それからまた時は流れ。
移ろう時代の中で、私だけは変わらぬまま。
ゆるくまどろむ眠りの中で、懐かしい気配を感じた。あの日の記憶が鮮明によみがえる。私にとってはつい昨日の出来事のようだけど、人が身を置く流れの中では幾年も過ぎているに違いない。いったい何年ぶりだろう。思い出す彼の横顔、去り行く後ろ姿。果たされなかった約束は今もまだ私の中では生きている。
逢いに来てくれたのだろうか。だけど今になって? 考えてみればそれも妙。
だけど逢えるなら嬉しい。
落ち葉の褥から身を起こし、辺りの気配をうかがった。
二つ。近づいてくるものは、二つ。一つは覚えのあるもので、だけど少し違和感を感じた。知っているようで何かが違う。だけど懐かしい。もう一つは、人で無いもの。妖の気配。悪いものではないけれど、この森は私の領域。勝手に入ってこられるのは正直言って不快だ。
牽制するべきかと意識を尖らせて探り、それが単なる妖ではないことを知った。神に属する匂いがする。
「誰かしら」
口元に手を当てて呟いて、私は姿を隠すことにした。木の上に上り森の中に溶け込むように、ひっそりと気配を消して様子を伺う。
さくさく、と落ち葉を踏みしめながら歩いてきたのはまだ年端も行かぬ子供だった。
「だいたいさぁ、もっくんがあっちだこっちだ言うから道に迷ったんだよ」
「おい昌浩、人のせいにするなよ。元はといえばお前がうっかりわき道になんて入ったのがいけないんだろうが!」
ぎゃあぎゃあと騒がしいことこの上ない。思わず眉間に皺を寄せる。人の森に勝手に足を踏み入れた挙句、空気を乱すとは迷惑極まりない二人組みだ。いや、この場合一人と一匹と言うべきだろうか。
それにしても彼から漂う力の気配は、まるであの日であった彼のよう。顔はあまり似ていないけれどもしかして、血縁者なのだろうか。
ちらりと脳裏を過ぎる。私が姿を見せても全く動じた様子の無かった彼の姿。この少年も同じような反応をするのだろうかと考えたら、ほんの少し興味がわいた。
音を立てぬようそっと木の上を移動して、彼の進む道へ先回りしながら二人の会話に耳を傾ける。
「もう大分日が暮れちゃったね。早く森を抜けないと夜になっちゃうよ」
「そう思うならちゃっちゃと歩けよ昌浩」
「もっくんも人の肩の上に乗って楽してないで、ちょっとは歩いたらどうだよっ」
「まあそう言うなよ晴明の孫や」
「孫言うなーーーーーーーー!」
思わぬ単語が耳に飛び込んできて、木の上から降りようとしていた私は目を瞠った。晴明の孫、と今あの妖は言っただろうか。
「孫…?」
昌浩と呼ばれていた、この少年はあの晴明の孫…?
驚いた。人の世ではもうそれほどの時が過ぎていたのか。
「……」
とん、と立っていた枝を蹴って地面に降りる。軽やかに降り立った目の前には少年の姿。彼は私を見て驚いたように目を丸くしていた。肩にのった妖の方はどうやら私の存在に気付いていたようで、ただ黙って夕焼けのような赤い双眸をじっと私に向けている。まるで私が何者か、探るような視線だ。妖を見てくつりと笑うと、少しむっとした表情を浮かべた。
「こんにちは」
「…こ、こんにちは」
挨拶をすれば彼は戸惑いつつも挨拶を返す。晴明の孫にしては随分と素直な子だ。普通、こんな場所で突然人が現れたりすれば警戒して当然だろうに。人と同じ姿をしていても私は妖だ。少し警戒心が足りない気もする。
「森を抜けたいの?」
「おい、昌浩」
私の問いかけに彼が何か言葉を返そうとするが、その前に肩に乗った妖が彼の名を呼んだ。
会話を遮られて些かむっとする。
「…悪いんだけど、そこの妖さんは少し黙っててくれないかな」
「なんだと?」
「私は今、この子と話をしているの。人の会話に割り込むものではないわ」
「人ではないくせに人を語るとは図々しいやつだな」
「あら、失礼ね」
「え、人じゃない…?」
「そうよ。気付かなかった?」
にっこり微笑んでやれば彼は目を瞠って数歩後退した。どうやらわずかばかりの警戒心が芽生えたらしい。いい反応だけど、今それは不要なものだ。私は彼に害を為すつもりはない。
「怖がらないで、警戒しなくてもいいわ。あなたに何かしようってわけじゃないの。ただ少し聞きたいことがあってね。教えてくれたらその代わり森の外へ通じる道を教えてあげる。どう?」
「やめておけ昌浩。妖と取引なんてするとろくな目にあわないぞ。森の外へ通じる道を教えるなんて言っといて、逆に更に迷うことになりかねない」
「もっくん…」
困惑したように少年が妖を見る。
「……さっきから、本当に失礼な妖ね。じゃあいいわ、いつまでも森の中で迷ってれば? 言っておくけどこの森は私の領域。貴方たちを外に出さないようにするなんて、造作も無いことよ」
脅すように言ってみるけれど、そんなつもりは毛頭ない。でもこうでも言わなければ彼と話が出来そうにないと思った。彼は何かを考えるように首をかしげると、口を開いた。
「聞きたいことって何?」
「おい、昌浩」
「ごめん、もっくん。でもこの人悪い感じはしないんだ。大丈夫だと思う」
「お前の勘か?」
「うん」
「…わかった」
しぶしぶ、といった体で妖が引き下がる。その白い小さな頭を撫でて、彼は私と向き直った。
「まずは名乗らせてもらうわね、私は」
「あ、昌浩です」
「そう。ねぇ、昌浩。私の聞きたいことは二つなの。まずは一つ目、あなたは晴明のお孫さん?」
私の問いに昌浩は驚いたように目を丸くして、物の怪と顔をあわせた。
「そうだけど…さんは爺様の知り合いなの?」
「まあ、そうね。知り合いといえば知り合いだわ。やっぱりあなたのお爺様なのね。じゃあ二つ目ね。晴明はまだ生きてる?」
刹那、妖が睨むように私を見た。意外な反応に小首を傾げて見せると、昌浩果たしかに頷いて見せた。どうやら晴明はまだ健在であるらしい。その事実にほっとして、知らぬ間に頬が緩んだ。
「そう。まだ元気なのね…」
人は。驚くほど早く年を取り、死出の旅についてしまうから。死んでしまえば二度とは逢えない。彼が私を覚えていなくても、出来るならもう一度逢いたかった。
「ねぇ、昌浩。晴明に伝えてくれる? 私はまだあなたを待ってるって。そう伝えて」
「伝えるだけでいいの?」
「うん」
「わかった。伝えるよ」
「ありがとう」
ああなんて、優しい子。晴明とは大違いだとそんなことを考えて、微笑を浮かべた。
「約束だから道を教えてあげるね、昌浩。ここを真っ直ぐ、振り返らずに進んで。そうすれば半刻ほどで森を抜けられるから」
ざわざわと私の意志に従って森が動く。彼らのために道が作られていく。
私の言葉どおり振り返らずに去っていく昌浩の後ろ姿を見送り、その姿が完全に見えなくなると今まで見えていたはずの道はゆっくりと木々に覆い隠されていきやがて消失した。
そのまま木の根元に座り込んで、遠い昔に思いを馳せる。
私は何故、妖になどなってしまったのだろう。私は何故、人としての生をまっとうできなかったのだろう。考えてみても答えは見つからない。全ては遠い記憶のかなたに置き去りにしてしまったから。
「……寂しいな」
呟きは森の中に吸い込まれ。誰の耳にも聞き取られることの無いまま。
私は木々の隙間から変わることの無い空を仰ぎ見て、そっと目を閉じた。