月光

第十四話



 宿に戻るとの姿を見た女将が仰天して駆け寄ってきた。どうやら返り血を浴びた姿を見て怪我をしたのだと思い込んでしまったらしい。慌てて否定すると汚れた服を洗濯してやる、とてきぱきとすばやい動きで身包み剥がされ浴場に放り出された。湯気の立つ洗い場と脱衣所の間ではしばし呆然としていたが、手渡されていた服をみて小さく息を吐き出した。
 服の心配はしなくても済んだらしい。汗もかいたことだし今は身体を流すことが出来て素直に嬉しい。あとで女将に礼を言っておこう。
 頭から湯をかけた髪をかき上げたところでふと、指先に揺れるものを感じた。
 片方だけのピアスだった。
「……」
 左の耳朶に触れると硬質な感触がして、そのまま下へ指を動かすと冷たい石に触れる。真っ赤な宝石。もし彼が捨てていなければこの片割れはルックの元にあるだろう。今自分たちを繋ぐのはこのピアスだけ。愛しむように指先で撫でる。
 集まった水蒸気が赤い石からポツリと滑り落ちる様は、まるで血が滴るようだった。



 早々と風呂を上がり部屋へ急ぐと、は部屋にいた。いつも頭に巻いているバンダナをはずし、黒い髪を窓から入り込む風に遊ばせている。窓際にもたれた彼は紫闇色の瞳を細め、夕闇に支配されつつある大地を眺めているようだった。
「……
 が声をかけると彼はゆるりと振り向く。そうして笑みを見せるとお帰り、といった。
 その彼の髪からぽたりと落ちる雫を見て、は首をかしげる。気付いたが苦笑して、「が行ったあと僕も強制的に浴場へ連れて行かれたんだよ」と言った。そういわれてみれば着ているものもいつもの胴衣ではない。不思議そうな顔のにさらには続ける。
「これも借り物」
 そういって着ている服をつまんで見せると、はなるほどと頷いた。手にしていたタオルのうち、一枚を広げるとの元へ近寄る。
「そのままでは風邪を引きますよ」
 いくら身体を鍛えていても、夜風は冷える。髪を濡らしたままでは風邪を引いてしまうかもしれない。ふわりとかけられたタオルに手を添えて、はありがとうと呟いた。

お互い会話も無いままに、しばし無言の時が流れる。

 風の入り込むかすかな音だけが部屋に響いて、は意を決したように口を開いた。

「うん。……聞きたいことが、あるんだよね?」
「……はい」
 どう話したらいいだろう。何から聞くべきなんだろうか。悩むは優しい口調でとりあえず座ろうと部屋に添えつけられていた椅子を勧めた。
 と向かい合うように腰を降ろしたは、彼女が話し始めるのを待っている。本当はなんとなく、ではあるがが何を訊ねようとしているのかわかっていた。
 黒い瞳が思いつめたように一点を見つめて、淡い色の唇が動く。
・マクドール」
 躊躇うようにの名を呼ぶ。
 その名が持つ意味。ここより南の国に行けばそれは、誰しもが知っている有名すぎる名前。
「私は、あなたが何者であるのか、あなたが何故その右手に宿る紋章を受け継いだのか全て知っています」
 の表情にふと真剣な色が帯びる。紫暗色の瞳がじっと探るようにを見ている。それはまるで、何故そのことを知っているのか。いつから気付いていたのかと問いかけるかのようだった。けれどはそれに答えず、続ける。
「だけど私は、あなたの真意が…思いがわからない。、あなたは何故私に力を貸してくれるのですか。……トランの英雄、・マクドール」
 を見上げると、ふいの彼の表情が和らぐ。微苦笑を浮かべて小首を傾げた。 「今はもう僕をそう呼ぶ人はほとんどいないけどね。……そうだね、いい機会だから初めから全部話そうか。そうだよ、の言うとおり僕は十八年余り前解放軍を率いて戦った赤月帝国の反逆者だ。そして戦が終結しトラン共和国が建国された後にはトランの英雄と、そう呼ばれもした。君ももうわかっているかもしれないけど、その僕が君と出会ったのは偶然じゃない。…ある人に頼まれて探していたんだよ、君を」
「ある人、ですか?」
「そうだよ」
 思い当たる人物は少なかった。片手で足りてしまうほどの数だ。ハルモニアを出てよりずっと、魔術師の島で暮らしていたは交友関係が全くといっていいほどない。意図的にそうしてきたのだから当たり前といえばそうなのだけれど、そうして考えたとき必然的に上がるのは一つの名前。
 の思考を読むようには頷いた。
「彼女はこう呼ばれているよ。運命を見届けるもの…バランスの執行者」
「レックナート様……」
 予想通りの人の名に、は意外な思いで彼女の姿を思い出していた。
長い黒髪を背に曳いて、常に静かに佇んでいた盲目の占星術師。言葉数は少なかったけれど、親を知らないルックやにとっては親代わりのような人だった。だけど彼女は世界のバランスを司る宿命を持つ人。天秤の代理人たる彼女は常に公平な立場でなければならない。誰かに肩入れをすることとも決して許されぬその彼女が…?
「レックナートが僕らに願ったんだ。君たちを救って欲しいと」
「君、たち…?」
 漆黒の瞳が揺れる。
「そう。君と……ルックを」
「…やはり…あなたは全てを知っていたのですね」
「うん。君にとってルックが大切な人であること。ルックが何をしようとしているのか。それほど詳しく聞いたわけじゃないけど、大体のことは。黙っててごめん」
 はふるふると首を振った。が黙っていたのは、きっと彼なりに思うところがあったからなのだろう。それを責めることは出来ないし、その資格も無い。黙っていたのは自分も同じだ。
「君の目的はルックを止めること、だよね。だからその為に、彼の敵対する勢力となりえる炎の運び手側につこうとしている」
「……はい」
「本当にそれでいいの? 後悔しない?」
「後悔などするくらいなら……初めから彼の傍を離れたりなど…」
「本当に? 炎の運び手側についてしまったら、ルックと戦うことになるんだよ。君はそれに耐えられる?」
 はきゅっと唇をかんで俯いた。の言っていることは全て真実だ。そうしてそれは自身わかっていて考えないようにしてきたこと。彼と敵対する勢力につくのがどういうことなのか、分からないほどは無智ではないし愚かでもないつもりだ。それをが改めてに問うているのは、彼女の真意を測ろうとしているからだ。
 答えなければならない。告げなければ。の思っていることを、願っていることを全て。

、私は…私の願うことはたった一つなんです。ルックが生きていること。彼が生きていてさえくれればそれだけでいい。そのためには彼を止めたい。今彼が為そうとしていること…その先にあるのは身の破滅のみ。だから、私は…」
 それがどれほど自分勝手な思いであるのか解っている。だけど願わずにはいられなかった。にとってルックはの世界そのもので、決して失ってはならない…失いたくない存在だったから。この世界の広さを、太陽の暖かさを、風の優しさを。人の温もり、誰かを愛するという気持ちも愛される喜びも、全て。に教えてくれたのはルックだった。
 そう告げればは穏やかに笑んで頷いた。
「…うん。わかった。もういいよ、。それ以上言わなくても言い。意地悪なことを聞いてごめん。本当は君が覚悟を決めてルックの元を離れたんだってことはわかってた。大切な人の元を離れて敵対しようとしている君が、生半可な気持ちで決めたんじゃないことぐらい聞かなくても、ね。だけど一応聞いておかなくちゃならないと思ったから。ごめんね」
 かつて実の親と敵対する道を歩まなくてはならなかっただからこそ。彼女がどんな思い出いるのか、全てでは無いけれど推し量ることが出来た。
「いいえ。が謝る必要はありません。いつかはきちんとお話しなければならないことだと思っていましたから」
「そっか。ありがとう。……ねえ、
「はい」
「今更かもしれないけど言わせて欲しい。僕は君の味方だよ。君の力になりたい。僕だってルックには…大切な友人にはあんな馬鹿な真似はして欲しくないから」
 だから最後まで君に協力させて欲しい。
 そう告げたの顔が、今までに見た彼のどんな表情よりも優しくて。は胸の奥に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
 一人じゃない。
 自分はもう一人ではないのだ。真実頼れる人が出来た。喜びと安堵と。張り詰めていた糸が緩んだ。
 瞼の奥に熱を感じるのと視界が滲むのはほぼ同時で、気付ばそれは涙となって頬を流れ落ちていた。
「っ、ごめんなさい」
「いいんだよ、。我慢する必要なんてない。君は少し抱え込みすぎる性質みたいだからね。少しくらい泣いた方がいい」
 穏やかには言って、立ち上がるとの傍まで歩み寄った。そうしてそっと彼女の頭を抱き寄せる。しっとりと濡れたままの黒髪を優しく撫でる手の感触に一瞬驚いていたマナだったが、その温もりの心地よさに安堵してくしゃりと顔をゆがめると静かに涙を流した。





H22.10.26



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