「あの、ありがとうございました。」
そっと彼の胸を押して離れる。見上げるの瞼は赤く、恥じているのだろうか。頬にはほんのりと朱がさしている。
「いいんだよ。また泣きたくなったらいつでもどうぞ?」
にこやかに笑んで冗談めかして言えば、はきょとんと黒い瞳を丸くしてからくすりと笑って頷いた。
「少し目が腫れちゃったね。冷やしたほうがいいかな」
言われたは細い指先を目元に当てる。確かに少し腫れぼったくて、ついでに熱っぽい感じはするけれど…。
「大丈夫です。直ぐに引きますから」
「そう? ならいいんだけど…」
ゆるく首を振ったには納得して、彼女の傍を離れた。椅子ではなくベッドの上に腰を降ろし、すっかり乾いてしまった髪に手櫛を入れる。無用になったタオルを膝の上に置くと、そういえばとを見る。
「一つ聞きたいんだけど…」
「はい。なんでしょう?」
「はいつ僕の事を知ったの?」
軽く首を傾げたの視線がさらされたままのの右手に行った。が見つめるのは少年らしいすらりとした、しかし武器を扱う者らしくしっかりとした右手の甲に不自然に刻まれた紋章だ。大鎌を持った死神を模したそれはソウル・イーターと一般的に呼ばれる。本当の名を、真なる生と死をつかさどる紋章。
の視線に気づいたが「これ?」といって右手を持ち上げて見せるが、は一度瞬いてから首を振った。
ソウル・イーターは彼がトランの英雄だと確信付けることとなった要素の一つではあるけれど、知ってしまった本当の理由は彼の過去を見たからだ。不可抗力とはいえ、勝手に人の過去を見てしまった罪悪感も有り、正直打ち明けづらい。
けれど隠しておくわけにもいかず、は逡巡した後自身の右手を持ち上げた。手の甲をに向けて、刻まれた紋章が見えるようにする。
薄暗い部屋の中、その紋章は宿主の意思に応じ微かな輝きを放ちの目にもはっきりと見て取れた。不思議な幾何学模様を描く紋章に、紫暗の瞳を瞠る。今まで見てきたどの紋章とも異なる、分かるのは強い…それこそ真の紋章並みに強い力を持つ紋章であるということだけだった。
「その紋章は?」
「時司の紋章と、そう呼ばれています」
「聞かない名だね。真の紋章なのかな」
「いいえ。厳密には違います。私も詳しくは知らないのですが…真の紋章に匹敵するほどの力を秘めている、とは聞いています。この紋章は名の通り、時を司ることをその力とします。対象とした者の過去や未来を宿主に見せる…私が、宿主がそれを望まなくても」
「つまり君は、その紋章を通して僕の過去を見たって言うこと?」
「はい。ごく一部ではありましたが…信じられませんか?」
は微笑む。
「手を…貸していただけますか?」
そうしての手を取ると、目を伏せた。
ポゥと仄かな明かりが二人の手を中心に広がる。瞠目するの脳裏には、見覚えの無いいくつかの映像が流れて消えていった。
暗い場所。オレンジ色の揺らめきを見つめながら、長いときを過ごしていた。
永遠の牢獄に近いその場所に、風と共に現れた少年。
彼の手を取って、生活の全てが一変した。
外の世界は知らないことばかりで戸惑いも多かったけれど、とても満ち足りていた。
穏やかに流れる時間。沢山の知識を与えてくれた彼。
時を共に過ごしていくうちに、やがて彼を大切に思うようになる。
そうして想いを交わし、互いの温もりを抱きながら眠った夜。
そんなささやかな幸せに小さな綻びが生じたのは、彼の、ルックの言葉からだった…。
「…」
がの手を離すと、河流が塞き止められるように流れていた映像がぴたりと止まり、消えた。
驚きに目を瞬かせるには目を伏せたまま言う。
「これが時司の力の一部です」
「さっきのは君の…の過去?」
「……はい」
「そう…うん、分かった」
頷きながらも脳裏を過ぎるのは、先ほどの映像だ。
なるほど、これは辛いだろうなと思う。過去の二人の姿はとても幸せそうだった。割と長い付き合いであるでさえ、ルックのあんな表情は見たことが無い。ならばこそ、今回のルックの行動も、彼と袂を別ったの思いも、どちらも重く苦しいことであったに違いない。
は離れていったの手をもう一度引き寄せて、強く握った。
***
翌朝、二人は何かと世話になった女将に礼を言い宿を出た。空は快晴。雲ひとつ無い青空だ。昨日の今日ということで街の様子が気になっていた二人だったのだが、被害は思っていたよりも少なく行きかう人々の表情も晴れやかだった。
「じゃあ行こうか」
「はい」
「…あ。そういえばすっかり聞きそびれて、というか…聞き忘れていたんだけど」
「なんでしょう?」
「の目的地って、ビュッデヒュッケ城で間違いないよね?」
「……」
無言でをしばらく見つめたままはぱちくりと瞬きをする。一拍の間をおいてさっと顔色を変えると慌てて頭を下げた。
「す、すみませんっ。私、うっかりしていて…本当にすみません」
「あぁ、謝らなくて良いよ。支障はなかったんだし、それに何となくそうだろうなって思って聞かなかった僕も悪かったし。だからほら、顔を上げて」
必死に謝るとそれを宥めるに、通行人が何事かと二人を見ている。は困ったように苦笑して、の肩に手を置き顔を上げさせた。それでもの眉尻は下がったままで、申し訳なさそうにを見ている。
はふと微笑むとの頭を軽くなでた。
「いいんだよ、本当に。気にして無いから。だからもうすみませんは無し! …ね?」
「…はい」
頷いたには満足そうに笑って手を差し出した。
「行こうか」
「はい」
その手を取って歩き出す。
目指すは商業の自由地、炎の運び手の集う場所。
ビュッデヒュッケ城。
H23.04.28
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