明るい日差しが部屋の中を満たす穏やかな昼下がり。ビュッデヒュッケ城の城主を努めるトーマスは、ブラス城より戻ってずっと執務室に篭り評議会へ提出する書類を書いていた。丸めた羊皮紙の上下に錘を置いて伸ばし、白い羽のついたペン先に黒のインクを浸す。間違えないようにゆっくりと。息を吸って吐いて、よしと気合いを入れて書き出した直後。ノックもなしに扉が轟音を立てて開いた。
「トーマスさまぁあ!!」
「ぅわッ」
心臓が口から飛び出るかと思った。驚きのあまり声を上げ、その拍子にペン先から落ちたインクが羊皮紙にぼとりと黒い染みを作る。じわじわと徐々に広がる染みを眺めて、トーマスはがっくりと肩を落とした。これではもう正式な物として提出できないではないか。
「あぁ…」
「あれ、トーマス様? どうかされたんですか?」
トーマスが意気消沈する原因となった張本人は己がそうとは全く持って気づかぬまま、無邪気に首を傾げて城主を見ていた。トーマスは力無くなんでもないよと首を振り、無駄になった羊皮紙を丸めて屑籠に投げ捨てる。すでに屑籠は使い古した紙の山となっていて、新に飛んできた羊皮紙は山の一角となることもなく寂しく床に落ちた。
「セシル、あのね。前にも言ったと思うけど、扉を開ける前に一応ノックしてくれるかい」
「あ、すみません。トーマス様。でもそんなことより、聞いてください!」
やんわりと諌めたつもりがそんなことと片付けられ、トーマスはまた落ち込む。いや、わかっている。わかっていたんだ。セシルには何を言っても無駄だということぐらい。でも少しぐらい気に留めてほしかったな、などと思うトーマスである。慰めるように執事のセバスチャンがトーマスの肩にそっと手を乗せた。
「新しく出店希望の方がいらっしゃったんですよ!」
「本当かい? セシル」
「はい!」
元気よく返事をし、セシルは扉の向こうで待たせていた二人を部屋の中へ招きいれた。
呼ばれ、部屋へと足を踏み入れた二人…とはそれぞれが困惑したように顔を見合わせて、城主と思しき少年へと顔を向けた。
ん? とトーマスは首を傾げる。何か様子が可笑しい。疑問をあらわすように首を傾げて、にこにこと機嫌よく笑うセシルへと困惑気味な様子の二人を交互に見やって、躊躇うように口を開いた。あぁ、いやな予感。
「あの、変なことをお聞きするようで申し訳ないんですけど…」
そう前置きをして、トーマスは二人に尋ねた。
「出店希望、というのは本当ですか? それが本当なら僕らとしてはとても嬉しいんですけど…」
でも、とトーマスは思う。目の前の二人の様子から、どう見ても出店希望者には見えない。
トーマスの問いには微苦笑して、申し訳なさそうに首を振った。
「申し訳ないのですが、私たちは出店を希望してきたのではありません」
「あぁ、やっぱり」
「え、え、え? どういうことですか、トーマス様??」
未だ状況を理解していないセシルは大きな目をぱちくりと瞬かせて城主を見る。
「セシル。この人たちが出店を希望してきた、とそう言っていたかい?」
あ、とセシルが呟いた。トーマスは思わず天井を仰いだ。
セシルの早とちりは今に始まったことじゃない。大方城の前にいた彼らを出店希望者と勘違いして無理矢理連れて来てしまったのだろう。額に手を当ててから息を一つ吐き、トーマスは厳しい顔をした。
「駄目だよセシル。ちゃんと話を聞いて、それからじゃないと」
「はい。ごめんなさい、トーマス様。お客様もすみませんでした」
「いいよ。気にして無いし、初めにちゃんと否定しなかった僕たちにも非があるからね。ええと、城主様? も、あんまり彼女の事責めないであげてね」
「ありがとうございます。あの、お二人の名前を教えてもらってもいいでしょうか。僕はトーマスといいます。一応この城の城主をしています」
「私はと申します」
「僕はだよ。よろしく」
それぞれ名乗った二人を見てトーマスは不思議な二人だなと思った。年は自分よりも二つみっつ年上だろうけど、それにしては大人びた…というか、随分落ち着いた雰囲気の二人だ。二人ともこの辺りではあまり見かけない黒髪だけど、面立ちが似ていないから兄弟というわけではないだろう。かといって恋人同士でもなさそうだし、友人…というのも少し違う気がした。上手く言えないが。
「お二人は観光でいらしたんですか? でしたらどうぞゆっくりしていって下さい」
トーマスの言葉にがゆっくりと首を振った。
「いいえ、トーマス様。私たちは観光で来たのではないのです。別の目的があって参りました」
「目的、ですか?」
こんな辺鄙な土地へ出店でもなく観光でもなく、わざわざやってくる目的とはなんだろう。
思案するトーマスへ黒い瞳が真っ直ぐに向いた。
「私たちは軍へ…炎の運び手に参加させていただきたく、参りました」
「……えっ?」
声を上げたのはトーマスだけではなかった。セシルもセバスチャンも、予想だにしなかったの言葉に驚いてぽかんと口を開けている。
「軍へ、ですか? 炎の運び手として?」
「ええ」
「そう、ですか。でも……」
トーマスは何か言いかけて口ごもる。
「ごめんなさい、僕では軍への参加云々の判断をすることが出来ないんです…決定権がないので。直接ヒューゴ…炎の英雄にお会いになったほうがいいですね。案内します」
そういって歩き始めたトーマスの背に向かっては問いかけた。
「…いいのかい?」
「え?」
トーマスが足を止めて振り返り、じっと自分を見つめる紫暗色の瞳にしばし怪訝そうな顔をする。
「何が、ですか?」
「うん? そんなにすんなりと炎の英雄に合わせてしまってもいいのかな、と思ってさ」
にこりと笑うからトーマスは真意を読み取ることは出来なかった。
歩きながらは考える。今この城は人を集めている。商業を営む人、軍へ志願をする人、行き場を失った人、情報を得ようとする人など様々だ。どんな人でも拒むことなく受け入れる。それはいいことかもしれない。けれどだからこそ、常に危険と隣り合わせであることに彼らは気付いているのだろうか。
警備兵の一人もいない無防備な城門を思い出す。誰でも受け入れる、とはつまり。
(スパイ…刺客でもすんなり入り込めるってことだよな)
つまりはそういうことなのだ。
人を疑わない素直な心は彼の美徳であるかもしれないが、城主としてもう少し疑いの心は持ち合わせるべきだ。でなければいつ何があるとも限らない。
全ての人間が炎の英雄に対して、好意的な感情を持っているとは限らないのだから。
二人が案内されたのは一階にある広間だった。ここでは主に軍議を行っているのだという。
「少し待っていてくださいね」
二人にそう言ってトーマスは扉を二度ほど叩いた。
少しの間の後扉の向こうから反応がある。
「あの、トーマスです。軍議中にすみません。少しいいですか」
扉を開けてそういったトーマスの元へヒューゴが近づいてきた。少し離れた位置に立つとにはまだ気付かない。
「あれ、トーマス。どうしたんだ? 確か評議会に提出する書類があるから軍議には出られないって言ってなかった?」
「あ、はい。そうなんですけど、実は皆さんに合わせたい人がいて…軍への志願者なんですけど」
「志願者? 誰?」
トーマスに示され何気なく扉の外を覗いたヒューゴは、意外な二人の姿を見つけて驚きに声を上げた。
H19.09.21
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