熊さんと出遭った

 薄暗い森の中を疾走する小さな影が二つ。一つは人間の子供のもので、もう一つは子供の膝の高さにも満たない小さな小さな不思議な生き物。さらによく見ればその後方から木々をなぎ倒さんばかりの勢いで追いかけてくる何か、がいる。黒くて全身毛で覆われていて、鋭いつめと牙を持つ生き物。 刻は子をすぎたあたり。本来ならば暖かい褥の中で夢路を辿っていてもよい刻限である。
 しかしならば何故、何が悲しくてこんな所で全力疾走していなければならないのかと、走る小さな人影こと昌浩は後ろを追いかけてくる生き物に捕まらないよう全力で走りながら事の発端を思い出していた。
 話は今日の昼間で溯る。
 内裏の出仕から少し早めに帰宅した昌浩は祖父である晴明に呼ばれた。
 なんのことはない。いつものことながら、ちょっとした妖し退治を任されたのだ。
 気が向かないながらもいかねば晴明のねちねちしたいやみが飛んでくる事はわかりきっていたので、不承不承頷いた。出かけ際話を聞きつけた姉も同行して、北山まで足を運んだのだ。退治を任された妖は大した力も無い小物で、退治にさほど時間はかからなかった。問題はここから先だ。
 天狗がすまうと言われている神聖な北山。ここで一体だれが、奴に遭遇すると予想しただろう。
 退治もすんだ事だしさっさと帰ろうと山道を下りはじめた昌浩一行は、ふと前方に黒い塊が蠢くのを見付けた。
 いやな予感を覚えつつも気のせいだろう、と再び歩を進めはじめたのだったがそれが間違いだった。
 昌浩たちがみた黒い塊は。
 餌を求めて山中をさ迷っていた熊だったのだ。
 昌浩と物の怪を絶好の獲物と定めた熊は低い唸り声を上げて向かってきた。焦ったのは昌浩だ。まさかこんなところで熊に襲われるわけにはいかない。いやこんなところでなくても、だが。咄嗟に背を向けて逃げ出した昌浩と物の怪、そして
 そうして二人と一匹、そして一体は何処までも続く追いかけっこを始める事となる。


「うわー! いつまで追いかけてくるんだよー!」
 後ろを振り返り振り返り叫ぶ昌浩は一応体力はあるのでまだしばらくは走っていても問題はない。が、さすがに逃げ切れる自信はなくなってきている。そんな昌浩の足元を白い物がちょこちょこと纏わり付くように走っている。はっきり言って邪魔だ。踏んでしまわないかと気が気でないので走りにくい。いっそ遠くへ蹴り飛ばしてしまっても構わないだろうかと、物騒なことを考える昌浩である。
「っていうかなぁ、昌浩や。熊に足で勝とうなんて無理な話だと思うぞ?」
「ああ全くだな。まあ、でも頑張らないと二度と天照は見られないと思え」
 相打ちをするは、実は先程から空中をふよふよと飛んでいるだけなので全く疲れた様子はない。そもそも生きた人間ではないので、どれほど走ろうと飛ぼうと疲れることは有り得ないのだが。空に浮んだまま昌浩の後を着いて廻る彼女の表情は、今の状況を明らかに楽しんでいる様子だ。
よ、お前は弟を助けてやろうという気はないのか」
「これも立派な陰陽師となるための試練だ。そう思えばなんてことはないだろう」
「そうか?」
「そうだ」
「だぁああ!! そうだ、じゃないよ姉上! もっくんも!! 二人とも喋ってないでなんとかしてよ!」
「甘ったれるな昌浩。妖だけでなく熊も倒せるようになってこそ立派な陰陽師と言えるのだぞ?」
「意味わかんないよ姉上!」
 そもそも陰陽師の仕事の中に熊退治など存在しない。妖となった熊退治ならば有り得るかもしれないが、今追いかけてきているのはいまだ寿命をまっとうしていない生きた立派な熊だ。
 頭をかきむしりたい衝動に駆られる昌浩だが、残念ながらそんな余裕も無い。
 ちょっとでも足を止めたら追いつかれてしまうだろう距離に熊は迫ってきているのだ。
「もっくんもなんで律義に走ってるんだよっ。本性に戻ったらあんな熊すぐに倒せるだろぉっ」
「いや、まあなぁ。そりゃそうなんだけどよ」
 ちらりとを伺い見ると、双色の瞳と目が合って凄然と微笑まれた。
 その微笑を訳すならば「手を出すな」といったところだろうか。
 つまるところ物の怪がそのままの姿で走っているのは、の意図によるところなのだ。
「…俺にも色々と事情があるんだよ。まあ頑張れ、晴明の孫や」
「っ、孫言うなーー! うわっ」
 ほぼ条件反射で叫んだ拍子に足がもつれた。なんとか体勢を立て直すが速度が落ちていたらしい。追いついた熊が獲物確保、とばかりに太い腕を振るった。ぶん、と空を切る音が耳元で響いて鋭い爪が頬をかすり、同時に痛みが走る。
 さー、と血の気が引く思いがした。
 裂傷を負った頬がぴりりと痛い。生暖かいものが伝い落ちる感触がして、手を当てると紅いものがべったりと付いた。
「うわー」
 思わず声を上げる。
 マズイ。このままじゃ熊の餌になってしまう。そんなのはいやだ。
 いちかばちか、術が効くかどうかなんてわからないけれどやるしかない。
 昌浩は覚悟を決める。
 ばっと方向転換し、後ろで鼻息を荒くしている熊と対峙しようと懐に手を突っ込むが、昌浩が符を取り出すより先に彼の眼前にふわり、と白い狩衣が翻った。
「やれやれ」
 長い黒髪が風に踊る。昌浩を背に庇うように熊に向かい合ったは口元を微かに歪め笑みを見せたが、物の怪は知っていた。これは、のこの表情は怒りだ。双色の相貌が静かに燃えている。
 大切な弟に傷を負わせたのが相当気に入らなかったらしい。
 安倍家の人間はどうしてこう、揃いも揃って家族を罵倒されたり危害を加えられたりすると我慢出来なくなるのだろうか。昌浩の一番上の兄が特に顕著だった。
 止める理由も無いしな、と傍観していた物の怪はぼんやりとそんなことを思った。
「姉上?」
 不安げな弟の声に肩越しに昌浩を見ては口の端を吊り上げる。
「私の大切な弟に傷を負わせた罪は重い。さて、償ってもらおうか?」
 唸り声をあげて襲い掛かってきた熊に向かって手を翳す。
 翳された掌から生まれたのは小さな光。鬼火にも似た青白い光は熊に向かって放たれ一瞬で巨大な体を包み込んだ。
 咆哮が轟く。
「……えっ、!?」
 驚いたのは昌浩だ。ごうごうと燃え盛る熊をまじまじと見つめる。まさか丸焼きにしてしまうとは思ってもいなかった。
「ちょ、姉上!?」
「安心しろ。別に焼き尽くすわけじゃない。まあ意識を飛ばさせる程度にな」
 多少苦しい思いはするかもしれないが、すぐ終わる。
 の言葉通り、炎は直ぐに消え去った。ほんの僅かな時間もんどりうっていた熊はやがて唸りを一つ上げるとその場に倒れてぴくりとも動かなくなる。
 恐る恐る近づいた昌浩がちょんとつついてみてもやはり動かない。
「死んでないんだよね?」
「ああ。何ならそのまま息の根を止めて邸に持って返るか? 熊の肉なんぞ食べた事はないから味は分からんが、食べられない事もないだろう?」
「え、だって誰が持って返るの?」
 は無言で物の怪を見つめた。の視線に気付いた物の怪が目を真ん丸くして自分を指差す。
「え、俺!?」
「他にいないだろう」
「だって俺こんなにちっちゃくて愛らしいんだぜ? 熊運ぶなんて無理だって」
「どの口が物を言う。誰がその姿のままで運べと言ったんだ。本性に戻れば問題無かろう?」
「いや、それは……そうなんだけどよ」
「だがまあ、昌浩が乗り気ではないからな。それはそのままそこに置いておこう。目が覚める前に山を降りないとまたおってくるだろうな」
 肩を竦めたの台詞に昌浩は思わず一度熊を見て、頷いた。
「じゃあ早く帰ろう」
「ああ、昌浩。ちょっと待て」
 踵を返そうとした昌浩を止めては彼の正面に立った。何時の間にか自分と同じほどになった昌浩と視線を合せるようにほんの少しだけ身をかがめて、頬に出来た裂傷を診る。
「それほど酷くはないな」
 そっと細い指先が傷口に揺れると小さな痛みが走った。次いで暖かな光が傷口を包み込むように広がる。それが消えたとき頬に走った裂傷も綺麗に消え去っていた。
「わ、すごい」
「特別だぞ。次は治してやらないからな」
「ありがとう、姉上」
 見上げて屈託なく笑う弟に満足そうに頷いて、は彼の頭をぽんぽんと軽く叩くように撫でた。
 そうして無事帰路についた二人と一匹を待ち受けていたのは晴明からの一通の式文で、何時もの如く誉めているのか茶化しているのか、さらには期待しているのか嘆いているのかわからない内容に昌浩が再びぶちきれて文を破り捨てたのは言うまでもない。