深い、森の奥

 ゆっくりと時が流れる。
 ゆっくりと空気が、動く。
 世界が少しずつ変わり、色彩を帯びて、鮮やかに。



 闇の中を彷徨っていた意識が浮上して、閉ざしていた瞼をゆっくりと持ち上げる。まぶしい光が視界を覆って一度、きつく目を閉じる。
 どれだけ長い間眠っていたのだろう。一日か、一月か。それとも一年? 十年? 人としての生を捨ててから長い時間が立ちすぎて、人としての感覚が薄れている。
 そんな自分に自嘲するように笑い、ふと草の根を踏み分ける微かな音に気付き眼下を見下ろすと、一人の青年がいた。
 年のころは二十歳前後、だろうか。長い髪を首の後ろで一つに括り、纏うものは白の狩衣に浅葱の狩袴。烏帽子はつけていない。
 人にしては整った面立ち。どこか冷たい印象すら与える。
 このような山深い場所に、人が何のようだろう。
 微かな興味を抱いて、音を立てずに地に降り立つと彼の背後に立った。気配は消している。気付かれているわけがない。
 驚く様を想像して湧き上がる笑みを堪えながら声を掛けた。
「ねぇ、何をしているの?」
 たいていの人間は腰を抜かすか、化生の類が現れたと慌てふためいて逃げ出していく。けれど彼は違った。まるで初めから、私がいたことに気付いていたようにゆるりと振り向いて口元に笑みを乗せた。瞳は笑っていない。
「…驚かないんだ」
「驚いて欲しかったのか?」
「んー、そうね。大げさに驚いて人のこと化け物呼ばわりして逃げ出していく人は嫌だけど、ちょっとくらい驚いてほしかったかなぁ」
 具体的な例を挙げ、わざとらしく肩をすくめて見せると青年はくつくつと喉を鳴らして笑った。
「わがままな奴だな」
「失礼だね」
「事実だろう?」
「否定はしないけどさ。なんていうかあなた性格悪いでしょ」
 疑問と見せかけて断定の響きを持って言う。
 瞳を眇めてじとりと睨むが彼は何処吹く風、といった様子だった。
 そんなやりとりをしながらも、彼の歩は止まらず進み続けている。このまま行くと何があっただろうか。思考をめぐらせ森の全体図を頭に思い浮かべる。
「ところで、お前」
「ん?」
「なんでついてくる」
「え、いいじゃない。人間なんて珍しいんだもの。私、人と話すのすごく久しぶりなの」
「久しぶり、ね」
「そうよ。…そうね、どのくらいになるのかしら」
 過去を辿る。指折り数えてみると、最後に人とまともな会話をしてからざっと五十年は過ぎている。
 そう告げたら彼は少し意外だという顔をした。
「外見に似合わず偉く長きだな」
「余計なお世話。ところで私の名前はお前、じゃないわよ」
「何だ突然。お前でも問題ないだろう」
 その言葉に些かむっとする。
 正面に回りこんで頭一つ分高い彼の鼻先に指を突きつけた。ぴたり、と彼の歩が止まる。
「問題大有り。名前って大切なのよ。そうだ、あなたの名前教えて? そうしたら私の名前も教えてあげる。どう?」
「どうって、お前がただ名乗りたいだけだろう?」
「それもあるけど、あなたの名前を知りたいってのも本当。それに私だけ名乗ってあなたが名乗らないってなぁんか不公平じゃない? ちゃんと教えてあげるから、さ、お先にどうぞ」
「そういわれて名乗るとでも? 第一、妖の言うことのどこまで信用できたものか」
 嘲笑を含んだその言い方に、かちんときた。
 確かに私は人間ではない。部類としては妖の中に入るものかもしれないが、そういう言われ方は心外だ。口約束だろうとなんだろうと、約束は守る。そこらの低級なものたちと一緒にしないで欲しい。
「君さ、本当に失礼な人だね。そんなんじゃ友達できないよ?」
「別に欲しいと思ったことはないさ」
「うわ。人間としてそれってどうなの?」
「妖風情が口にする言葉ではないな」
「いちいち癪に障るなぁ。でも許してあげる」
 私は心が寛容だから。
 にっこりと瞳を細めて笑うと、彼は訝しそうな顔をした。
「仕方ないから私が先に教えてあげるわ。覚えて、私の名前は
?」
「そう。名前を呼ばれるのとっても久しぶり。もっと呼んで? 良い名前でしょう」
 私は自分の名前が気に入っている。これは私が、今の私である前からずっと使い続けている名前だから。
「さ、私が教えたのだから、今度はあなたの名前を教えて?」
「教えないといったら?」
「約束破るの?」
「お前が一方的にしただけだろう」
「お前じゃないわ。よ。一方的にって酷いわね」
 唸る私を見て彼は面白そうに、声を立てて笑った。その一瞬、彼を取り巻く空気が和らぐ。
「晴明だ」
「セイメイ? あ、あなたの名前?」
「知りたかったのだろう?」
「ああ、うん。まあそれはそうなんだけど」
「不満そうだな」
「不満というか、納得がいかないというか」
 でも教えてもらえたことは素直に嬉しい。
 セイメイとはどういう文字を当てるのだろうと、考えながら口の中で名前を繰り返していると、彼は私をじっとみておもむろに言った。
…お前、元は人間だろう。何故妖になどなった」
「…さぁ、覚えてないわそんな事。どれだけ昔のことだと思ってるの」
「いいたくないのなら別にいいさ」
「だから忘れたんだってば。…思い出したくないわけでもないのよ」
 そう思い出したくないわけではない。本当に忘れてしまったのだ。
 それこそ初めは、思い出したくなくて思い出さないようにしていたのかもしれない。でもいつしか、そうして記憶の奥深くへと追いやっているうち、忘れてしまった。
 今では思い出そうとしても、思い出すことは叶わない。
 思い出そうと思ったことも、ない。だって誰にも聞かれなかった。私は、今の私で居ることが当然で、疑問など持ったこともなかった。
「それを言うならあなたこそ」
「どういう意味だ?」
「あなた純粋な人間じゃないでしょう?」
「よくわかったな」
「馬鹿にしてるの? これでも力は強い方なの」
 彼が私のそばを通りかかるそれより前、この森に足を踏み入れただろう瞬間から何か不思議な力を感じていた。それは彼から零れ出るもので、純粋な人のものではない。
「大体予想は付くけどね…」
 狐の鳴き真似をしてみせると彼は微笑しただけで、何も言わなかった。
 いつの間にか再開していた私と晴命の歩。しばらく無言のまま歩き続けて、途中晴明という字の綴りを教えてもらった。そういえば私は晴明の目的地を知らない。何処へ行くのかと訊ねれば以外にもすんなりと彼は教えてくれた。少し以外だったけれど。
 やがて私たちは晴命が目指す場所近くへとたどり着いていた。
「…私はここまでね。ここから先は私の領域じゃないから、うかつに足を踏み入れたり出来ないもの。気をつけてね」
 晴明が軽く頷く。何故だか、胸がじんわりと温かくなった。
「ねえ晴明。私、この森からは出られないの。だからさ、また来てくれる?」
 この森での生活を辛いと感じたことはない。けれど時折、むなしさを感じることはあった。
 話し相手が欲しかった。ここで人の言葉を解する生物は私だけで、けれどこの森の置く深くに人間は滅多に足を踏み入れない。
 たとえ入ってきたとして、彼らは私が声を掛けると驚いて逃げ出してしますから、こうして人と話すのは本当に久しぶりで、相手がこんな意地悪な人間だったとしても、逃げずに言葉を交わしてくれたことが正直嬉しかった。
「…そうだな。気が向いたら」
「ええ、約束よ」

 至極簡単な口約束。
 だけど私はその約束を信じて永い時を待ち続け、けれど彼がこの森に再び姿を見せることは終ぞ無かった。