水蓮

 『お爺様。それは、どのような物?』
『とても美しいものだよ。この世のものとは思えんほどにな』
『一度、見てみたいわ』
『そうだのう。一度、お前にも見せてやりたいなぁ』


***


 その日物の怪は、なにやら神妙な面持ちで庭の池を眺めるの姿を目撃した。渡殿から偶然ソレを見付け、視線はの後ろ姿に向けたまま隣りを歩く昌浩に問い掛ける。
「なあ、あいつは何をやってるんだ?」
 気がついていなかったらしい昌浩はその言葉に、足元の物の怪に一度視線を向け、それから物の怪が見付ける庭方へとつられるように目を向けた。
 するとなるほど物の怪の言うとおり、庭のふちにしゃがみこんで水面を覗き込んでいる姉の姿があった。
 長い黒髪、真白い狩衣が地面につく事も気にせず熱心に何かを探しているようにも見えるが、一体何をしているのだろう。
「聞いてくれば?」
 もっくんになら答えてくれるかもよ。笑顔でそう言い放って、昌浩は物の怪の首根っこを掴みあげると庭に向かって放り投げた。
 最近どうも扱いが酷いような気がする。憮然としながら物の怪は空中で回転して鮮やかに着地を決めた。そのまま振り返ってじろりと睨むと昌浩は素知らぬ顔をして自室の在る対屋へと去って行った。
 小さな足で草を踏みしめの元へ近づくと、微かな神気でも感じ取っていたか振り返ったは白い姿を見付けると目元を和ませた。
「どうした、紅蓮」
 機嫌が悪いとき、は紅蓮が物の怪の姿をしていると昌浩の真似をして「もっくん」と呼ぶ。けれど今日はそうしないということは、そこそこ機嫌は良いのだろう。
 小さな姿のままの隣りに座り込み何をしているんだと見あげる物の怪の姿が、なにやら本当の小動物のようで愛らしく、は思わず物の怪の頭をぽんぽんと撫でていた。
「……おい」
「ん? ああ、悪い。つい」
 苦笑を含んで答えるだが、その実少しも悪いとは思っていないようだ。物の怪に笑いかけて、ついと池の方へ視線を戻した。
「それで? もう一度聞くが、何をしていたんだ?」
「私か? 私は探していたんだよ」
「何を?」
「蓮の花を」
「蓮なら……あるじゃないか。ほれ、その辺に」
 いいながら小さな前足で池を示すと無言で睨まれた。
 間違った事は言っていないはずだが、いったい何故……?
 きょとんと夕焼け色の瞳を丸くする物の怪に、はくすくすと笑ってそうじゃないと首を振った。
 細く白い腕を伸ばし、水につかぬよう袂を押さえながら水面に触れる。本来なら冷たく感じるだろう水の感触が指先に伝わり、は小さく手を動かした。
 本来なら、と表現するのは既に生きた人間でないに冷温など感じる事がないからだ。
 ゆらゆらと揺れる水面に小さな波紋が湧き起こる。連動するように、浮いていた白い蓮の花と葉が揺れていた。
 一番近くにあるそれを救い上げるように手に取る。
「ああ、綺麗だな」
 顔の傍まで持ってきてそう呟いた。
 一連のの不可解な行動に、物の怪は眉間にしわを刻んだまま彼女の横顔を見あげていた。彼女は一体何がしたいのだろう。
 蓮の花が見たいと言い出したり、池の蓮を示せば違うといい、けれどその蓮を見て綺麗だという。
 疑問符を頭に載せたまま怪訝そうな顔をする物の怪に気付いたは、またさざめくように小さく笑うと昔を懐かしむよう視線を落とした。
「お爺様と、昔話した事があってね」
「晴明とか?」
「そうだ。生きてる間、私はあまり外に出られなかっただろう?」
「あー……お前は、そうだったな」
「なんだ気を使う必要はないぞ。もう死んでいるしな。今更だ」
 さらりと言ってのけるに、物の怪は脱力した。
 確かにその通りなのだが……こう開き直られると正直どうしたものかとも思う。
「それでだ。生きてる時にだな……一度見たかったものがあったのだよ」
「見たかったもの?」
「そうだ」
 頷きながら手にしていた蓮の花を物の怪の眼前に差し出した。
 小さな物の怪の頭よりも大きく、の手にはすっぽりとおさまってしまうほどの大きさの花。水に浮いていた為しっとりと濡れているそれに鼻を近づけて、これかと首を傾いだ物の怪には少し違うがそうだと答えた。
 物の怪はまた不可解なの言葉に首の傾斜を更に深くする。
 眉間によった皺は生憎とまだ消えそうに無かったが、しかしそれは次に発せられたの言葉で瞬時に消える事となった。
「紅色の蓮を見てみたかったんだよ」
 紅蓮の名の由来である紅の蓮。
 もちろん、聞いた当初は晴明が与えた紅蓮の名を知りはしなかったけれど、紅色の蓮とはどのようなものなのか興味を持ったのだ。
 の述懐を聞き、虚を衝かれたように固まってしまった物の怪を見下ろしていたは小さく吹き出し物の怪の頭を軽く叩いた。
「何という顔をしている。別に驚くことでもないだろう」
「ああ、いやだってお前……」
「まあ、そういうことなんだ。生憎と、安倍の邸内にそれは存在しなかったんだが……」
 さして落胆した風でもなく、肩を竦めると手にしていた白い蓮を水面に戻した。
 ゆらりと揺れながら水に浮ぶ蓮を見て、物の怪は長い耳をそよがせた。
「縁だろう」
「は?」
「今は見れずともその内……縁があれば見る事もあるかもしれないな。だが取り敢えずは……」
 すくっと立ち上がるとは衣の裾を翻した。
 何処へ行くのかと見守る物の怪を振り返り、にっと口元を歪める。
「お爺様にきいてくる。……しかしなんだ、昌浩の言うところのタヌキ爺がそう簡単に教えてくれるとも思わないがな」
 楽しげに喉を鳴らすとはそのまま邸の中へ入って行った。
 その背を見送って、物の怪は一つ溜息を吐く。
 実を言うと物の怪自身、晴明が自分に与えてくれた名の由来である紅の蓮を見たことがなかった。
 紅蓮の炎は水面に咲き誇る、紅の蓮の如く……。
 晴明はそう言ってくれたが、それは本当に美しいものなのか。解らない。
 見てみたいと、思わないわけではなかったが自分の目で確かめようとしたことがなかったのは……自身の力を疎むところがあったからなのかもしれない。
「……」
 物の怪は立ち上がると、紅の蓮を見る為晴明の元へと向かっているだろうを追って、歩き出した。
(一度、見てみるのもいいかもしれなんな)
 そんなことをふと思って、長い尾をひゅんと揺らした。