「太裳、私にも弓を教えて」
久々に異界から降り立ってみれば、以前見かけたときより幼さが抜けてすっかり美しくなった一の姫が真剣な面持ちで目の前に立っていた。唐突なからの頼まれごとに、太裳は一瞬目を丸くしてそれから優しげな風貌に少々困惑した色を浮かべる。
「突然どうされたのですか?」
やんわり訊ねる太裳に、は少し不安そうにしながら自分より遥かに背の高い彼を上目遣いに見上げて「駄目?」と消え入りそうな声で言うと、小首をかしげた。下がり端の髪がさらりと揺れて白い頬に掛かる。それを指で払いながらは僅かに俯いた。もともと無理を承知で頼んだわけだけれど、やっぱり駄目だろうか。
そんなを余所にさてどうしたものかと、小さな姫を見下ろしたまま太裳は困ったと内心首を捻っていた。弓を教えること自体に問題があるわけではない。本人が望むなら教えてやりたいと思うし、どうして突然弓を習いたいなどと言い出したのか、その理由も知りたいところではあるが自身が言おうとしないのなら無理に聞き出すこともないだろう。
ただ問題なのは、彼女が下級とはいえ貴族の姫であるということだ。これが上二人の兄や、弟の昌浩のように男子であればよいのだがはれっきとした女子である。嫁入り前の彼女に、もし万が一怪我でも負わせてしまったらそれこそ一大事である。自分ひとりの判断では如何ともしがたいと考えた太裳は一度の祖父であり太裳の主でもある晴明に訊ねてみるべきだろうと、彼がいるだろう部屋へと意識を向けた。その太裳の袖をくい、との小さな手が引く。
「昌親兄様や、成親兄様たちは太裳に弓を教えてもらったって言ってたわ。兄様たちばかりずるいもの。私も太裳に教えて欲しい」
「……姫」
困惑した様子で太裳がを呼ぶと、しゅんと彼女はうな垂れた。
「……ごめんなさい。困らせるつもりじゃなかったの」
袖を握る手に力が入っている。その手を包み込むように太裳が手をかぶせると、は一瞬肩を震わせた。諌められると思ったのだろうか。黒い瞳がそろそろと紫苑の瞳を見つめる。目が合うと太裳はを安心させるよう微笑を浮かべた。
「姫、あなたは女性です。二人の兄上様たちとは違う、わかりますね?」
太裳が何を言わんとしているのかを察し、はこくんと頷いた。
「姫が私から弓を習いたいと仰るのなら、喜んでお教えしたいと思います。けれど万が一にもこの綺麗な手に怪我でも負ったらそれこそ大事」
小さな手を包み込んで太裳は言う。指先から伝わる僅かな温もりに、は戸惑うように彼を見上げながらもその言葉を黙って聞いている。
「ですから、まずは晴明様にお伺いしてみましょう」
「…わかった」
もう一度は小さく頷いた。
ずっと立ちっぱなしだったを畳に座らせて、傍に脇息を置いてやる。ありがとうといって脇息に腕を置いた彼女に一度試しに太裳が何故弓を習いたがったのかと訊ねてみるとはうっ、と口ごもった。太裳から目を逸らして視線をそよがせている。それほど言い辛い理由なのだろうかと首を傾ける太裳には消え入りそうな声でぼそりと言った。
「……だもの」
「…はい?」
「だって、太裳は滅多に人界に降りてこないし、来てもすぐ異界に帰っちゃうんだもの」
どこかすねたようには告げる。つまるところ、それは。
「だから弓を教えてもらうことを口実にすれば……ちょっとでも長く一緒にいられると思ったの。でも弓を習ってみたいっていうのも嘘じゃないから、それは誤解しないでね」
必死に言い募るに太裳は虚をつかれたように目を瞬かせ、相好を崩した。まるで親の気を引きたがる子供のようだ。こんなことを言っては怒られてしまうかもしれないけれど。
「そんなことでしたか」
「っ、そんなこと? 私にとっては重要なことだよ」
弾かれたように顔を上げたは拒絶されたと思ったのか、目じりに涙を溜めて太裳を睨んでいた。
「あぁ、すみません。そのようなつもりで言ったのではないのですよ」
優雅に膝を折ってと目線をあわせ、袖の袂で目じりに浮かんだ涙を拭ってやり、紫苑の瞳を細めて優しく笑った。
「普段は用向きが無いのであまり此方には来ていませんが、呼んで下されば参りますよ。流石に何時でも、というわけにはいきませんが…」
それは仕方の無いことだ。太裳の主は晴明であり、はただ晴明の孫であるから神将たちも構ってくれているだけである。無茶を言ってはいけない。
「本当に?」
「はい。ですから泣かないで下さい、姫」
「……よ。姫って呼ばれるの、好きじゃない」
くすくすと笑いながら太裳はの名を呼んだ。幾分機嫌の良くなったは、乱暴に目元を拭って小さな溜息をつくと脇息にもたれかかる。手にした衵扇をぱらりと開いて、閉じた。
「私も男の子だったらよかったのに」
「……それはまた、どうして」
「だって姫でなかったらお爺様の許可がなくても、太裳に弓を教えてもらう事が出来たもの」
確かにそれはそうかもしれない。が、太裳はふむ、と口元に手を当てて考え込んだ。
「ですが…それは少々困りましたね」
「どうして?」
「様が男子になってしまわれたら、あなたを想う私は一体どうしたものでしょうね?」
両手で頬を挟まれてこともなげに告げられた言葉。至近距離で紫苑の瞳に見つめられてはぽとりと扇を取り落とし、真っ赤な顔をして固まった。