闇よりも光を恐れていたのは、ずっと昔。
私は、光を知らなかった。
生まれてよりずっと暗い闇の中で生きることを常としてきた私にとって、人が恐れるはずの闇はとても身近なものであった。静寂に包まれた漆黒の世界。肌を包む常闇で唯一与えられる灯といえば、僅かに燈された蝋燭の揺らめきのみ。
暖かくどこか冷たいオレンジ色の揺らめきを見つめながら、暗い部屋の中で一人生きてきた。
何をするでもなく、されるわけでもなく、ただじっとそこに在った。今思えばそれは牢獄でしかなかったのだろう。
そうすることが当たり前であり他の生き方を知らなかった私にとって当時、囚われている、縛られている、などといった考えが思い浮かぶはずもなく。逆に何も知らない見たことのない外の世界は恐ろしくさえあった。
本音を言ってしまえばほんの僅かであるけれど、外の世界に憧れる自分もまた確かに存在した。
外の世界はどんなところなのだろう。ここと同じ暗闇に包まれた世界なのだろうか。それとも蝋燭の揺らめきのような仄かな光の満ちる世界? 何もかも私にとっては未知であり、想像することすら困難だったけれど想いを馳せるのは楽しくもあった。時々顔も分からない神官たちが運んでくる沢山の書物を蝋燭の灯を頼りに目を通して、外の世界には地上を照らす太陽というものがあることを知った。それはとても大きくて明るい、暖かいものなのだと。一体どんなものなのだろうか。断片的な私の知識だけでは思い描くこともできない。一度でいい、叶うならそれを目にしてみたいと思った。
どれだけの間そこにいたのか。はっきりとした時間は思い出せないけれど、私の狭い世界が壊され全てが覆されたのは、一陣の風とともに現れた彼の存在によってだった。
訪れは唐突だった。強くて優しい力の波動を感じ、まどろみの世界から意識が引き戻される。
ゆらり、蝋燭の炎が大きく揺らいだかと思えば彼はそこに立っていた。どことなく見覚えのある、整った面差し。アッシュブランの綺麗な髪を自身の纏う風に揺らしながら、翡翠の瞳を私に向けて彼は言う。
『ねぇ、逃げたいとか思わないわけ?』
その声に含まれるものは、この状況を甘んじて受け入れている私に対する侮蔑だったのか。それとも同情だったのだろうか。冷たく透き通る声が暗闇の中、響く。
私は小さく首を傾げて彼の言葉を頭の中で反芻し、彼の動きにあわせて揺らめく蝋燭の明かりを視界におさめながら問い返す。
『逃げる? 何処へですか?』
至極当然の、当然過ぎる問いかけだった。生まれてこの方この”檻”より一歩たりとも外へでたことのない私が、どうやって逃げることが出来るのだろう。例えこの部屋の外へ、神殿の外へ出られたとしても行く当てさえもないというのに。無知な私が一人、易々と逃げ遂せることが出来るほどハルモニアという国は優しくはないし、なによりも私は彼に問われるまで、逃げるという考えすら思いついたことすらなかった。
『私はここより一歩も外へ出たことがありません』
『一度も?』
『はい。許されていませんでしたし、それに…』
外の世界に焦がれていたのは事実。けれど、光を見ることに畏怖を感じていたのもまた確かだった。一度光を見てしまえば、もう二度とこの闇には戻りたくなくなってしまうかもしれない。そうすれば今度こそ、真実ここは私にとっての牢獄となる。永劫闇の中に留まり続けることの苦痛に耐えながら、どこまで続くか分からない生を嘆きながら生きなければならなくなる。自分の存在意義すら見失いながら。
そう告げれば彼は、ふぅんと小さく唸った。
『なら、戻らなければ良いじゃないか。こんなところから出て、もう二度とここへは戻らなければいい』
さも当前のことのように彼は言って、私に近づくと右手を差し出した。
皮手袋のはめられた右手。ほんのりと漏れ出る力の波動を感じる。鼓動を打つように。強くて優しい、大いなる力。そうまるで、彼が身にまとう風の様な…。
『僕と一緒においでよ。君は僕と……同じ、だから』
同じ…嗚呼、そうか。彼もまた『そう』なのだ。気づいた瞬間感じたものはこの上ないほどの親しみだった。
私と彼は同じ。そして同じにして異なるもの。とても近しい存在。
だから彼は私に手を差し伸べてくれたのだろうか。例えそうだったのだとしても。
『連れて行ってください』
私は迷わずに彼の手を取った。その時の私に、一抹の不安も迷いも無かった。
何故だろうか。彼の傍に居たいと、いるべきだと思ったのだ。
私と彼が同じであるためか。そうでないのか。はっきりとしたことはわからないけれど一つ確かに言えることがあるとすれば、私は彼に”惹かれた”というそれだけ。
だからその手を握り締めた。離さないように強く、強く。初めて与えられた人の温もりは、とても優しくて胸が暖かくなるようだった。
『ああ、そうだ。君、名前は?』
神殿を去る間際、彼が私に問う。
『私の…名前?』
もう長らく私の名を呼ぶ人間なんていなかった。忘れかけていた記憶を呼び起こす。私を作ったあの人が、私に与えたただ一つの名前。
この世の全ての存在を否定し、同時に味方につけるその名前は…。
『…私の名前は、です』
『? そう。僕の名前は…ルック』
その名前も、あの人がつけたものなのだと。自身の名を口に載せる時彼の浮かべた微笑を見て、理解した。ルック。それが風に愛された、彼の名前。
確かめるように一度、音を乗せずに唇を動かす。ルックは静かに頷いて、私の手を握る力を強めた。
そうして私たちは風とともに闇から去った。もう二度と戻ることが無いだろう創造主の下から、逃げるようにひっそりと。
これが、私と彼…ルックとの出会いだった。
H19.10.12 橋田葵
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