夜中にふらりと外へ出た紅蓮が見たのは、瓶子(へいし)と杯を隣において縁側でのんびりと花見酒を楽しむの姿だった。
思いもかけぬ彼女の姿に、紅蓮は立ち止まって思わず眺める。あれは、本当にだろうか。そんなことを思ってしまうのは、いまだかつて一度たりとも彼女が酒を口にしている姿を見たことがないからだった。人違いではないか。咄嗟にそう思ってみて、いやしかしあの後姿は間違いようが無いとすぐに頭を振る。高く結い上げた艶やかな黒髪に白い狩衣。この邸で男装している姫はたった一人しかいない。
一人頭を悩ませる紅蓮の神気に気付き、は桜に向けていた双眸を紅蓮へと移した。佇む神将を捉え、途端彼女の表情が柔らかいものへと変わる。
「やあ、紅蓮」
まるで通りすがりに偶然出逢ったかのような軽い挨拶をされ、何故だか紅蓮は意味もなく狼狽し曖昧な返事をしてからはたと気付き己に問う。一体何を焦る必要があるのか。
そんな紅蓮に気付くことなく再び桜を見上げていただったが、自分に向けられたまま動かない視線を感じて疑問を現すように首を傾げると、もう一度紅蓮の方へ顔を向けた。
「なんだ、紅蓮。何か言いたそうだな」
「、お前……酒なんて呑めたのか?」
激しく唐突な問い。
ぱちくりと、が瞬きをする。それからああと自分の手の中の杯を見て笑った。
「いや、呑めなかったさ」
当然だろうとばかりに答えるである。だが、彼女手の中にある杯に注がれた液体も置かれた瓶子の中に入っているものも正真正銘の酒だった。呑めないのに、酒を傍らにおいて花見を楽しんでいるとは一体どういうことか。首を捻る紅蓮には微苦笑した。
「紅蓮、何を悩んでいるかは想像はつくが……私は呑めなかったと、言ったのであって今でも呑めないとは言っていないぞ」
それは少々回りくどい言い方ではあったが。
「あぁ…」
なるほどと紅蓮は一つ頷いた。確かに先ほどのの言い方は過去形であった。つまり昔は呑めなかったが今では呑めるということなのだろう。……いやしかし待て。頷きかけた中途半端な格好で止まる。それも可笑しくはないか。再び生じた疑問に紅蓮の眉間に一つ皺がよる。
「紅蓮…聞きたいことがあるなら聞こう。顔が相当険しいことになってるぞ」
「お前いつ呑めるようになったんだ?」
「決まっているだろう、死んでからだ」
「は? あー…つまり冥府で、か?」
「そうだ。生きている間は酒を呑む機会なんてなかったしな。可笑しな話だが死んでから呑めるようになった…というより呑まされてな。ここへ来る前、官吏殿に散々つき合わされたんだ。全く迷惑な話だよ」
それは確かに。
大体女であれば酒など嗜む必要は無い。男であれば仕事や付き合いの関係で必要にはなってくるだろうが。それなのに無理やり付き合わされた挙句、呑めないのに呑まされたとあれば迷惑極まりない話だ。
杯を眺めているのにどこか遠くを見るようなの瞳に、紅蓮は思わず同情した。色々あったのだろう。
「…まあ、そんな昔話はさておいて。紅蓮も一緒にどうだい?」
杯を持ち上げてこいこいと手招きをする。その表情はどこか嬉々としていて、紅蓮は表情を緩めるとの傍らに寄った。
瓶子のそばに置かれていたもう一つの杯を紅蓮に手渡すと、はそこへ酒を注いだ。なみなみと注がれた透明な液体。の見つめる先で紅蓮は杯をあおる。じわりと咽喉が熱くなる。久々の感覚だった。そういえばここしばらく酒など口にした記憶が無いなと思い返すがそれもそのはずで、紅蓮にとって酒は特別呑みたいと思うものでもなかった。
「呑めるなら晴明の相手をしてやったらいいだろうに」
呟いた紅蓮にはしばしの無言の後、これでもかというほどに顔を顰めると、
「つまらんから嫌だ」
きっぱりと拒絶した。いやお前仮にも晴明の孫だろうと誰もが思ってしまうほど、あまりにも潔い拒否の言葉に呆気に取られる紅蓮の前で一度杯に口をつけたは続ける。
「何が楽しくて老いた爺様の酒の相手などしてやらねばならん? どうせ酔いが回った爺様の厭味をだらだらぐちぐち、ついでに昌浩に対する孫馬鹿っぷりを延々きかされるはめになるだけだ」
言いながら想像してしまったのだろう。の整った面差しが険しくなり、眉根がきゅっと寄る。唇からは重たい溜息が一つ零れた。
「まあ…確かにそうかもしれんな」
寸分の違いなく同じような想像をした紅蓮が頷くとは「だろう?」と苦笑した。
「それ故、爺様の相手は御免だ。それに私はあなたとこうして花を見ながら酒を楽しむ方がずっといい、とそう思うしな」
見事な花吹雪を見るのなら枯れた爺様の相手をしながら見るよりは、愛しい人と共に見たいと思うのはごくごく当たり前のことだ。
「晴明が聞いたら泣くぞ?」
「嘘泣きか?」
「半分本気で半分嘘泣きだろうな」
真面目に答える紅蓮の言葉に、はくつりくつりと笑みを零すと瓶子を持ち上げた。
ゆったりと流れていく時間は心地よい。春の宵、吹く風はまだ冷たさを孕んでいて人であれば堪えるだろうそれは、寒暖を感じることのない二人にはさしたる問題ではないが、もしここに晴明や昌浩がいたら早々に部屋に戻らせているだろうな、などとぼんやりと考えていた紅蓮は、傍らかでぽつりと零れ落ちた呟きに伏せていた顔を上げてを見た。
「綺麗だな」
細い顎を上向けて瞳を細め、が見つめる先にあるのは満開に咲いた桜の花。風が吹き無数の花びらが舞い上がる。朧月の仄かな明かりに照らし出された宵桜、ちらちらと光を弾いて散りゆく様は幻惑的なまでに人をひきつける美しさがある。
「見事なものだ。まるで花の宴のようだな」
杯に注がれた透明な酒にはら、と落ちた一片の花が小さな波紋を描いた。
今宵咲き誇れたことを歓び歌うように、風に乗り舞い踊る。まさに花の宴。
花びらごと中の酒を飲み干した紅蓮は空になった杯をもったまま、ああ違いないと頷いた。