誰にだって苦手なものの一つや二つあるものだ。
それはだって例外ではない。
春先は、の苦手なそれが大量に発生する時期でもあった。
は蝶が好きだ。
あのひらひらと空を舞う、優雅な姿を眺めていると心落ち着く。それは生前から変わることなく、死して魂だけの身となった今も尚は蝶を眺めているのが好きだった。
いつものように庭に下り、適当な階に腰を下ろしてひらひらと飛ぶ蝶を眺めていたときだった。
「……っ」
差しぬき袴を穿いたの足元に突如それはボトリと降ってきた。
もぞもぞと音がしてきそうに、意外とすばやく動くそれ。
は思わず息を引きつらせる。
目を見開いたまま固まるの元へ何も知らずにぽてぽてと近づいてくる、軽快な足音聞こえて来た。
偶然。そう偶々。そこに居合わせてしまったのが、物の怪の運のつきだった。
少し前。昌浩が仮眠をとるといって自室にこもった。それから半刻。特にすることなく暇をもてあました物の怪は、小さな足音を鳴らしながら邸の中を歩いていた。
途中立ち止まり、長い耳をそよがせる。
馴染んだ気配が少し先にある。
その気配の持ち主の姿を思い浮かべ、少し構ってもらうかとそんなことを考えて歩みを進めると、庭につながる階に座ったまま足元を見つめがっちり固まるの姿があった。
「おい、?」
の真横に回りこんで、の顔を見上げる。
は蒼ざめて固まっていた。ただならぬその様子に物の怪は慌てる。
「おい、どうした…?」
その声でようやく物の怪の存在に気づいたらしいははじかれたように立ちあがると数歩後退さった。
の足元で蠢いていたのは一匹の小さな毛虫。先ほどの前に落ちてきたソレ。
それこそ小指ほどの太さも無い小さな虫だった。
「ん? もしかしてお前、これが嫌いなのか?」
物の怪の問いに壊れた人形のように首を立てに振り、肯定の意を示す。
ほぅ、と呟きながら物の怪は毛虫の前に佇むとあろうことかその小さな前足でそれを叩き潰した。
「っ!!!」
声にならないの悲鳴が上がる。
思いきり頬を引きつらせたまま物の怪を見下ろしているその表情を言い表すならば、「なんてことをしてくれたんだお前は」と言った感じだろうか。
しかし物の怪はそれに気づかず、ぽんぽんと手を払うとを見上げた。それこそ得意げに。
「お、お前…」
ふるふると震える指で物の怪を差す。
「んあ?」
なんだと見上げる物の怪から十歩ほど後ろに後退して、は叫んだ。
「わ…私に近づくなっ」
「……は?」
思わずぽかんとする物の怪。無理も無い。逃げれば追いかけたくなるのは動物の本能。突然分けも解らず近づくことを拒否されれば、逆に近づきたくなるのが人というもの。…物の怪であるからにはして、人ではないのだが。
意味がわからんと言いたげな顔をして、に向かってぽてぽて歩いていく物の怪から距離をとるように、もまた後ろへと下がっていく。
前進後退を続ける二人の距離は、延々縮まらず。
そこへ不意に現れた六合を発見し、は逃げるようにして彼の背後に回りこんだ。
「……どうした、」
実は少し前から一人と一匹の不可思議な行動を眺めていた六合だ。
けれど見ていたのはが物の怪に向かって近づくなと叫んだあたりからだったので、どういう経緯で今の状況になっているのか皆目検討がつかない。
無表情の中に疑問を浮かべつつに訪ねると、は六合の肩越しに震える白い指で物の怪を指差し、更に震える声で呟いた。
ごにょごにょと聞き取りづらいそれを何とか聞き取り、六合は合点がいったと頷く。
「なるほど」
十歩ほど離れたところでお座り体制をしていた物の怪は、何なんだと目を眇めその物の怪に向かって六合が淡々と言い放った。
「近づいてくれるな、だそうだ」
「はぁ?」
「最低でも三日。寄るな触るな近づくな、と言っている」
寄るなと近づくなは言い方は違えど同じ意味なのでは。
面白くない。むっすりと立ちあがった物の怪は理由を問いただすべくに近づこうと、再び歩き出したのだがそれがいけなかった。
ぷつん、と音を立ての中で何かがきれた。
「寄るなと……言っているだろうが―――!!!」
突然ぶわりとの元から風が生じ六合をまたいで物の怪に向かっていく。突然のことに回避することも出来ず、直撃した物の怪は目をまんまるにしたまま哀れ邸の外までぶっとんだ。
背後で荒い息をつきながら物の怪の飛んでいったかなたを見やるを見、六合は深深とため息を吐く。
「満足したか?」
「満足した」
頷くはすっきりとした顔で、六合を見た。
その後満身創痍で戻ってきた物の怪は再びに近づき、屋敷の外へ吹っ飛ばされるということをかれこれ四、五回繰り替えした。
そうしてそれから三日間。物の怪はのそばに寄らせてもらえなかったという。