夜明け前に外に出て空を見上げた。
紫がかった雲が棚引く山間に目を細める。包み込むような優しい色合い。
私が好きなあの人の瞳の色に、似ていると。
そう思ったら胸が暖かくなるのと同時にぎゅっと苦しくなって、涙が溢れた。
思いは届かない。願いは叶わない。
私とあの人の気持ちは重なり合うことがないまま。
明日が来なければ良いと思う。ずっとこのまま今日が続けば、あの人のそばに居られるのに。少しの我儘を言っても、誰に咎められることもない。
傍に居たいと願うことがそんなにいけないことだろうか。
あの人を好きだと思う気持ちは罪なんだろうか。
それでも私は、あの人が好きで、たまらなくいとおしくて。
なのにどうして、運命は、神様はこんなにも残酷なんだろう。
* * *
嫁ぎ先が決まったのだと聞かされたのは、夏が訪れる少し前のことだった。
相手は左大臣家に連なる血脈の貴族の嫡男だという。年はよりも三つ年上であるというが、正直そんなことはどうでもよかった。
「結婚…?」
「少し前に市井の祭りに出かけただろう。その折に見初めてくださったのだそうだ。是非にと、先方が強く望まれてね」
「よかったわね、」
よかった? 何が良かったというのだろう。
鼓動が嫌に鳴り響いている。
顔も名前も知らない相手に嫁ぐのはこの時世珍しいことではないし、貴族であれば尚の事。の歳では少し遅いぐらいであるし、嫁ぎ先が決まったのは喜ぶべきことだ。下流貴族である自分が傍流とはいえ今をときめく藤原一門に嫁げるなど奇跡にも近い。こんな機会は二度とないのだろう、けれど。
(あぁ、どうして)
はそっと顔を伏せる。頬削ぎの髪がはらはらと白い顔(かんばせ)を覆い傍からその表情は見えないが、伏せられたの表情は深く沈んだものであった。寄せられた細い眉。眦は下がりそれは今にも泣き出しそうに。袖の中できつく握り締めた拳は白く色を変えるほどであるというのに。
彼女は決して涙を零しはしなかった。
ゆっくりと顔を上げたに沈んだ様子は微塵も見えず、驚くほど柔らかな微笑を浮かべて頷き、両親に感謝の意を述べた。
そんな彼女を前にして、の気持ちを知らない両親は良縁に恵まれたと上機嫌で。の気持ちを知る祖父と昌浩は案じるように彼女を見つめていた。
居合わせた神将たちもそれぞれが、素直に祝福の言葉を贈れずに居る。は両親に気付かれてはならないと、決して嫌な顔一つしない。笑えと自らに命じ、偽りの笑顔を貼り付けて喜んでいるふりをして。本当の気持ちを一つたりとも口に出さず。
痛い痛いと泣いている彼女の心が声が聞こえてくるようで、たまらなく切ない。
話を終え退室した両親の背を見送って、は震える両手で顔を覆った。あぁ、こんなこと。悪い夢であって欲しい。夢であるなら今すぐ覚めて欲しいと願うのに。どんよりと空を覆う鈍色の雲のように、胸のうちが暗く翳ってゆく。指先が冷たく凍えていく。
「…」
「ごめんね、昌浩。少しの間、一人にしてくれる?」
気遣うように声をかけてきた弟をやんわりと拒絶して、しばし躊躇いを見せてから昌浩は祖父に無言で促されて部屋を出た。今はそっとしておくべきと判断した神将たちはそれぞれが隠行し姿を隠す。しんと静まり返り人気のなくなった部屋の中。ぽつりぽつりと軒を叩き始めた雨に紛れるように、は声を押し殺して泣いた。
には想う人が居た。
彼は祖父に従う十二神将が一人。優しくを見つめてくれる人だった。
決して添い遂げることの出来ない相手ではあったけれど、は彼の傍に居て彼を想っていられるだけで十分幸せだった。
なのに、嫁いでしまってはそれすらも叶わなくなる。
「太裳……」
「……姫様」
想い人の名を口に出せば彼は音もなく顕現し、の傍らに膝をついた。
両手で顔を覆い隠し肩を震わせるの黒髪を宥めるように撫でて、名を呼ぶ。
「様」
「わかってる…分かってるわ」
両親は意地悪でやっているわけではない。ただ心から娘が幸せになれればと、それを願っているのだ。だから文句なんて言えない。我儘も不満も言ってはいけない。彼らは自分のためを思ってくれている。
そこへ太裳が好きだから、嫁に行くのはいやなどと言ったところで困らせ悲しませてしまうだけなのは目に見えている。人と神将が添い遂げることは出来ないから。
だけど心が拒絶する。この人を慕う、想いがあるから。
自分の心を捻じ曲げてまで他の人を想わなければならない、なんて。
越えられない壁がある。
人になりたくてもなれない神と、神になりたくてもなれない人と。
流れる時間が異なるが故に、生きる場所が異なるが故に。壊すことも越えることも出来ない隔たりが、存在する。
「行きたくない。お嫁になんて行きたくないよ。結婚なんてしたくない」
駄々っ子のように首を振るに太裳は穏やかな風貌を曇らせる。
「姫様…」
「太裳は平気なの。私が他の男の人の所へお嫁に行ってしまっても」
を見つめる紫苑の瞳が揺れた。
の手を取って壊れ物を扱うかのようにそっと握り締めた太裳は、の潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめて切々と言の葉を紡ぐ。を見つめる瞳には微かな痛みを孕んでいて、握られた手から伝わる温もりは、愛しくて切ない。
「様。私だって平気なわけではありません。出来るなら今すぐにでも、あなたを攫ってどこか遠くへ行ってしまいたい気持ちです」
けれど出来ない。自分は神で晴明に使える式神でもあり、は人で晴明の孫…安倍の姫だ。どう足掻いても現実は変わらない。は人の世の理に従い、太裳は神の世の理に従い生きていかなければならないのだ。踏み越えることはかなわない。
「でも…でも、わた、し、は…」
貴方の傍に、居たいのに。
嗚咽とともに零された祈りにも似たそれに、太裳は己の無力さを痛感した。
握り締めたの手を引いてふわりと腕の中に閉じ込める。このままどこかへ連れ去ってしまえたら。そう思うのに、己の立場がそれを許さない。今の自分に出来ることはただ、悲しむを慰めることと、精一杯彼女の幸せを願うことのみ。
太裳の腕の中で刹那驚いて身を強張らせたは、続いた太裳の言葉でくしゃりと顔をゆがめると押さえ切れない涙を流した。
「愛しています、様。あなたの幸せを……願っています」
太裳の背に縋るように回された小さな腕が、悲しみに震える。
それはにとってとても幸せで、とても残酷な言葉だった。
初夏の頃、都を行くささやかな花嫁行列。
牛車の窓から外を見たは、人波の中。
此方を見つめて微笑む彼の姿を見つけ、微笑とともに一筋の涙を零した。
我が袖は 潮干に見みえぬ 沖の石の
人こそ知らね かわく間もなし
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結婚話その二、太裳verです。その一は紅蓮。
紅蓮の方はコメディ調なのに対して此方はシリアスです。
人と神将が恋をしたら、やっぱりこうなっちゃうんじゃないかなぁという想像。
久々の短編が報われないお話ですみません。
和歌は百人一首からお借りしました。