紋章を受け継ぐこと、その身に宿すこと。それは紋章を知らぬ人々が想像するよりもずっと難く、容易なことではない。紋章の意思は強い。この世界にとって紋章はいわば神である。宿主の意思に関係なく、まるで試すかのように様々なモノを見せ付けるのだ。かつての宿主が経験し潜り抜けてきた凄惨たる戦場を、傷ついた想いや心を。自分のものではないそれは、まるで自らに降りかかった災厄のように新たな宿主の心を酷く傷つけてゆく。そうして追い討ちをかけるかのように、残酷で冷たい未来を見せ付けるのだ。人の死に絶えた世界の行く末を、紋章が真に望む世界の姿を。
耐えうるのは強い意志を、信念を、心を持つものだけだ。生半可な覚悟では神の化身とも言われる真の紋章を宿すことなど出来はしない。
けれど、もしかしたら彼ならば。強い意志を秘め、真っ直ぐで純真な瞳を持った彼ならば。運命に押しつぶされることもなく、紋章の意志に屈することもなく、その力に打ち勝つことが出来るのではないだろうかと思った。
***
戦があったようだ。
というのも実際に話を聞いたわけではないし、戦場を目にしたわけではないからただの推測である。だが目の前に広がる光景からして、想像するまでも無いことだった。
力なく地面に座り込む数多の兵士たち。傷つき疲れきった様子から相当激しい戦いであったのだろうことが伺えた。彼らの表情は皆一様に暗く、絶望感に溢れている。撤退することすら困難だったのだろう。流れた血が石畳を赤く汚していた。
そこに居たのはゼクセンの騎士だけではなかった。カラヤ、リザード、ダック。ゼクセンと敵対しているはずのグラスランドの戦士たちも同様に、休息を求めて座り込んでいて、ことあるごと対立していたゼクセンの人間は全く気にも留めた様子も無い。どうやらゼクセンとグラスランドが共闘して、他軍と戦ったらしい。相手は恐らく…。
「ハルモニア、でしょうか」
の呟きには頷く。
数日前、の知らないところでは一通の手紙を受け取った。別行動をしていた古い友人からのものだ。簡素な文面で記されていたのはハルモニアがグラスランドのシックスクランの一つであるチシャに侵攻を開始したということのみで、それ以上の詳しいことは書かれていなかった。だがこの様子ではチシャはすでにハルモニアの手に墜ちてしまったのだろう。
大国ハルモニアが相手では軍事力に差が有りすぎた。ただでさえ向こうにはゼクセン、グラスランド側には少ない後方支援を得意とする紋章部隊が多数存在するのだ。
「ハルモニア、か」
「どうか?」
「いや…。ねえ、。チシャクランの近くに紋章がある、という話を聞いたことはある?」
見下ろしてくる紫暗の瞳を見つめ返してからは是と答えた。
「炎の英雄の待つ地、と呼ばれる場所であれば。真の火の紋章が封じられていた洞窟ですね」
「チシャクランはすでにハルモニアの手に墜ちたらしい。彼らが火の紋章を狙っていたとしたら…そして彼らがその地を訪れたとき、既に封印が開かれた後だったとしたら?」
二人が感じた強い紋章の気配は真の火の紋章なのだったとしたら。
如何せん情報量が少なすぎて明確なことは何一つ分からないままだけれど。
「ここは…グラスランドとゼクセンを攻めるための良い軍事拠点にもなるだろうからね」
「だとすれば、来ますね。間もなく…ハルモニアの軍勢が」
「あぁ…きっと、ね」
戦いは免れないのだろう。
なんとしても勝たなければ国を奪われる。ハルモニアの軍門に下れば、彼らは三等市民として虐げられることになるだろう。ハルモニアの侵攻はグラスランド、ゼクセン双方にとって脅威だ。だというのに彼らは、ハルモニア軍の力を前にすっかり戦意を喪失してしまっている。グラスランドの戦士も、ゼクセンの騎士も兵も。この状況で攻め込まれでもしたらそれこそひとたまりも無いのではないか。…否、これでは既に戦う前から勝敗は決してしまっている。
何か、何か無いだろうか。彼らが奮起するようなことが、何か。
そう思ったときだった。右手の甲に宿る紋章がじんわりと熱を持ち、微細であるがうずき始めたのは。そっと左手を被せるように右手に置いたはを見上げる。彼もまた同じ疼きを感じていたようで、持ち上げた右手に視線を落としていた。
直ぐ近くに、ある。
漆黒の瞳が前を向く。何かを探すように動いて、一点で止まった。
人ごみを掻き分けるようにして現れたカラヤの少年。彼の傍らには面立ちのよく似た年嵩の女性と赤毛の青年、ゼクセンの騎士がいた。
じっと見つめる。その視線が、カラヤの少年の右手へと移った。
「あれ、は…」
彼の手の甲にあったもの、それは紛れも無い真なる火の紋章であった。
「ハルモニアの手には渡っていなかったようですね」
「そうだね…でもたとえ火の紋章がこちら側にあったのだとしても、今のままじゃ勝てるかどうか怪しいところだな」
「それは、どういう…?」
独り言のように漏らされたの呟きに、は言い差して周囲を見渡す。そうして彼の言わんとしていることを悟った。
ゼクセンの人々はグラスランド人を拒んでいるわけではなかった。しかし受け入れているわけでもなかった。グラスランドの人々も同様だ。お互いがお互いに無関心を装っている。共闘し同じ敵と戦ってきたとは思えないほどに、顔も合わせなければ目を合わせることもなかった。
は眉根を寄せる。これでは駄目だ。
「力を一つに合わせなければあの大国を相手に出来るわけがないよ。でも彼らは互いを快く思っていない。昔からの因縁、角質。そういったものが根付いているから仕方が無いとは思うけど、それじゃ駄目だよね」
「ええ。互いに信頼し力を合わせることは必要です。戦であれば尚の事……。でも、やはり難しいことなんだと思います。人は酷く囚われやすい生き物ですから」
必要と思っていても納得は出来ない。頭では理解できていても心が受け入れることが出来ない。つまりはそういうことだ。形だけで動けるほど、人の心というものは簡単に出来てはいない。
「このままじゃハルモニアの軍門に下るだけだね。そんなこと誰も望んじゃいないだろうに」
「でも、私たちではどうすることも出来ませんから」
「そうだね」
それでは駄目だからと、よそ者が何を言ったところで聞き入れてもらえるはずもなく。二人はただ黙って見守ることしか出来なかった。もどかしいな、とは思う。自分の言葉で多くの人間が動いた昔とでは事情が違う。
さあどうなるか。がもう一度周囲に視線をやった時だった。いつの間にか先ほど人ごみを分けて出てきた彼らはカラヤの少年を残すのみになっていて、彼は何かを決意したように唇を引き結んで真っ直ぐに前を据えていた。強い意志に満ち溢れる眼光。おや、とレナンは口元を緩ませる。
「、大丈夫かもしれないよ」
あの瞳には覚えがある。十五年前の統一戦争を率いていたリーダーと同じ光を宿した瞳。
「え?」
「きっと彼が導いてくれる」
それは絶望に落ちた人々の心に希望を齎してくれる光だ。
***
「俺はヒューゴ。カラヤクランの子だ」
名を告げ、部族をつげ、そうして彼は語った。自らが戦いに挑む理由を、想いを。
失った親友、仲間、村、大切だったもの。全てが奪われた。守れる力が欲しかった。二度と大切なものを失わないために、彼は戦うのだと。
若葉の芽吹く頃の草原によく似た色を持つ緑の瞳を向け、彼はグラスランド、ゼクセンの人々に問いかける。守りたいもの、守りたい人、守りたい思い出は無いのか。大切なものは、失いたくないものは?
戦わずしてそれを失い、踏みにじられても構わないのかと、強く切実に問いかける。それは俯き、希望を見失っていた人々の心に届き始めていた。
彼の言葉を聞きながらはそっと目を伏せる。
「守りたい、もの…」
が一番守りたいと思うものはルックだ。ハルモニアの侵攻を許してしまうということは、ルックの目的に一歩近づけてしまうことに他ならない。目的に近づくということは、彼の命の灯火がまた一つ消えていくのと同じこと。それはにとってどうしても避けたいことだった。
(少しでも妨げになるのなら…)
ヒューゴの想いを聞き一人、また一人と立ち上がる。彼らの顔に明るさと希望の光が宿り始める。強く武器を握り締め、戦う意思を表明するかのように。
やがて彼らの一人が高く武器を掲げて叫んだ。
「今は共に戦うとき! 炎の英雄の名の下に!」
わぁと喊声が巻き起こる。人々は次々に武器を掲げ、新たな英雄の名を叫ぶ。
ヒューゴはぐっと口元を引き結ぶと右手を高く掲げた。熱を持った紋章が紅く輝き炎を生み出す。
「俺はこの右手に誓う! 炎の英雄の志を受け継ぐものとして、炎の英雄ヒューゴとしてこの地を守るために戦うと!!」
それはまごうことなき、新たな炎の英雄誕生の瞬間だった。
「ここからが正念場だね」
「ええ。じきハルモニア軍もここへ辿り着くでしょう。どこまで持ちこたえられるか……でも、勝つ必要はないんですよね? 要は負けなければ…」
何かを考え込みながらのの言葉には頷く。
ハルモニアをこれ以上進軍させなければ良い。足止めをして、そのまま退けることが出来れば。戦力の差を考えれば難しいことかもしれないが、新たなる炎の英雄を抱いた今の彼らの士気はハルモニア軍を上回るだろう。戦において兵の士気は何よりも重要だ。それにハルモニア軍はここまでの強行軍で疲れも出ているはずだから、勝機が全く無いわけではない。…こちら側にも負傷者は多いけれど。
動き出したグラスランド、ゼクセンの兵士たちを見ては隣のに問いかけた。
「さて、僕らはどうしようか」
「そうですね…」
指先を口元にあて考え込んだだったが、ふと思いついたように顔を上げた。
H22.10.08 橋田葵
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