乙女心

 むすっとふくれっ面をしたまま、宥めるように声を掛ける父の言葉すらも耳に留めず、は脇息に持たれてそっぽを向いていた。
 明らかに怒っていますと言わんばかりの表情。部屋の空気が何時もより多少低くなっている気がする、と足を踏み入れた物の怪は二人を交互に見やって思った。一体何があったのだ。
「吉昌…」
 物の怪に声を掛けられ、の父こと吉昌はに向けていた視線を物の怪に向けた。眉尻が下がり心底困惑している、といった風体の吉昌に物の怪もわけが分からず首を傾げる。
 吉昌は部屋に入ってきた物の怪を目に留めた瞬間、救いの手が差し伸べられたとばかりにぱっと顔を明るくした。何か嫌な予感がして、くるりと背を向けた物の怪だが、吉昌ではなくに呼び止められ踏み出そうとしていた一歩を留まった。「紅蓮」
「…何だ?」
 振り向く。何時もより淡々とした呼びかけに、背筋が寒くなるのは何故なんだろう。こちらを見つめる二対の瞳と目が合う。吉昌の助けを求めるようなものと、の底冷えしそうな瞳と。こんなは珍しい。吉昌の様子から、彼が何かをやらかしたことは間違いなさそうだが。
「あー、何があった?」
 首を突っ込むとなんだか面倒なことに巻き込まれそうな気がしたが、もはや逃げ切れるとは思えなかった。

 話を聞いたところ。原因はに結婚の話を吉昌が持ち帰ったこと、らしい。
 の年ともなれば結婚なんて珍しいことではないし、むしろ貴族の姫としては少し遅いぐらいだ。
 だがは嫌がったのだという。望まぬ相手との結婚など、絶対に嫌だと。
 その理由を訊ねたところは口を割らなかった。吉昌がいるから言いたくないのか、否か。それともただ単に言いたくないだけなのか。とりあえず、吉昌には一度部屋を出て行ってもらって、二人きりになった物の怪とは向かい合うようにして座った。というよりは、脇息に凭れてぶすくれているの正面に物の怪が座り込んだ、といった方が正しい。
 むっすりと口を引き結んで一言も喋らずそっぽを向いているに、物の怪は参ったと後ろ足で耳を掻いてから窺うように言った。
「何でそんなに嫌がるんだ? 結婚なんて目出度い話じゃないか」
 物の怪の言葉には弾かれたように物の怪を見た。
 その反応の異様さに、物の怪が驚いて目を丸くする。はそんな物の怪を見て、一瞬泣きそうに顔をゆがませ、しかしすぐに唇を真一文字に引き結ぶと、今度は怒りに顔を真っ赤にさせ立ち上がった。硬く握り締められた二つの拳がふるふると震えている。
「知らない!」
 怒鳴りつけうちぎの裾を翻し、どすどすと足音も荒々しく部屋を立ち去る。それをぽかんとした表情で見送る物の怪のもとに静かに顕現した勾陣が溜息混じりに言った。
「鈍いやつめ」

***

「昌浩!」
 姉の声に振り向いた昌浩は突然背中にどすんと衝撃を受けて、あわや階から庭に落ちそうになったが、咄嗟に欄干に掴んだお陰で事なきを得た。
「ど、どうしたの? 
 三つ年上の姉のことを昌浩は、と呼び捨てにしている。それは自身が望んだことであるし、昌浩も今となってはその呼び方が定着していて、今更姉上などは気恥ずかしくて呼べない。
 背中に張り付いてくぐもった唸り声をあげるに、昌浩は気付かれぬよう溜息をつくと、首に回されたの手をとんとんと軽く叩いた。
 返事の変わりに鼻をすする音がする。お願いだから背中に鼻水を付けてくれるな、と内心思いつつと彼女の名を呼ぶ。
「ましゃひろ」
 鼻が詰まってるせいか。しばらくして子供のように舌足らずに昌浩の名を呼んではようやく昌浩の背中から剥がれた。年上なのにまるで年下のような自分の姉に苦笑が漏れる。
「どうしたの、。ああ、すごい顔してるよ?」
 狩衣の袖で頬をぬらす涙を拭ってやりながらとりあえず落ち着こう? と手を引いて兎のように真っ赤な目をしたを部屋の中まで連れ戻した。



「それで何があったの?」
「ち、父上が、結婚の話…持って、きた」
「へぇ、結婚……て、えっ!? 結婚!?」
「そう」
 鼻をすすりながら頷くは感情の高ぶりの第一波が去ったのか、大分落ち着きを取り戻し始めている。それに大して昌浩は、姉の放った予想外の台詞に目を真ん丸くして驚いていた。
 結婚。…結婚!? 結婚て、そんなが? 一体誰と? だってそんな相手がいるなんて、今までちらりとも臭わせたことがないし、何よりは。
「だ、誰と?」
「知らない。顔も名前も知らない多分男の人」
「いや、多分て、男じゃなかったら困るよ…」
「そ、だよね」
 の性格からして、何の前触れもなかったとしても父から結婚の話を持ち込まれ、それに対して怒りはしても泣きはしないだろう。
 原因は多分他にあるのだ。そう思ってにそれを訊ねると、床に視線を落としたままだったがぎゅっと唇を引き結び、真ん丸い眸にぶわっと涙が溢れはらはらと零れ落ちた。
「も、もっくんが! だって、知らないって! め、目出度くなんて、ない、のにっ」
 なんとなく昌浩は事情を察した。は物の怪を、というよりその本性である紅蓮を好いている。しかし当の本人は気付いているのかいないのか。昌浩の知るところではないが、多分無神経なことを言ったのだろう。
 あーあ、とに気付かれぬよう天井を仰ぐ。眉間によりかけた皺を指先でほぐしながらどうしたもんか、と頭を悩ませた。
「なんで、紅蓮て…こういうことに関して鈍いかのな」
「全くだな」
「あ、勾陣」
 音もなく顕現した十二神将勾陣は、ここにはいない物の怪に対し心底呆れたといった表情を見せて、柱の横に腰を落とした。
「まあ人であろうと無かろうと、男という生物は皆鈍いものだがな。、言いたいことがあるなら一度言ってやったほうが言い。あいつには言わなきゃ伝わらん」
「確かになぁ」
 しみじみ頷いた昌浩であるが、例に漏れず昌浩も男であり多少鈍いところがあることに本人は果たして気付いているのだろうか。
 勾陣と昌浩の言葉を聞きながら、はそうだね、と小声で呟いた。
「だめだな、私も。一時の感情で勝手に怒って…いわなきゃ何も伝わらないもん。……でも今は、紅蓮に会いたくない」
「そっか。わかった。俺ちょっともっくんのとこ行って来るから。はもう少しここにいなよ」
 すん、と鼻をすすって頷いたの頭をぽんぽんと撫で昌浩は物の怪の元に向かった。

***

 が出て行った後、の部屋から続く濡縁の隅っこに座って物の怪は一人悶々と考えていた。
 物の怪からしてみれば。が嫁ぐのはめでたいことだと思う。一生誰にも娶られず、一人孤独に生きるよりは伴侶を見つけて子を儲け中睦まじく暮らすことが人としての幸せだと思うのだ。
 赤ん坊の時から見てきたが嫁に行ってしまうことを寂しく思わないわけではないが、自分が口を挟んで良いことではないと物の怪は思うわけである。が、実のところは、内心かなり複雑極まりないことになっているのだが。何がどう複雑かといえば、これもまた一言では説明が難しい。娘を持っていかれる父親の心境? …何かが違う気がする。
「だがなぁ、俺にはどうしようもないしなぁ」
 独り言のように呟いていた物の怪の襟首をむんずと掴みあげる手があった。
「な、なんだぁ?」
「もっくん、ちょっといいかな?」
 目を白黒させた物の怪が振り返った先には満面笑顔の昌浩だ。満面、笑顔のはずだ。なのに不思議と恐怖が押し寄せてくるのは何故なんだろう。
 そのまま物の怪は部屋の中へと連れ込まれ、円座の上に座り込んだ昌浩の向かいに下ろされた。
「あのさ、もっくん。に謝った方が良いと思うよ」
「はぁ?」
「怒ってたっていうか、すごい泣いてたよ」
「泣いてたって、何でだ?」
 言っておきながら、そういえば立ち去る間際にぼろぼろと涙をこぼしていたことを物の怪は思い出し、昌浩は昌浩でもっくんが泣かせたんだろう、と思わず心の中で叫んでいた。
「もっくん、の婚約の話聞いたとき、になんて言った?」
「あ? あぁ、があんまり嫌がってるからな、なんでそんなに嫌がるんだ。結婚なんて目出度いじゃないか、と言った…と思う」
 昌浩はきょとんと目を丸くして、ふかーく息を吐き出した。
「……なんていうかさぁ、もっくんが泣いた理由、本当に分からないの?」
「さっぱり分からん。結婚なんて人間には目出度い話だろう」
「もっくんバカだよね」
「ばっ!? ば、馬鹿とはなんだ馬鹿とは!」
「だって馬鹿だし」
「昌浩、お前最近可愛くないぞ」
 物の怪がいじけている。しかし昌浩は構うことなくもう一度あからさまに溜息をつき、呆れた視線を物の怪に送った。
が泣いたのはさ、もっくんに結婚を嫌がる理由を聞かれたうえに、目出度いって言われたことだろ。それが意味するところは?」
「…愚痴を聞いて欲しかった?」
「もっくんやっぱり馬鹿だよ!」
「馬鹿じゃねぇ!」
 昌浩の様子をこっそり覗きに着ていた勾陣は後々、この時の二人を掛け合い漫才のようだったと語る。
「あ〜〜もう埒があかないっ。は、もっくんの事が好きなんだよ!? 好きな相手にそんなこと言われたら誰だって傷つくよ」
 鳩が豆鉄砲を食らった。
 まさにそんな表現がぴったりの顔をして、目を丸くした物の怪は口を半開きにして固まり、しばしの沈黙の後青くなった。やっと事態を把握したらしい。
「そうだったのかっ?」
「多分ね。ていうかほかに理由が思いつかないし」
「そうだったのか…」
 同じ言葉を微妙に色を変えてもう一度。難しい顔をして黙り込んだ物の怪はややあって、すくっと立ち上がった。
「行ってらっしゃい。頑張ってね」
「…おう」
 今は会いたくないとが言っていたことは伏せておく。
 さてどうなるかな、と頭の端で考える昌浩からの心の篭らない声援を受けて、物の怪はふらふらと観音開きの扉から出て行った。
「大丈夫かなぁ」
 その後姿を眺めてぽつりと漏らす昌浩の隣に音もなく腕組みをした勾陣が顕現する。ほんの微かに首を傾けた彼女だが、大丈夫だろうと余り根拠もなく返し、顔を見合わせた二人は揃って溜息をついた。


 その日の夕刻、安倍の邸ではに向かって謝りたおす物の怪の姿が見られたとか。


 おしまい。