月光

第一話 Luc side



 いつからか、が物言いたげに僕を見ていることに気付いていた。彼女が何を思い悩んでいるのか。原因が何であるのか、僕はとうにわかっていたけれど彼女にはあえて聞かなかった。…否、聞かなかったんじゃない、聞けなかったんだ。
 彼女の思いを、願いを聞いてしまえば最後。僕が長い間悩み、そして決心したものが揺らいでしまうのがわかっていたから。長年の望みを揺らがせる、僕にとって彼女はそれだけ大きな存在だったんだ。
 悲しませているのはわかっていた。
 気がつけばいつも泣きそうな顔をしている。
 そんな顔をさせたいわけじゃないんだ。出来るなら、にはいつも笑顔でいて欲しい。静かに花が綻ぶかのような彼女の微笑が僕は好きだった。だけど最近の彼女はあまり笑わなくなってしまった。紛れもなく、憂いの原因は僕だ。
 止めるわけにはいかなかった。届かないと分かっていても何度心の中で彼女に謝ったか知れない。
 そんな自分勝手な僕に、は何も言わずに傍についていてくれた。少なからず彼女の存在には救われていたんだ。の存在がどんなに僕の支えになっていたか。きっと彼女は気付いていない。
 七年前ハルモニアの神殿で、常闇の中で眠る君の姿を始めてみたとき僕は慄然とした。
 セラの時もそうだった。紋章のためにならどんな手段をも厭わない僕らの創造主は、こんな少女をも冷たい部屋の中に閉じ込めているのかと思ったら無性に腹が立ったんだ。だけど僕は直ぐに気が付いた。この部屋に魔力封じの類は一切無く扉にも鍵の一つもかかっている様子はなかった。彼女自身強い紋章を宿しているのがわかったし、逃げようと思えば逃げられたはずなのに彼女はただ静かに闇に抱かれるようにしてそこにいた。
 不思議に思った。それと同時に彼女が僕と同じ存在であると気付いて話かけていた。闇の中、まるで死装束のような真っ白い衣を纏って眠りに付いていた少女。
 闇と同色の漆黒の髪。漆黒の瞳。かすかな炎の揺らめきの中でさえ、はっきりとわかる整った面差しは人形のように白かった。
「ねぇ、逃げたいとか思わないわけ?」
 普通なら、あんな場所に閉じ込められて逃げたいと思わないはずが無い。なのに彼女は首を傾げて、それこそ不思議そうに聞き返してきた。
「逃げる? 何処へですか?」
 漆黒の瞳で見つめ返して、心底不思議そうに。彼女は言った。生まれてこの方、一度もこの部屋から出たことはないと。
 ああ、だからか。僕は納得した。一度も外の世界を見たことがないのなら、ずっとこの闇の世界しか知らずに育ってきたのなら。逃げたいと思わなくても、それは仕方の無いことなのかもしれない。他の生き方を知らない彼女に、この暗闇に抱かれて過ごす日々はごく当たり前のものだったのだろう。行くあてがないのも当然だ。けれどならばこんなところで彼女は一生を終えるのだろうか。それはとても寂しいことなんじゃないかと不意に頭を過ぎった考えは、僕にしては珍しいものだった。お節介、とも言うね。他人のことなんて、ほとんど気にしたことがなかったのに。
 彼女に外の世界を見せてあげたいと思った。だから手を差し伸べた。このときはそう、ほんの気紛れだったんだ。
 僕と同じ存在であった彼女への哀れみや同情心なんかはなかった。あったのは、ほんの少しの興味と好奇心。きっと彼女は僕の手を取る、と根拠の無い確信めいた思いがあり、予想通りは僕の手を取った。刹那の迷いも見せずに。
 ハルモニアを脱走したは僕とともに魔術師の島で暮らすようになった。
 彼女とともに過ごしていくうち、僕はに対して今まで知らなかった感情を抱くようになった。正直戸惑った。人形である僕が、こんな感情を抱くはずがない。これは錯覚だ、ありえないことだと自分に言い聞かせた。
 だけど生まれてしまった感情は紛れも無い真実だった。
 彼女を、を。愛しいと思う気持ち。

 不思議なもので、彼女とともにいるととても安らぐことが出来た。
 彼女といるときだけは自分の出生を、忌まわしい呪いを忘れることさえ出来た。可笑しなものだよね…彼女も僕と、同じなのに。否、もしかしたら同じだからこそだったのかもしれない。

 
 君を…愛しているよ。

 僕の気持ちは少しも変わっていない。今も昔も、君を大切だと愛しいと思う気持ちに偽りはないんだ。
 君が本当は何を望んでいるのか、知っている。
 けれどそれでも、僕は止めるわけにはいかないんだ。この世界の行く末を変え、紋章に囚われた僕の魂が解放されるためにはこうするしかないんだ。
 運命に、世界に挑んだ人間にもなれ無い出来損ないの僕を愚かだと思うかい?

 が去ったあの夜、残されていたのは彼女がいつも見につけていた紅いピアスだけだった。握りこませるようにして僕の手の中にあったそれは、何を示唆するのかわからぬまま冷たい温もりだけを残して。追いかけようにも、彼女の気配は完全に絶たれていて僕には見つけ出すことが出来なかった。
 がいなくなってから幾度となく彼女の気配を探した。風は世界に存在する。なのに紋章の力を通じて、どれだけ探そうとも見つけ出すことは出来なかった。彼女は自らの意志で僕の傍を立ち去り姿を隠した。もうここへは戻らないことを決めたのだ。
 僕がいなくなっても、が一人強く生きてくれるならいい。
 できることならもう一度君に会いたい、声が聞きたいと思うけれどこれは僕の我儘だ。

 ただ一つ願うことがある。自らの意志で僕の元を立ち去った
 今度君に出会う時、君が僕の敵でなければいいと。僕を阻む側の人間になっていなければいいと。
 それだけを僕は願って止まないんだ。

 君は今、どこにいるんだろうか。






H19.10.12 橋田葵



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