていた運命の見届け人。バランスの執行者、レックナート。
 その彼女が、憂いを帯びた表情で自ら自分たちに頼んできた願い。

 正直なところ何が出来るのか、わからない。自分が力になれるのか。果たして彼らを救うことが出来るのか。そんなことはわからないけれど。
「やれるだけのことは、やってみようかな……それにしても、ルック。君は…」
 なんて、馬鹿なんだろうね。
 君の事を大切に思う人間が少なからず居ることに、どうして気付かなかったんだ。  一人ごとのように呟いて、彼……かつてトランの英雄と呼ばれた少年、・マクドールは空を仰いだ。


***


 ハルモニア領からグラスランドへ入るためには、険しい山道を登らなくてはならない。入り口に立ち、上り坂となっている山道を見上げては小さく溜息をついた。
 カレリアを出て、既に三日。それまでの間は追跡を逃れるため、魔力と気配を完全に消し身を潜めていた。ハルモニアからの追跡を恐れたのではない。ルックが、の気配を辿り居場所を知られることを恐れたのだ。
 彼の支配下にある風は、世界中に存在する。彼がひとたびその気になれば、の居場所を突き止めることくらい簡単に出来ただろう。だからは、気付かれないよう細心の注意を払って姿を眩ましていた。意味の無いことかもしれないけれどもし、ルックがを追いかけてきて行くなと止めたなら…彼の手を振り払えずにいられる自信などなかった。もう一度彼の手を取ってしまいそうだったから。
 決意した。そのつもりだったけど、どうやらその決意は自分で思っていたよりも脆く砕けやすいものだったらしい。
 全くしょうがない、とはもう一度溜息をこぼし山道を登り始めた。

 山道を登り始めて数刻。転がる岩を避けながら歩いてきたは足を止め、困ったと首をかしげた。汗ばむ額を手の甲で拭い、目の前に道を遮断するように存在するソレを見つめる。カレリアからグラスランドへ続く山道、そこにはルビーク方面へ枝分かれする岐路が存在する。丁度その中間地点に、その生物はいた。
 度々、現れては行く手を塞ぎ旅人を困らせる巨大なモンスターである。その性は凶暴極まりない。できることなら戦いたくは無い。体力は出来るだけ温存しておきたかったし、魔力の使用も避けたかった。だがそんなの思いとは裏腹に、佇む彼女の存在に気付いたモンスターが敵意を表すよう牙を向けた。
「…仕方ない、ですね」
 おっとり呟いて、再び歩みを進めたはモンスターの攻撃範囲に入らないぎりぎりのところで止まり、旅装であるローブを脱ぎすてた。この方が身が軽くなって、幾分戦いやすい。
 腰に佩いた剣を流れるような動作で抜き放つ。たおやかな少女の手には不釣合いであるはずの剣は、不思議との手に馴染んで見える。まるで彼女のために誂えたかのような、銀色の美しい剣。
 正眼に構えたは、呼吸を整えるよう目を閉じた。一度戦うと決めてしまえば、彼女の中に躊躇いは無くなる。抜き身の刀身が光を弾く、それと同時には大きく跳躍した。
 ツインスネークと呼ばれるこのモンスターは、頭部が三つある。中心に亀のような、山椒魚のようななんとも形容しがたいずんぐりとした不恰好な生物がいて、その両脇に寄生するかのように長い首が生えている。それこそ二匹の蛇のようであるから、そう名づけられた。もっとも名づけた人間が誰であるのか、などの知るところではないし興味も無い。
 ツインスネークは両脇の蛇がそれぞれ、火の魔法、風の魔法を操って攻撃を仕掛けてくる。油断していると火と風の融合魔法を使ってくるため、早々にどちらかの頭を落としてしまわなければならない。は迷わず右の頭に突っ込んでいった。薙ぐように剣を振り、詠唱もせずに発動させた低位の火魔法を至近距離で放つ。低位であろうとも至近距離で放たれればかなりのダメージになるし、加えての魔力は常人のそれより高い。低位であろうが上位魔法と同等の炎に身を包まれ、右の頭は少しでも炎から逃れようと大きく首を振るった。空中で軽やかに身を捻り、一度着地したはもう一度跳躍すると、今度は袈裟懸けに火に包まれた右の頭を切り捨てた。あっという間に事切れた右の頭はぱたり、と地面に落ちる。 視界の端にそれを収めて、はもう一度紋章を発動させた。今度のは火魔法ではなく、風だ。彼の支配下にある風。は風の加護を受けている。彼女の手の上で作り出された真空の刃は狙いを過たず、左の頭に向かっていった。カマイタチと呼ばれる現象のソレは、敵をずたずたに引き裂いて風の中に紛れて消えていく。尚も襲い掛かろうと鎌首をもたげるモンスターには秀麗な眉を潜めて、刃を閃かせた。
 大きく口を開いて絶命したそれは、地響きを立てて地面に落ちる。同時に彼女は剣に付いた血油を振るって落とし、鞘に収めた。真ん中のモンスターは動きも鈍く攻撃範囲も狭い。極至近距離まで近寄らなければ、此方が被害にあうことは無いから生かしておいても大丈夫だろうと判断したのだ。真ん中のモンスターが生きている限り、両脇の蛇に似た首は再び生えてくるのだろうが。
 目の前の敵を倒し、安堵したほんの一瞬。それこそ瞬き一つの、刹那の出来事。油断し隙が出来ていた彼女は背後から攻撃を仕掛けてくるモンスターの気配に気付くのが遅れた。
「っ、あ……」
 右腕に走る激痛。白い法衣にじわじわとにじみ出る赤い鮮血は、腕を伝い指先から滴り落ちる。
 鋭い刃で切り裂かれたかのような痛みに、は顔を顰める。
「……イッカク?」
 それでも冷静に敵が何であるのか見極めようとしたの目は、確かに動く影を捉えた。一つの角を持ち、すばやく動く小さな生物。この山に多く生息するモンスターの一種だ。仕留めるのには中々手間が掛かる。出来ることならば遭遇する前にこの山を下りてしまいたかったのだが…。
「油断してしまいましたね」
 果たして傷を負った腕がどこまで動いてくれるだろうか。一時でも油断し気配を読みきれなかった自分を叱咤して、は腰の剣に手を伸ばした。柄に触れ、引き抜こうとした瞬間再び風が動いた。
「―――ッ」
 鋭く走った痛みとともに、弾ける赤。頬を生暖かいものが伝う感触がする。それでも構わず剣を抜こうとしたの肩を誰かが掴んで強く引いた。
「下がって」
 高くも無く低くも無く。聞き心地の良い、まだ若い男の声。背後に人がいたことに、全く気付けなかった。いや、違う。気付かせなかったのだ、他ならぬ彼が。
 驚いて振り向いたの目に一番に飛び込んできたのは、鮮やかな緋色だった。それはを庇うように立つ男の着衣の色だった。彼は手に持った長い棒……棍だろうか。棍を捌くように振るい、鮮やかな動作でイッカクを打ち落としていた。よほど腕が良いのだろう。イッカクは目立つ外傷もないのに、地面に落ちたきりピクリとも動かなくなる。
 一連の動作を呆然と見ていたははっと我に返り、彼に向かって声を掛けた。
「あの……」
 の声に反応するように振り向いた彼は、やはりまだ若い少年だった。十六、七位だろうか。綺麗な顔立ちをしていて、どことなく中性的な美しさを持っている。外見で言えばとそう変わらない年に見えるのに、紫暗色のその瞳は……年に似合わぬ色を宿していて、はそれにとてもアンバランスな印象を覚えた。
「大丈夫?」
 声を掛けたきり黙ってしまったにかけられた気遣いの言葉は、感情の読み取りづらいものでは困惑しながらも笑みを手向けて頷いた。
「はい。あなたがかばってくださいましたから」
「でも、傷結構深そうだったよね?」
「大丈夫ですよ。もう血は止まっていますし、すぐに治ります」
 その言葉に偽りは無く、いまだ痛みは引かないものの腕の出血は既に止まっていた。ならば時期に治る。これも嘘ではない。頬に走る傷に手を当てると、ピリリとした痛みは走ったが此方も問題はないようだった。訝るように視線を向けてくる少年にもう一度、大丈夫だと告げて脱ぎ捨ててあったローブを拾いに行く。ぱたり、と腕を伝い続けていた血が一滴地面に紅い花を咲かせる。振り返ると少年はではなく、動かなくなったモンスターに目を向けていた。その横顔を伺いながら、改めては彼を見る。
 漆黒の髪を押さえるように巻いた二色のバンダナ。彼の纏う赤い着衣はこの辺りではあまり見かけないものだ。トランやデュナン、どちらかといえばあちらのものだろう。背丈ほどもある長い棍は彼の得物なのだろうか。
 不思議と人をひきつける雰囲気を持っている人だとは思った。
 酷く気になったのは、彼の瞳に潜む危うさと右手にきつく巻かれた包帯。その下から漏れ出る、強い紋章の波動は恐らく世界に散らばる真の紋章の一つだろう。
「あの、お名前を伺っても宜しいでしょうか? 私はといいます」
「僕は……・マクドール」
…マクドール様、ですか?」
 何か、記憶に引っかかるものがあった。
 ・マクドール。その名は以前どこかで聞いた覚えがある。口元に手を添えて、は記憶の引き出しを探った。どこで聞いた? あるいは読んだ? 何かの、書物で。
 トラン、デュナン…。ぴんと、の記憶はそれにたどり着いた。そうだ、マクドールといえばトランの中では屈指の貴族ではなかったか。赤月帝国の五将軍の中の一人がマクドール家の名を戴いていたはずだ。そうして・マクドールといえば、解放戦争で活躍しトランの英雄と呼ばれるようになった人物。
 彼がその・マクドールだとでもいうのだろうか。解放戦争が行われたのは、十八年も前のことだ。当時少年であった彼が、少年のままであるはずが…。
「どうかした?」
 覗きこむ紫暗色の瞳に気付いて、は思考を中断させた。本人が語らないことを邪推する必要は無い。必要なら聞けばいいだけのことだし、今は必要ではない。
「いえ、なんでもありません。様、改めてお礼申し上げます。助けてくださったこと、感謝いたします」
 深々とに頭を下げられて、は困惑していた。彼女の肩に手を置いて頭を上げさせる。彼にとってこれは当然のことで、そこまで感謝されるほどのことをした覚えはないのだ。
「そんなに改まって礼を言われるようなことはしてないよ。顔上げて」
 ゆったりとした動作で顔を上げたを見て、は目を見張った。はそんな彼に気付き、何事かと首を傾げ頬に掛かった髪を払うのと同時に彼が何に対して驚いているのかを知る。
「すぐに治ると、いいましたでしょう?」
 先ほどまで白い頬に痛々しく走っていた傷痕が、綺麗に消えうせていた。流れた血の跡は残るものの、その傷口は本当に傷があったのかさえ疑わしく思えるほど綺麗さっぱり消えている。腕の傷も同様で、もうすでに全く痛みを感じていない。
「紋章…?」
 傷を癒す紋章は存在する。水の紋章かあるいは風の紋章。けれどの傷を癒したのはそのどちらでもなく、が口にした紋章もそのどちらも指し示していないのだろう。
 呪文もなしに癒しの魔法が発動されることはない。が見ていた限りは一つたりとも発動呪文を唱えてなどいなかったのだから。
 はしばし逡巡した後頷いた。
 の宿す紋章は特殊だ。真の紋章ではないが、他のどの紋章とも違う。真の紋章に匹敵するほどの強い力を秘めている。名を時司の紋章。名の通り時を操ることをその力とする。紋章は宿主に危険が迫ると自ら発動し回避する。動揺に宿主の体が傷つけば、癒そうとする。が意識していなくても紋章が勝手に発動するのだ。彼女が負った頬と腕の傷がすぐに回復したのも、こういう経緯があるからである。
 はそれ以上訊ねてこなかった。だからも敢えて自ら説明することはなかった。  一つ小さく息を吐いて空を見上げたは、山道へ入るときは中天にあった太陽が大分傾いているのを見て、今日中に山道を抜けるのは無理かもしれないと悟る。しかし頑張れば、なんとか抜けられないだろうか。こんなところでの野宿は出来れば避けたい。一人考え込んでいたは物言いたげに見下ろしている。
「……、さんはさ」
で結構ですよ」
「そう。じゃあ、はさ」
「はい」
「一人で旅をしているの? 見れば随分と軽装だけど…」
 言われて初めて気付いたようには自分の身体を見下ろした。改めて言われてみると、確かにその通りかもしれない。が身に着けているもの、といえば数点のアクセサリと法衣。剣が一振りと懐剣が一振り。そしてローブのみ。旅人が持っていて然るべきものをは持っていない。つまり食料や水、薬品や通貨の類が入った麻袋。必要ではなかったから、なくても気付かなかったし気にならなかった。だけど、そうか。他の旅人の目からみたら随分と奇異に映ることだろう。
「…そうですね。軽装でも、あまり困ることがなかったので」
「でも女の子が一人で旅なんて危ないよね。それに、その服」
 の言わんとしていることに気付いて、は困ったように微笑した。
 ローブを纏っていれば気付かれることはないだろう。グラスランドへ入る際は注意しなければ、と思っていたけれど。ほんの少し湧き上がる警戒心。彼は、敵だろうか。それとも味方? もしやハルモニアの仕向けた追っ手なのだろうか。
「君は、ハルモニアの人間?」
「…どうして、そう思われるのですか?」
 自然と聞き返す声が硬くなる。連れ戻されるわけにはいかない。ハルモニアには、二度と戻りたくない。今連れ戻されてしまったらルックを止められなくなる。いつでも抜けるようさりげなく腰の剣に手を添えて、ぴりりと緊張の糸を張り巡らせた。
 の様子の変化に気付いたのか、が安心させるように笑った。初めて彼が見せた笑顔だった。小さな子供をあやすような笑顔だけれど、不思議と安心する。
「ごめんね、警戒しないで。僕はハルモニアの人間じゃないよ。君がハルモニアの人間かどうか聞いたのは、その法衣がね。ハルモニアの神官たちの着ているものと似ていたから」
「そう、ですか。……確かに、以前私はハルモニアに居ました。けれどもう、ハルモニアと関係はありません」
「…ごめん。聞いちゃいけないことを聞いたみたいだね」
「いいえ」
 は首を振り、剣の柄かから手を退けた。それと同時に緊張の糸を解く。
「ねえ、。君はこれからどこへいくつもり? 君は剣の腕は立つようだけれど、やっぱり女の子だ。一人で旅をするのは危険だと思うよ」
「そう…ですね。でも…」
 けれどもう、戻る場所も帰る場所もにはないのだ。危険なことなど承知の上で彼の元を去ってきた。今更、後には戻れない。止まれない。にはもう、前に進む道しか残っていないのだ。
「…一つ、提案があるんだけど。聞いてくれる?」
「はい」
の目的地がはっきりしているなら、そこまで僕が同行してあげようか」
「え…でも、ご迷惑では…?」
 戸惑うように見上げるに、は柔らかく微笑んだ。迷惑と思っているのなら、初めからこんな申し出はしない。そう告げるとはしばらく考え込んで、やがて頷いた。
 本当は。一人で旅をするのは不安だった。今まではずっとルックが傍に居てくれて、そういえば彼の手を取ってハルモニアの神殿を出た後一人になることはほとんどなかった。自分の意志でルックの元を離れたとはいえ、本当はとても寂しくて誰かに傍に居てもらいたかったのだ。の申し出は素直に嬉しかった。完全に、彼が信頼に値する人物であると思っているわけではないけれど不思議なもので、彼なら大丈夫だとそう思う自分もいた。それは確信にも似た思いだった。だからは彼の申し出を受け入れたのだ。
「嬉しいです、様。ありがとうございます」
で良いよ。僕はもう……様、なんて呼んでもらえる人間じゃない」
「…では、。これからよろしくお願いしますね」
「もちろん」
 差し出したの左手をは両手でしっかりと握り締め、ふんわりと花のように笑った。

***

 誰かのために動くことの無い彼女。バランスの執行者として常に平等になくてはならず、誰かに肩入れすることの出来ない彼女が、それでも自ら進んで救って欲しいと願ってきた人物は一体どんな人間なのだろうと思っていた。詳しいことは聞いていなかった。ただ自分の愛弟子と、その最愛の少女を。止めて欲しい、救って欲しいと言われて相手がどんな人物か知らぬままここまで来ただったけれど、実際に彼女を目にしてバランスの執行者たるレックナートをそこまで動かすものが何であるのかほんの少し判った気がする。人のことを言えたものではないが、彼女は危うい。ただ一人の人間のためだけに生きること。それを望みとするような…もし、の最愛の人であるルックが死んでしまったなら、彼女は躊躇い無く追いかけてしまいかねないと思った。彼女はきっと、ルックを生かすためならばなんでもするのだろう。
 だけど。彼女を見定めるには、まだ早すぎる気もする。
 隣を歩く少女の横顔を眺めて、は口元に微笑を乗せた。
 もう少し、様子を見ようかな。
 目的の場所まではまだ遠いのだから。





H19.11.09 橋田葵



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