安倍の邸に半永久的に滞在を余儀なくされて、およそ一月。
その日彰子は、昌浩の母露樹に頼まれごとをされ、邸の中を歩いていた。
藤原の邸に比べれば広いとは言い難い安倍邸。露樹の居た台番所から目的の部屋まではすぐに辿り着く事が出来た。
「昌浩、いる?」
部屋の主の名を呼びながら、少しの期待を込めて室内を覗き込むが、残念ながら部屋の中に目的人の姿はなかった。
まだ出仕したまま内裏から戻っていないのだろうか。
少しばかり悄然として部屋を去ろうとした彰子の目が、ふいに部屋のすみになんの違和感もなく存在する白い影を捉えた。
それは柱に寄りかかるようにして座り込み、方膝を立てて目を瞑る少女。
纏う衣は真白い狩衣。なりだけを見れば少年のように見えなくも無いが、閉ざした瞼を縁取る長い睫が落とす影。真白い頬に赤い唇。結い上げて尚、くるくると床に弧を描くほどに長い艶やかな黒髪。それらは全て女を表していた。
彰子や昌浩よりも幾分年上だろうか。
頬の丸みはまだ幼さを残すが、静かに瞼を閉じるその様はとても大人びて見える。
(誰かしら……安部の方? 眠っているのかしら……)
見たことの無い少女に驚いて興味を抱き、入り口付近でたたずんだままじっと凝視し微動だにしない彰子の視線を感じてか否か。少女は閉ざした瞼を小さく震わせて、隠していた双眸を露にした。
少しの距離を置いて、二人の目が合う。
少女の瞳を見て、彰子は小さく息を呑んだ。
真っ直ぐに彰子を見た二つの眸は、炎のように鮮やかな紅と闇を塗り固めたかのような漆黒。全く異なる色であるけれど、その双眸はどちらも吸い込まれそうな深みを宿していた。
驚く彰子を見て少女は笑う。
「おや……初めてお目にかかるね。藤の姫君」
紡がれた言葉は流水のようにさらさらと心地よく身に染み入る。高くも低くも無い、中世的な落ち着いた声音。
はっきりした響きの声から、もしかしたら初めから眠ってはいなかったのかもしれないと彰子は思った。実際少女……は眠っていたわけではない。
少しばかり暇を持て余していて、弟たちの帰りを待っていたのだ。
自分を見つめたまま何も言わない彰子に、はくすりと微笑むを手招きをした。
「そんなところに立っていないで、こちらへ来るといい。部屋の主は不在だが、私が許可しよう」
その言葉に彰子はしばし逡巡したが、頷いておずおずと部屋の中に足を踏み入れた。右手で手招きを繰り返すの傍に寄って、板張りの床の上にちょこんと正座をする。
長い黒髪が扇状に床に広がった。
近くでまじまじとを見て、彰子は内心溜息を吐く。
白い頬、紅をさしたわけでもないだろうに赤い唇。衣越しでも分かるすらりと伸びた手足。つやつやと光り輝く濡場玉の黒髪…。
(すごく綺麗な人…)
同性の自分から見ても、思わず見とれてしまいそうになる。
一体誰なのだろうと考えていると、そんな彰子の視線を感じ取ったかは目を細めた。
「さて藤の姫。何か質問はあるかな?」
彰子は驚き瞠目した。まるで心のうちを読まれたかのようだ。
目を丸くした彰子の表情が可笑しかったのか、はくつくつと喉を鳴らすと左手で持っていた扇を口元に宛がった。
「それほど驚くことでもないだろう? 顔に書いてあるよ。この人は一体誰なんだろう、とね」
「あ……ごめんなさい」
じっと見つめてしまっていたことを思い出し、些か無礼だったろうかと謝る彰子には謝ることではないと言った。
「素直なのは良いことだ。見たことも無い人間が居れば、誰であるのか気にするのは当然のことだろうしね」
言いながらハラリと扇を開く。何も描かれていない、真っ白な蝙蝠扇。
はたはたと揺らめかせると風にあおられた二人の前髪が静かに揺れた。
「まずは名乗りを上げるべきだろうね。私はと言う。以後お見知りおきを、藤の姫」
「さん? 素敵なお名前ね。私は……あっ」
言いかけてはっと口元を閉ざした。
本当なら彰子はここにいてはいけない存在だ。そしてそれを誰かに知られ、悟られることも望ましくない。
あからさまだったが誤魔化せるだろうかと冷や汗を浮かべる彰子に、は優しく微笑みかけた。
「心配はいらないよ、藤の姫。あなたが私を知らずとも、私はあなたを知っている。本来なら辿るべきであった道も、星の巡りも。だがそれを誰かに告げようと思ってなど居ないから安心するといい」
「どうして、知っているの?」
彰子の質問には答えず、笑みを深くしただけだった。
彰子とあまり年の変わらぬ人なのに、ずっと年上のように感じるのは何故だろう。
不思議な人だと思う傍ら、何か、そう何か……普通とは違うものを、目の前の少女からは感じていた。それが何であるのか、彰子には解りそうで解らない。
もどかしいような、すっきりしないような。
解るのは“違う”というそれだけ。
(何かしら…何かが、うーん。上手く言い表せないのだけれど)
「さんは、安部の方? 私このお邸のお世話になるようになって、一月くらいになりますけど、今まで一度も姿を見かけたことがないわ。それにどうして私のことを詳しく知っているの?」
「藤の姫。あなたは優れた鬼見の才を持っている。私にその答えを聞かずとも、あなたは既に答えを得ているはずだよ」
「よくわからないわ。どういうことかしら?」
「簡単なことだよ。藤の姫、私は……」
言いかけたところ、親しんだ気が二つ。近づいてくるのを感じて、は一度言葉を止め門の方角へ視線を向けた。
「ああ、帰ってきたようだね」
パタパタと駆け足で近づいてくる足音と、音もなく近づいてくる小さな気配。
自然と顔が綻む。急に柔らかい雰囲気を纏ったに彰子は首を傾げつつ、同じ方角へ視線を向けた。
その彰子へ、先ほどの続きを静かに告げる。
「藤の姫。私は昌浩の姉だよ。すでに人ではないがね」
「え……」
人で無い。今確かにはそう言った。
目を丸くする彰子に、謎かけのような言葉を残して微笑する。広げていた扇をパチンと閉じる。静かな衣擦れの音を奏でるように立ち上がった。
白い狩衣を翻して濡れ縁から庭先へ出てゆく白葉と入れ替わるように部屋に入ってきた昌浩は、何があったかしらないが相当急いで来たらしい。烏帽子がずれて曲がっている。その足元を白い物の怪が音もなく通り過ぎる。
彰子に向かって軽い挨拶を交わした物の怪は、今しがた消えたの後を追うように庭先に飛び降りていった。
その物の怪の行動と、消え去る直前のの姿でも見たのだろう。昌浩が不思議そうに首を傾げる。
「ただいま彰子。今、姉上居た?」
「おかえり。ええ、いらっしゃったわ。ねえ、昌浩。姉上様がいたなんて、私聞いてないわ」
どことなくふてくされたように言う彰子に、そういえば彰子にその話をしたことは無かったかもしれないとここ一月ほどの記憶を探った。
けれど話をする以前に、とうの昌浩でさえ姉の存在を思い出したのはつい最近のことなのだ。
「あー、うん。そっか、言ってなかったよね。でも俺も知った……っていうか、思い出したのつい最近だし」
ずれ曲がった烏帽子をはずし、髷を解きながら口にする昌浩の表情はどことなく暗かった。立ち上がり、彰子は昌浩から烏帽子を受け取る。
「どういうこと?」
「うん。実はさ、確かに姉上は俺の姉上なんだけど…俺が二つか三つの時に亡くなってるんだ。だから今居た姉上は生きた人間じゃなくて、簡単に言っちゃえば幽霊」
気付かなかった、と首を傾げる昌浩に彰子は肯定の意を示すよう頷いた。
幽霊とはいえ、触れることも出来るしもちろん会話も出来る。ふらふらとさ迷うだけの浮幽霊や怨霊などとは違って取り憑いたり、悪さをするわけでもないので生きた人間と対して変わらないのだ。
だから気付けなかったのかと彰子は納得した。今まで幽霊や妖し……生きた人ではない異形のものにはいち早く気付き、敏感すぎるほどに見えていた彰子が気付けなかったのは、の持つ力の影響もあるのだろう。
そうとは知らない彰子は色々な意味を込めて、ぽつりと呟いた。
「昌浩の姉上様は不思議な人ね」
「あー、確かにそうかも」
彰子の言葉に昌浩は空を見上げて同意する。姉は不思議だ。つかみ所が無い、といえばそう。何を考えているのかよくわからないし、実の姉であったとしてもを完璧に知ろうなんて何十年かかるかわからない。
と恋仲にある紅蓮でさえ、のことを知り尽くしているとは言いがたいだろう。
それぞれに違う思いを馳せながら顔を見合わせ、昌浩と彰子はくすくすと笑いあった。