忘却と今

 不思議に思っていたことがある。ずっと。
 口には出さないだけだったのかもしれないけれど、どうして。父も、母も、兄たちも皆。亡くなった姉のことを会話の中に出すことがなかったのか。
 昌浩はずっと不思議だった。
 だって死んでしまった人は、人の心の中でしか生きられないのに。
 どうしてだろう。



 開けた唐櫃から衣を引っ張り出しふむ、と頷いて首を傾げる姉の後姿を昌浩はじっと見つめていた。物言いたげな視線であるが、見つめられているはと言えば気づいているのかいないのか。ごそごそずるり、と衣を引っ張り出しては広げて眺め、次の衣をまた引っ張り出すという意味不明な作業をひたすらに続け手を止める気配はない。
「これは…私が着ていたものだな。こちらは違うが…。なんだ、全て捨てたと思って居たんだが残してあったのだな」
「…姉上、さっきから何やってるの?」
「ん? ああ。お前がこの前着ていた狩衣がな、生前私が着ていたものと同じだったのでちょっと気になったのだよ。まあ気にするな」
 そう言われても人の部屋で衣をあちらこちらに広げられては気にするな、という方が無理な話だと思うのだけれど。
 ため息を一つつくと昌浩はの隣まで膝行して座りこんだ。齢十六のまま時を止めてしまった姉と視線の高さはほとんど変わらない。まだ少しだけの方が高いくらいだ。なかなか伸びない己の背丈を恨めしく思って渋面になる昌浩である。
 隣に座り込んだかと思えば何やら渋面を浮かべる昌浩には笑って、おもむろに取り出した狩衣の一枚を広げると弟の体に合わせた。そのまま何かを考えるように首を傾け、狩衣を下ろす。
 昌浩の頭に手を置いて、遠い昔を懐かしむようには呟いた。
「いつの前にこんなに大きくなったんだろうな。私が生きていたとき、お前はまだこんなに小さなかったのに」
「あれからもう十年以上立ってるんだよ。俺だって大きくなるよ」
「それはそうだな」
 まぶしそうには目を細めた。
 記憶の中にある昌浩は、病床のの両腕でも抱きかかえられるほどに小さな小さな童だったのに。今はもう抱き上げることなど叶わない。せいぜい抱きしめることぐらいしか出来ないだろう。
 川辺でずっと見守ってきた。いつの間にこの子はこんなに大きくなってしまっていたのだろう。小さかった弟はいつか自分の背丈を、年を追い越して大人になっていく。永遠に年をとることの出来ない、とは違って。
 それが嬉しいような、少し寂しいような、そんな気持ちをは抱き、誤魔化すように昌浩の頭をわしゃわしゃとかき回した。
「…ねえ、姉上。俺さ、ずっと気になってたことがあるんだ」
「ん?」
 なんだ、とが首を傾げる。昌浩はしばし逡巡した後、意を決してずっと心の中にあった疑問を口にした。
「どうしてさ、じい様や父上や母上たちは皆…姉上のことを口に出さないのかなって。だって俺、姉上が死んでから、今まで皆がって名前を口に出したの、聞いたことないんだ」
「あぁ、それはな…」
 言いさしてふと、の瞳に陰りが帯びる。
 聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか。昌浩が不安に思い、伺うように姉を上目遣いに見やれば、しばらくは昌浩を見つめたまま何かを思い耽る表情を見せたが、やがて昌浩を安心させるように笑った。
「あのな、昌浩」
「うん」
「たとえばもし、お前が死んだとする」
「…うん」
「周りの人間が、自分が死んだことを悲しむのは辛いだろう? 悲しんで欲しくないと思うだろう? それなら、始めからいなかったことにしてしまえば良いのではないかと、そう思わないか?」
「……姉上、まさか」
 瞠目する昌浩に、そうだよとは頷いた。
 人にとっては遠い昔。十年という歳月が流れる、それより前。まだが生きていたころ。
 常に床について離れられないを誰よりも悲しんだ人が居た。母の露樹だ。
 露樹は、の身の内に宿る甚大な力の存在を知らなかった。それ故に、丈夫に生んであげられなかったということをただ悔やんでいた。あまりにもそれが痛ましくて、申し訳無くてだからは決意したのだ。
「母の記憶から、私を消した。父や兄たちは覚えているよ。もちろん、おじい様もね。けれど母が覚えていないのに、私の名を口に出すことなど出来ないだろう? だから誰も口にしなかった。暗黙の了解というやつでね」
「……姉上は寂しくなかったの?」
 母親の中から、自分の存在が消されてしまって。始めから、存在しなかったことになって。
 寂しくは、なかったのだろうか。
 は記憶を探る。覚えていた母が、自分を忘れた瞬間。えもいわれぬ空虚感が、胸を襲ったのを覚えている。ぱたりと姿を見せなくなった母。そして、隠れるように生活することになった自分。母の与り知らぬところで、ひっそりと息を引き取った。終ぞ母の姿を見ることも叶わずに。その道を選んだのは自身であったけれど、寂しくないはずがなかった。
「そうだね。少し、寂しかったかな」
「……ごめんね、姉上」
「どうして昌浩が謝る?」
「だって俺、姉上を覚えてなかった。忘却の術を掛けられたわけでもないのに、姉上のこと忘れてた。だから、ごめん」
「いや、お前が謝る必要は無いよ。それにな、昌浩。私のかけた術ではないがお前には忘却の術が施されていたんだよ。ほんのわずかだが、忘れる程度にね。きっかけさえあれば思い出せる、そんな些細なものだったが…」
 かけたのは晴明だ。幼い昌浩がうっかり露樹の前での存在を口に出してしまわないように。
 きっかけさえあれば思い出せる些細な術ではあったが、そのきっかけは訪れることはなく姉の存在を忘れたまま昌浩は大きく育った。
 はそれでよかったと思っている。ずっと忘れたままこの心優しい弟が育ってくれたことを、実のところ安堵したのだ。
 沈んだ表情をした弟の後頭部をぺしんと叩きは明るい口調で言った。
「まあそういうわけだ」
「いった。痛いよ、姉上」
「なんだ、だらしが無いぞ。お前じいさまの後継だろう。こんなことで泣き言を垂れていたら紅蓮に笑われるぞ? 晴明の孫の癖に、とな」
「姉上まで孫って言わないでよ。それを言ったら姉上だってじい様の孫じゃないか」
「その孫とはまた意味が違うんだよ」
「どういう意味?」
「さあな。自分で考えろ」
 怪訝そうに見上げる昌浩の頭をは笑いながらまたくしゃりと撫でた。






姉弟揃って同じことをやってるというか考えてると言うかっていう話。
大分昔に書いた物をちょこっと修正。


H24.××.××