月光

第十一話



 馬上から空を仰ぐと憎たらしいほどの青空が目に染みる。身に纏う神官の衣服の青より薄く優しい色合いの空に目を細め、ハルモニアの若き指揮官は溜息をついた。肩口で切られた柔らかい色みのブラウンの髪が風に煽られ青い着衣の上をさらさらと揺れる。
 真っ直ぐにグラスランドの大地を見つめる瞳は翡翠色のソレだった。
 彼の名はササライ。ハルモニアの神官将だ。彼の容姿は知るものが見れば驚くほどにルックとよく似ていた。
 整った面差しに僅かな翳りを見せて、ササライはもう一度溜息をつく。もともと彼はこの遠征に乗り気ではなかった。チシャクランで叩ききれなかったグラスランドとゼクセンの両軍を抑え、この地を制圧し紋章を手に入れるための強行軍。兵たちにも疲労の色が見て取れる。このまま行けばすぐに開戦となるだろうけれど、休ませるわけにも行かない。
 少し後方を歩いていたディオスがササライの隣まで馬を進め、前方を示して告げた。
「あの城を落とせばゼクセンの首都、ビネ・デル・ゼクセまでは一直線でございます」
「…紋章探しでここまですることもなかろうに」
 ついそう漏らしてしまうのは、嘘偽り無い本音だった。けれど本国の命令であれば、忠誠を誓っている神官将であるササライは逆らうことなど出来様はずも無い。なんとしてもブラス城を突破し、真なる火の紋章を国に持ち帰らなければ。
 隣を歩いていた赤毛の青年がササライの言葉に本の僅か、難を示すように言った。
「グラスランドの住む者は、かつてハルモニアに勝ったと思い込んでいます。彼らには真実を知らしめる必要がある。グラスランドとその周辺の国を落としてこの地をハルモニアに組み込むことは肝要です」
 淡々と事実のみを告げる青年をササライは右手を上げて黙らせると、渋い顔で頷いた。
「わかっている。ヒクサク様直々の命だからな」
 青年は最早何も言わない。言う必要がないと思ったのだろう。
 そんな青年をササライはちらりと見やった。
シルバーバーグ家の名を持ったこの若い軍師を、ササライは全面的に信用してはいなかった。いや、出来なかった。彼はどこか胡散臭い。彼の言動全てを信じきるのは危険すぎる気がしていたのだ。

 それにしても…。
 ササライは彼から視線を外し、前方に聳えるブラス城を見る。やけに静かだ。此方の軍が進行してきていると知らぬはずもないだろうに。諦めて降伏でもするつもりだろうか。
 …否、そんなはずはない。勿論ハルモニアとしてはその方が都合が良いが、ハルモニアの軍門に下り三等市民として扱われることがどれだけ過酷であるか、ゼクセンはともかくとしてグラスランドの人間が知らないはずが無いのだ。元カーナークラン、現在はルビークと呼ばれる村がそうであるように。故にそうやすやすと降伏するとは考えられないのだが…。
「しかし静かですね。これは…やつら諦めたかな」
 ササライの心中を読んだようなディオスの言葉に、違うだろなと思いながらもササライは苦笑して首を傾げた。
「どうかな。こちらとしてはその方が都合がいいけど…あぁ、やっぱりそうもいかないようだね」
 残念そうに落とされたササライの呟き。翡翠の瞳が見つめるその先には、ブラス城から現れたグラスランド・ゼクセンの両軍が彼らの行く手を阻むように立塞がった。
 やっぱり簡単に行かせてくれるわけがないか。
 呑気にそんなことを考えるササライはおやと首を傾げる。
 一人の少年がハルモニア軍の前に姿を見せた。それはチシャで出会いササライと一戦を交えたカラヤの少年で、ササライたちが追いかけている人物でもあった。真なる火の継承者。
 臆することなく大軍の前に出た少年ヒューゴは声を張り上げた。
「ハルモニアの指揮官に訊ねたい! 五十年前、ハルモニアと炎の英雄との間で交わされた密約。不可侵の条約は存在するのか!」
 ディオスが何か言いたげにするが、ササライはやんわりとそれを押し止めて前に進み出た。ざわり、と炎の英雄側の軍がざわめく。
「密約は確かに存在した。けれどそれには期限があり、数年前に既に切れている。これが神殿の正式な回答だ」
「そうか」
 ササライから告げられた回答に、ヒューゴが落胆する様子を見せることはなかった。想定の範囲内の事だったのだろう。ぐっと一度目を閉じると再び声を上げた。
「炎の運び手の名の下に宣言する! 五十年前と同様に全滅したくなければ軍を引いてくれ!」
 兵たちがざわめく。脳裏を過ぎるのは五十年前のあの惨劇だ。実際に経験したものはいないにせよ、語り継がれるその出来事はすさまじいものであった。暴走した火の紋章、燃え盛る紅蓮の炎は敵味方を構わず飲み込み、十日もの間燃え続け大地を焦土と化した。ハルモニア軍は全滅。対するグラスランド側にも多大な被害が出た。元々攻撃系の紋章である火の紋章は、その威力も計り知れない。
 しかし此方には同じ真の紋章、それも防御系では右に出るものが無い土の紋章があった。もしも、万が一彼が力を解放したところで防ぎきる自信がササライにはあった。
 何よりもあの言葉は単なる脅しに違いないと踏んでいる。ヒューゴが真の紋章を宿したのはほんの数日前の事で、その短期間に力の全てを御することなど出来るはずも無い。真の紋章の継承者としてササライ自身よく分かっていることだった。
 だが…。
「単なる脅し、だろうけどね」
「念のため部隊の半分は下がらせましょうか」
「そうだね」
 ディオスの言葉にササライが頷くと手際の良い副官は早速指示を出した。軍のおよそ半分を残して、残りの部隊は後方へ下がっていく。
 双方が睨み合ったまま臨戦態勢に突入した。


 物陰に隠れてその様子を眺めていたは、退却していく半数のハルモニア軍を眺めて随分と舐められたものだなと胸中呟いた。ヒューゴの言葉を鵜呑みにしたわけではないだろう。けれど部隊の半分を下がらせたということは、つまり正規軍の半数でも勝つ自信があるということだ。隣のを見れば彼女も似たようなことを考えていたのか、優しげな面立ちに苦い色を浮かべていた。漆黒に瞳が睨み据えるようにハルモニア軍を見つめている。
 やがてハルモニアの軍勢が進軍を開始した。同時にの二人は顔を見合わせるとそれぞれの武器を手に立ち上がった。





H22.10.09 橋田葵



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