月光

第一話 Heroine side



 夜の帳が下りている。窓の外に広がるのは青白い月が輝く仄闇の世界。薄く開けた窓の隙間から心地よい風が入り込んできてレースのカーテンを優しく揺らす。ほんの少し肌寒い夜明け前。
 ゆっくりと寝床から身を起こした私はそっと隣に眠る人物の顔を見た。
 出会ってから七年が過ぎた今も、当時と少しも変わる事のない容姿。それは紋章の力によるものであり、忌むべき呪いだ。右手に宿す紋章をはずすことの叶わぬ私と彼は、永遠に老いることなく変わらぬ容姿のまま長い時を生きなくてはならない。
 それでも姿かたちは変わらなくとも、中身は変わることが出来る。
 少なくとも私は変わった。暗闇の中一人孤独に生きていた頃には知らなかった様々なものを知ることが出来たし、今まで感じたことのなかった感情を知ることも出来た。
 彼に対する思慕。それがあの暗い場所を出て私が得た、一番尊いもの。
 人を愛しいと思う気持ちが、こんなにも暖かく幸せなものであったことを初めて知った。

 けれどだからこそ、私は今悩んでいる。
 私たちは今、長年住み続けた魔術師の島を離れ遠くカレリアに居た。彼の望みをかなえるために。
 彼の…ルックの望みは魂に絡みついた紋章を破壊すること。口で言うには容易いが、紋章を破壊するというのは生半可な覚悟では出来ないことだった。ルックの宿す紋章は真なる風の紋章だ。神の一部ともいえるそれを破壊するには強大な力を必要とする。そのために彼の宿す紋章と同じ五行の紋章を集めなくてはならず、私たちはかつて炎の英雄が現れたとされるグラスランド付近へと赴いていた。この地には五行の紋章の気配が色濃くあるのだ。
 しかし紋章の気配を捉えたところでそう簡単に事が運ぶはずもなく、彼にも疲れの色が見えていた。不謹慎だが私には少し嬉しくもあった。彼の目的…魂に絡みついた紋章の破壊が果たされれば、彼の魂も無事ではすまないことを知っているからだ。紋章が破壊された後、間違いなく彼は死ぬ。どうしてもそれは避けたかった。
 ルックは自分の出生を、自身を疎んでいる。ハルモニアの神官長ヒクサクのクローンとして作られた、自身を。そうして紋章に支配されているこの世界を、壊したいのだ。紋章の意のままに戦を起こし、やがて人が息絶えるだろう世界の運命を。
 だけど私は。彼がたとえどんな存在であれ、どんな望みを抱いているのであれ、私にとって彼が大切で愛しい、唯一の人であることに変わりが無かった。ルックは初めて私に温もりを与えてくれた人。誰かを愛しむ気持ちを教えてくれた人。私を愛してくれた彼を失いたくなかった。彼のいない世界など想像できなかった。生きてほしいなどと、これが単なる私のエゴであるということも、もちろんわかってはいたけれど。
 魔術師の島を出るといわれたとき、私は彼を止めなかった。止められなかった。どうしても、止めてほしいと口に出せなかったのだ。全ては私の弱さゆえに。口にして拒まれることを恐れた。
「ルック……」
 眠る彼の顔は安らいでいて、それだけが今の私にとっての救いだ。他の同行者たちは気付いていないようだったけれど、この街へ来てから彼は常に気を張り続けていた。理由は明確で、私がハルモニアの脱走者であるから。ここはハルモニア神聖国の一角。大国ハルモニアから気配と力を隠しながら動くというその行為は、彼の気力体力を少なからずすり減らして言った。強い紋章を宿しているからこそなおさらに、無用だとわかっていても用心してしまう。勿論私自身も。
 額に掛かる彼のアッシュブラウンの髪を静かに梳く。さらさらと手触りの良い柔らかな髪。
 無意識に溜息が零れた。
「……? 起きていたのかい?」
 小さく身じろいで目を覚ましたルックが、常より掠れた声で言った。薄く開けた瞼から覗く翡翠の瞳は虚ろで、まだ半分夢の中といった様子の彼に笑みがこぼれる。普段よりもずっとあどけない。
「起こしてしまいましたか? すみません。まだ夜は更けていませんから、もう少し眠ってください」
「…セラは?」
「隣の部屋に。起きてくる気配はありません」
「そう……」
 そのまま再び彼が深く夢の世界に誘われていくのを見届けて、そっとベッドから降りた。ひんやりと冷たい床板に素足が触れて一瞬身をすくませる。隣の部屋からは物音一つ無い。セラはまだ眠っているのだろう。常にルックに追従する彼女もまた、ルックがハルモニアから連れ出し育てた少女だった。プラチナブロンドの髪を持ち、氷のように冴えた美しい青い瞳を持つ、どことなく人形めいた少女。おそらくは感情があまり表情に出ないせいで、私などに比べれば本当に普通の人間の少女。
 彼女はルックを慕っている。それこそ、自分の意志を押し殺してでも彼の意思を通そうとする程に。彼女の強さが私には羨ましかった。私はそこまで強くなれない。迷い、悩み、それでも答えが出せずにいる。彼の傍に居て尚、彼の願いを拒み続けている。
 私はこのまま、彼の傍にいるべきなのだろうか、それとも。
 答えは、本当はすでに、もう…。
「…」
 そっと嘆息する。振り返って眠るルックを見つめる。安らかな寝顔であるけれど、やはり顔色が悪い。以前より少しやつれた気もする。
 平気なはずがないのだ。本当は。
 彼がなそうとしていることは、それこそ万人の命を奪う行為。残された人々の嘆き怒り恨みを買い、後の人々に激しく糾弾されるだろうこと。そしてなにより、世界に対する反逆であるのだから。
 今もまた、滅びと等しい灰色の夢を見ているのだろう彼に静かに問いかける。
 もし、と。
 あなたが目を覚ましたとき、私の姿がなかったら。あなたは私を探すでしょう。それでも尚、見つけ出すことが出来なかったら。あなたの元を自らの意思で去ったのだと知り、そんな私のことを裏切りだとそう思うのでしょうか。
「ルック、私は…」
 そう思われるのかもしれない。それも仕方の無いことだ。紛れも無い裏切りなのだから。 だって、私は。
「あなたに、生きてほしい。だから」
 あなたに嫌われること、見放されること。愛されなくなることが何よりも恐ろしかったけれど、あなたが世界から消えてしまうことの方が何倍も恐い。もう二度とあなたに触れることが出来なくなるなんて。もう二度とあなたの微笑を見ることが出来なくなるだなんて、そんなこと耐えられるはずが無い。
 だから、あなたの罵りを私は甘んじて受けよう。どれほど胸が痛んだとしても、私は……あなたを止めたい。
「……っふ、ぅ」
 喉が引きつるように苦しくなって、不意に視界が滲んだ。自分が泣いているのだと気付くまで少しの間を要し、気付いたときには頬を伝い顎先から滴り落ちてルックの頬にぽつりと落ちた。
 喉から零れ出そうになる嗚咽を押さえ込んで、口を覆う。これ以上涙をこぼさないよう、きつく目を瞑って呼吸を整える。
「生きて…下さい」
 どうか。
「生きて…」
 どうか……。
 死を願うあなたにとって、これは残酷な言葉でしかないのかもしれない。
「傍に、いてください。ずっと…」
 強く、強く願うほど。
 願いが叶わないと、そんな不吉な予感がしてしまって堪らない。この世界にもし、紋章とは異なる神という者が存在するのなら。私の望みを叶えてくれるというのならばこの命だって、捧げてみせるのに。
 白くすべらかな頬に手を添えて、彼に覆いかぶさるように身体を折って触れるだけの軽い口付けを。睫が弾く水滴が彼の瞼にぽつりと落ちる。
 これが、最後。

 愛していたから。
 苦しいほどに、貴方を想っていたから。
 貴方に生きていて欲しいと願うから。
 私は、あなたの元を去ります。
 あなたの道を、遮るために。
 あなたの望みを絶つ為に。
 裏切りと罵られようとも、蔑まれようとも。

 今度あなたに出会うとき、きっと私はあなたの敵となっている。
 愚かだといわれようとも、これが私の選んだ道なのだから。





H19.10.12 橋田葵



前頁 / / 次頁