はらり、はらり……。
視界の端をかすめて行くは、淡く小さな桜の花びら。
『ねぇま?』
幼い弟の幻影が、蘇り散る花弁の如く儚く消え行く。
遠い、遠い。過去の、思い出。
異端の容姿を持つ少女は微かに目を細め、空を仰いだ。
「暇だな……」
呟きは思ったよりも大きく響いて、手持ちぶさたなは小さく欠伸をかみ殺した。
起きていたはずなのに、何時の間にか眠ってしまっていたらしい。既に人の身では無いので、少しばかりの睡眠などあまり意味はないのだが、人であった頃の感覚がまだ残っているのだ。
冥府……川岸にいた頃は、最低一月は睡眠に要した。
伸びをするように僅かに身を反らせて、息を付く。
今日は弟の昌浩は出仕に出ていて、物の怪もそれに付き添っていて留守だ。藤原の左大臣から預かっている、というよりは半永久的滞在を余儀なくされている彰子も、母親の露樹とともに市に出かけてしまっていて、いない。
祖父、晴明は気配が感じられる事から邸にいるのだろうけれど、話をしていると些か疲れる相手であるので、わざわざそこへ赴こうとはせず。
話相手がいない為、すっかり暇を持て余しているは縁台に座り、花びらをちらつかせる桜の樹を眺めていたのだ。
「……暇だ」
同じ言葉を少しだけ形を変えてもう一度呟く。
は立ち上がると長い黒髪と白い狩衣を靡かせて庭へ出た。
「ああ、思った通りだ」
がやってきた場所は、邸の上。つまり屋根上だった。常人ならば上がるのに一苦労なこの場所も、彼女にとっては他愛ない。とんと地面を蹴れば一飛びで、屋根上までやってくることができる。
高いその場所から下を見下ろして満足気に呟くは、ふと自分以外のものの気配を感じて振り向き目を丸くした。
にしてみれば決して親しくはない相手。むしろ、今まで面と向かって話したことなどなきに等しい十二神将が一人、青龍。
どちらかといえば冷たい印象を与える面立ちを持った彼は、の存在に気が付くとすぅと隠形した。けれどは見鬼でもあるので、他人には見えない状態であったも彼女は見る事ができる。
だからは小さく笑みを浮かべると、姿を消して立ち去ろうとした青龍を呼び止めた。
「隠形していても、私には見えるよ。必要ない」
必要が無いというよりは意味が無い。笑みを含んだの言葉に、明らかに気分を害したらしい青龍が眉間にしわを刻む。話をしたことはなくても、姿を見たことがあるは、そういえば青龍はいつもこんな顔をしていたななどと思う。
少しだけ、青龍との距離を縮める為に歩み寄って、よりかなり背の高い彼を見あげた。
薄い青を帯びた瞳がを見下ろし怪訝そうな顔をする。
「貴様は何者だ?」
割と低めの声が誰何し、は首を傾げるような素振りを見せた。
「知らないかな。私は昌浩の姉だよ。とはいっても今はもう人ではないがね」
「……霊魂か」
「近いが違う。私はただの霊魂、幽霊の類ではないよ。とりあえず、害を成す存在ではない、とだけ言っておこう」
曖昧に答えると、青龍は射るような視線をに送った。しかし彼女はひるむでもなく、ただ面白そうに青龍を見あげている。そういう食えないところは、祖父譲りなのだろう。は昌浩よりも強く、晴明の血を継いでいる。
紅蓮と同じか、それ以上に背の高い青龍を見あげているのは少々首が疲れた。
「せっかくだから少し話をしないかい? あなたとこうして合うのは初めてだ」
「……いいだろう」
ほんの気まぐれなのだろうけれど、青龍はの申し出に頷いた。
ありがとう、と礼を述べはその場に腰を下ろす。突っ立ったままでいる青龍を見あげて、座らないのかと訊ねると、俺はいいと返された。
「突然直球な質問で悪いんだが……あなたは紅蓮……騰蛇が嫌いか?」
「無論だ。何故貴様がそのようなことを聞く」
「何故、だと思う?」
前を見据えたまま聞き返したの目に映るのは、眼下に広がる桜の花びら。風に誘われ花弁を落とし、さわさわと梢を鳴らせる儚い花。
青龍はただ射るようにに視線を送るだけで、答ようとはしない。肩越しに青龍を見やって、は苦笑を零した。
「分からない? なら答えよう。私はね、紅蓮が好きだ。ずっと昔からね……。そして自分の好きな相手が、他の誰かに酷く嫌われ憎まれている。それが哀しい。ただそれだけだ。簡単な理由だろう?」
「人如きが……」
「悪いが私は人ではないし、あなたたちを恐れる身でもない。力ばかりは強いのでね」
剣呑に瞳を細めた青龍を笑って流してはゆるりと立ち上がった。
白い狩衣、長い黒髪。高い場所にあって、それは激しく風に揺らされる。
「もう一つの理由は、あなたが唯一の主と仰ぐお爺様もそれを望んではいないからだよ」
自分の命を危うきにさせてしまったばかりに、心優しき神将が憎まれている。本当は誰よりも優しい、彼が。決して悟らせはしないが、晴明はそのことを酷く悔いている。
「過去に捕らわれるのは哀しく愚かな事だ。それを私はあなたに伝えたかった……ずっと」
遠い過去も昨日のことのように思い出せる、長い寿命を持つ神将ならば。確かに、十年、二十年……それ以上の歳月のことであっても、怒り憎しみは 中々癒されるものではないのかもしれない。けれどそれにずっと囚われ続けているのは愚かだと。はそう考える。
そしてそれが癒されたならば、きっと見えるものは違ってくるはずだ。抱く思いも、何もかもが。
「貴様などに言われる事ではない」
「確かに、それはそうだね」
「大体貴様などに何が分かる」
吐き捨てるように言う青龍に、は肩を竦めて見せた。
「分からないさ。あなたの想いなど。所詮他人は自分ではない。他の誰かが抱く思いなど、私は知らない。知り得ない。けれど想像することは出来る」
一つ確実に言える事があるとすれば、全ては終わったことだということ。全ては過ぎ去った時の中で起こった出来事であり、今晴明は生きている。
それでいいじゃないかと。は青龍に告げ視線を移し、桜の樹を見つめて愛しげに目を細めた。
「……なあ青龍。人はもろい。いつか必ず全ての人に、等しく死は訪れるよ」
「っ、なんだと……」
「あなたが恐れるのは……いつか、お爺様が死する時。そうだろう?」
人の命は短く、儚い。ふとした瞬間、命を落としてしまうことだってある。
晴明を唯一の主と仰ぎ、主を殺めかけた紅蓮を憎み、そうして生きている青龍は。果たして晴明が天命を迎えた時どうなるのだろう。
風に運ばれてきた花びらを見つめて、は考える。思った事を口に出して、青龍に聞かせる。顔色は変わらずだが、何か思うところがあるのだろうか。珍しく、青龍は微かだが目を伏せた。
「俺は……」
「まだ先の話だが、ね。でもきっとこれだけは言える」
例えば、そう。遠くない未来、晴明が天命を迎えて旅立つ事になろうとも。生まれ変わったならば、晴明はきっと再び神将たちを見付けてくれる。変わらず昔と同じ、魂を抱いたまま。優しくてを差し伸べてくれる。
だから絶望などする必要はないのだ。新しく魂が生まれ変わるときまで待てばいい。ただそれだけのこと。
「散る花は、いつか……再び見える事を夢見ているよ。儚く散りゆき、朽ちてしまっても。新たなる再生……そして生まれ変わり、美しく咲く。人も同じさ」
訝しげな表情を見せる青龍の傍により、は薄く笑うと手を伸ばした。
風に飛ばされてきたのだろう。彼の纏う薄布に纏わりついた花びらをとり、手の平にのせて見せる。それは再びの風に飛ばされ、遠く去って行った。
何気なくそれを見ていた青龍は、近づいてくる二つの気配にそちらへ目をやる。つられるようにもそちらへ視線を向けて、顔をほころばせた。
「ああ帰ってきたようだね」
高い場所からは遠くの景色も良く見える。内裏から仕事を終え帰宅した昌浩と物の怪が、何やら言い合いながら自邸に向かって歩いてきていた。
「変な話に突き合わせて悪かったね。でも私の言いたい事は言えた。よかったら又話を話をしないかい?」
「……いいだろう」
「……いいのか? てっきり断られると思ったんだが」
予想外の答えには目を丸くしてきょとんとした。
だが嬉しげに笑って、青龍に背を向ける。地面に向かって飛び降りかけて、一度振り向いた。
「いつか……弟に、あなたの名を。教えてやってくれると嬉しいんだけどね」
そのままヒラリを身を躍らせる。すとんと着地したの耳に届いたのは予想外の声だった。
「宵藍だ」
「……え」
「二度は言わない。覚えておけ」
「……そう、か」
得心の行かぬまま、は困ったように頷いた。ふと青龍が姿を消すのを気配で悟る。
自分に、ではなく弟にといったはずだったのだが。言い間違えだろうか。
しばらくその場で考え込んでいたが帰宅した弟に、どうしたのかと問われるのは少しだけ先のこと。