Prelude ―序曲―

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 寒い。びっしりと鳥肌の立った向き出しの両腕を抱き、暖めようとごしごしさするがあまり効果はない。
外気にさらされた肌はすぐに冷えて容赦なく体温を奪っていく。
 寒い。吐き出した息が白く凍りつくほどに、空気は冷たく凍えている。もしかしたら雪でも降るんじゃなかろうか。
 思わず見上げた空は曇天。重く立ち込める黒い雲に予想はあながち間違っていないことを悟った。

 その日、大学も夏季休業に入っていたほづみは高校の頃からアルバイトをしてためていた資金で、友達数人と始めての海外旅行へ出かけていた。目的地はイギリス、ロンドン。初めて訪れる海外に多少いつもよりはしゃいでいたのは認めよう。そのせいで友達とはぐれてしまったのも、自分に非がある。
 しかしだからといって、何故突然景色が変わり加えて季節まで変わってしまうのだろうか。真夏といえど東京に比べてロンドンは暖かいと表現できる気温だ。ジメジメと蒸し暑くはなくどちらかといえば空気は乾いていて、朝晩は肌寒さを感じるほどではあるけれど過ごしやすい。
 けれど可笑しい。有りえない。その夏から、何故突然雪も降りそうなほど空気も凍える真冬になってしまうのだろう。
 もしかして夢でも見ているのだろうか。だとしたらこんなに寒さを感じるなんて随分リアルな夢だと思いながらほづみは改めて景色を見渡した。
 真っ直ぐに続く石畳。右手にはレンガ色の建物が立ち並び、左手には白塗りの…教会だろうか。円錐状の屋根のてっぺんに十字架が掲げられている。
 それだけを確認してほづみは歩き始めた。このまま立ち尽くしていたのでは凍えてしまう。とりあえず、どこか。暖かい場所へ。
店か何かあればいい。そう思って歩き始めて数十分。いつの間にかどんどんと込み入った細い路へと進んでしまい、気がつけばすっかり薄暗い裏路地というところへ迷い込んでいた。寒さもそろそろ限界だ。
「寒い。ひもじい。ここはどこ」
 鼻水が垂れてきそうになる。だがそこは女のプライドにかけてなんとしても我慢をする。だってみっともないではないか。
 それにしても人の姿があればここがどこなのか聞くことも出来るのに、どうして先ほどから誰にも出会わないのだ。ひっそりと静まり返った裏路地は寂しく、相変わらず両腕を抱きこんで心もとない暖を取り固まりそうになる足を必死に動かしていたほづみだったが、次第に心細くなってきてそのうち歩くのもやめてしまった。
 しばし何かを思いついめたように俯いていた彼女だったがやがて顔を上げると、
「さむいー!」
 声を大にして叫んだ。
 叫んでみたところで現状が変わるわけではない。分かってはいるが、叫ばずにはいられなかった。寒い。どうしようもなく、寒い。
寒さを通り越して腕は痛みすら感じるほどだ。指先の感覚は既に失せている。そろそろ歯の根も合わなくなってきた。
「やばいって、まずいって。ホント死ぬ。マジ死ぬ。何これ私こんなところで凍え死ぬのやだよ!」
 もと来た路を戻ろうにも入り組んだ路を適当に歩いてきたほづみにはどのように路を通ってきたのか、わからない。
 絶望的だ、とうなだれたほづみの肩をとんとんと叩く手があった。さっきまで誰もいなかったのに。
「こんなところで何をしているんだい、お嬢さん」
 見るからにやばそうな男が一人。にやりと下卑た笑みを見せ。頭の奥で警鐘が鳴る。げ、と顔を引きつらせ後じさりしたほづみを逃がさないとばかりにその男は間を詰めてよってくる。これは、逃げられるだろうか。寒さで鈍くなった足はどれだけ動いてくれるだろう。
「あー、その…路に迷ってしまって…」
「そいつはいけねぇな。おじさんが外の道まで案内してやるよ。ついてきな」
「いえいえ結構です大丈夫。自分で何とかしますから」
 どこからどうみても妖しいあんたには付いていきたくない。内心呟くほづみである。男はほづみの警戒を感じ取ったか、さらに笑みを深くして、ほづみの腕を掴んだ。
「ちょ、何す…離して!」
「いいから大人しくついてきな。人の親切は素直に受け取るもんだぜ?」
「結構ですってば! 小さな親切大きなお世話って言葉知ってます? ちょっと、離してよっ」
「ッチ、つべこべ言わず大人しくついてくりゃいいんだよッ!」
 突然怒鳴り出した男にほづみは思わず身をすくめた。男の怒鳴り声というものは女にとっては酷い恐怖となるものだ。いやだ、怖い。すぐに逃げ出したいのに今のですっかり力の入らなくなった足は言うことを聞かない。腕を掴む男の力は強さを増し、振り払うことも出来ない。 「やだ、離して…っ」
 痛みに顔を顰め、色の失せた唇を噛み締めたところに突然第三者が現れた。
「その手を離してください」


***


 これより少し前、城下に巡回に出ていたキラとアスランの二人は教会の裏路地に入ったところで言い争うような声を聞いた。
 若い娘のものと、男の怒鳴り声。
 若い娘の声にはどこか聞き覚えがあった。とても身近であって遠く、それはずっと探していた少女のもの似ている。
「アスラン」
「ああ」
 意を得たとばかりに互いに頷きあって、それぞれ駆け出した。二手に分かれたほうが早い。
 声は微かだ。ともすれば聞き逃してしまうほど。キラは音のするほうへ意識を向け、声を失わないように細い路地を駆けていった。
 そうして駆けつけた先にいたのは、求めていた存在とは違う少女だったけれど、危うい状況であることに違いはなかった。

 静かな、それでいて威圧を含むまるでこの場にそぐわない若い男の声。それと同時にひたり、とほづみの腕を掴んでいた男の喉下に突きつけられた白く鋭く光る切っ先。
「聞こえませんでしたか。その手を離してくださいと、僕は言ったつもりですが」
 そろそろと声をした方に目を向ける。男に剣を突きつけていたのはほづみとさほど年の変わらない青年だった。印象的な菫色の瞳に、優しげな風貌には不似合いな刀身と同じ鋭い光が宿る。
「今すぐに離さないのならその手を切り落としても構わないんですよ? でもご婦人の前で流石にそれは控えたいですし、僕としても穏便にことを運びたいので…どうします?」
「何を…」
 反論しようとする男に、青年は呆れたように溜息をこぼした。
「警告はしました。あなたがその手を離さないというのなら、僕も手加減するつもりはありませんけど…」
 脅しではないのだろう。突きつけた刃が物語っている。男は忌々しげに舌打ちをして、ほづみの腕を乱暴に離すと路地の奥へと走り去っていった。支えを失ったほづみはそのままへたりと地面に座り込む。助かった。そう思った瞬間寒さとは別の震えがやってきて、がちがちと鳴る口元に拳を押し当てた。助けてくれたこの人にありがとうと言わないといけないのに、声が出ない。怖い。怖かった。
 座り込んだほづみの肩にふわりと暖かなものがかけられた。え、と驚いて見上げると菫色の瞳の青年が優しく微笑んでいる。
「大丈夫ですか」
 わざわざしゃがみこんで視線を合わせて訊ねてくれる青年にほづみは戸惑いつつも頷いて、ぎこちなく口を動かした。肩にかけられたのは、青年が纏っていたローブだった。暖かい。
「助けてくれて、ありがとう」
「いいえ。当然のことをしただけですから。それにしても…」
 そこで一度言葉を区切って、青年は困ったように首をかしげた。
「どうしてそんなに薄着で、こんな所へ? ここは治安があまり良くないんです。僕が通りかからなかったらどうなっていたか…」
 確かにそのとおりだ。もしも彼が現れてくれなかったらと、その先を思うと恐怖が押し寄せてくる。
 黙りこんでしまったほづみに青年はしまった、と僅かな焦りを見せて話題を転換しようとした。だがそれより先に、ほづみが彼に質問をぶつけた。
「あの、ここはどこですか」
「え?」
「私、真夏のイギリスにいたはずなんです。それなのに、気がついたらこんな…冬で」
「イギリス?」
「キラ」
 不思議そうに青年が首をかしげたところで、もう一人別の青年が姿を見せた。すらりと背の高い、藍色の髪と翡翠の瞳を持った綺麗な人。
 座り込んだほづみと、その傍らにしゃがみこんだ青年を見やって、訝るように首を傾けた。ブーツの底を静かに鳴らして近づいてくる。
「アスラン…」
「見つかったのか?」
「うん。ただね、ちょっと困ったことになってる見たいなんだ、彼女」
「は?」
 どういうことだとアスランと呼ばれた青年が聞き返す。それに対してキラ、と呼ばれた青年は軽く首を傾けてほづみを見やった。
「えーと、名前を聞いてもいいですか? 僕はキラです。キラ・ヤマト。こっちがアスラン・ザラ」
「あ、えと。上条ほづみです。あ…ほづみ上条と言ったほうがいいのかな。ほづみがファーストネーム。上条がファミリーネームです」
 多分ここは日本ではない。そう思って言いなおしたほづみに、キラと名乗った青年が柔らかく笑った。
「それで…ほづみさん? イギリスというところに着ていたといってましたけど…」
 キラがほづみに聞き返した彼女が頷いたところで、アスランとキラは顔を見合わせた。
 イギリス。アスランとキラの知る限り、イギリスという名前の付いた土地は少なくともこの近隣には存在しない。それに彼女の格好も妙だ。
もしも旅人であれば軽装過ぎるし、この季節にあまりにも寒々しい服装。不安を浮かべて二人を見るほづみの顔立ちは、この辺りではあまり見かけないものだ。闇を塗り固めたような漆黒の髪は長く、腰の辺りまであるそれは空気を含んでふわふわと巻いている。アスランとキラを見つめる瞳も髪色と同色だ。
 彼女がこことは別の場所からきた。それは確かなようだが…。
「どうしようか。アスラン」
「一度場所を変えたほうがいいだろうな」
「そうだね」
 頷いて再びほづみに視線を向けた。キラのかぶせたローブの端を握り締めて座り込んだままの彼女は、先ほどの恐怖からか足に力が入らないようで力なく地面に座り込んだままだ。どれだけの間、その薄着でいたのか知れないが頬は血色を失って白く、唇は紫に変色してしまっている。相当寒さを感じているだろう。いつまでもこんな所にいさせてはいけない。
「立てますか?」
「あ、と。ごめんなさい、ちょっと腰抜けちゃって…」
 情けなさに苦笑が漏れる。でも初対面の人に迷惑をかけてはいけないと、ほづみは両足を叱咤して立ち上がろうとするがやはり力は入らない。もうしばらくすれば動けるようになるだろうが、どうしよう。待っていてもらうわけにはいかない。だけどこんなところに一人置いていかれるのも嫌だ。またさっきの男みたいな人が現れたら、今度こそどうなるか分からない。
 後から追いかけますともいえないし、どうしたものか。悩むほづみの傍、キラと視線を交わしたアスランは頷いて彼女の傍らに膝を付いた。
「失礼」
「え…うわっ」
 突然抱きあげられ、浮遊感に思わずしがみついてしまってから顔を赤くして離れようとした。が、落ちるぞと冷静に言われてほづみは動きを止める。恥ずかしい。
生まれてこの方、お姫様抱っこなんてされたことはない。ましてやこんな綺麗な男の人に! 恥ずかしい。どうしよう。真っ赤な顔をして、ほづみは降ろしてくれるよう頼み込んだがアスランもキラも聞き入れてはくれなかった。
「あの、一体どこへ…」
「うーん。そうだね、とりあえず僕のうちにおいでよ。あ、母さんもいるから大丈夫だよ」
「でもそんな、悪い…」
「でもさ、ほづみさん行く宛とかある?」
 ずばり言い当てられほづみはうっと押し黙った。それを見てアスランがくすくすと笑う。
「アスランさん…」
「あぁ、悪い。ま、着くまでは大人しくしていることだな。途中で落としたりしないから安心していいぞ」
「でも…私、重いし…恥ずかしいし…」
「すぐだから、大丈夫だよ」
 そういわれて安心したほづみは、しぶしぶ頷いた。アスランに抱きかかえられ初めこそ体中をがちがちにして緊張していたほづみだったが、包まれた人の温もりに安心しきっていつの間にか眠りについてしまっていた。