君飾る花

 心地よい風が吹いている。
 晴れ渡った外の空気が部屋の中まで入り込んでいて清々しい。
 部屋の主が不在であるのをいいことに、昌浩の部屋の中でゆったりとは寛いでいた。夏の装いである単衣重を纏い脇息にもたれかかって、両足を無造作に投げ出したまま彼女が眺めているのは、初夏を彩る新緑の庭。
 時折雀が舞い降りて、愛らしい声で囀るのを顔をほころばせて楽しげに見やっていたの元へ、先日より安倍の屋敷で預かることとなった藤原の姫が姿を見せた。
 袿に隠れた細い両腕に抱えられているのは小さな高槻で、その上には椿餅が控えめに載せられていた。
「露樹さまに教えていただいて作ってみたの。一緒に食べない?」
「ありがとう」
 嬉しげに微笑んでは頷き、客人にもてなされるわけにもいくまいと考えて袿の裾を引いて立ち上がると彰子から高槻を受け取り、手近なところへ置いた。
 高槻を挟むように二人向かい合わせに腰を降ろす。ほんの僅か質の違う二種類の黒髪がそれぞれのまとう衣とともにふわりと床に広がる。
 椿餅を見つめて、はふわりと微笑んだ。
「おいしそう」
「初めてにしては上手に出来たと思うの。…どうかしら」
 餅を口に含むに、彰子は恐る恐るといった様子で訊ねる。しばらく租借していただったが、ごくんと飲み込むと途端に満面の笑みを見せた。
「うん。おいしい!」
 の素直な感想に、彰子はほっと胸を安堵の表情を見せた。
 と彰子は仲がいい。
 始めこそ左大臣の娘である彰子にどう接したらいいか分からなかっただが、年の近いこともあってすぐに打ち解けることができた。それは弟の昌浩の影響もあるのかもしれない。
 もう一口餅を食べて、もごもごと口を動かしていただったが、はたと気付いたように首を傾げた。下がり端の髪がさらりと揺れる。
「でもどうして椿餅なの?」
「あ…ええとね、ほら昌浩っていつも妖退治とか頑張っているでしょう。だから、ね。なんていうのかしら。その…椿餅って邪気払いの意味もあるから…」
 ほんの僅か。俯いて頬を染めて繕うように言う彰子にはそっか、と頷いた。
 彰子が昌浩に思いを寄せていることは知っている。その逆に昌浩が彰子を好いていることも、なんとなくに気付いていた。むしろ気づかない方が可笑しい、のだと思う。彰子のため、となると昌浩は一生懸命だし彰子もそうだ。微笑ましいな、などと自分より年下の彼女を見てくすくすと笑みをこぼす。
「そっかそっか。昌浩のためね。あ、じゃあ私が食べちゃったらまずいんじゃない?」
「ううん。これはさんにって作ったから。昌浩のはちゃんと別に用意してあるわ」
 だから遠慮せずに食べて、と進められた高槻の餅をはそれならと遠慮なく頂くことにした。

 その細い体のどこに入るのか。椿餅を三個ほどぺろりと平らげて満面の笑みをこぼしていると、弟の帰宅を告げる騒々しい足音が邸の中に響いた。
「あ、帰ってきたのかな」
 高槻の上にすでに餅はない。昌浩にはあとで彰子が知らせるだろうから、と高槻を見つからない場所まで移動させて、弟の登場を待った。
「ただいま。彰子いる?」
 息せき切らせてあわただしく帰ってきた弟の昌浩は、どれだけ急いで帰ってきたのか。烏帽子が僅かにずれまがり、今にも頭から落ちそうなきわどい角度になっている。
 その様に一瞬呆れて、額を押さえて溜息をつくとはそっと烏帽子を直してやった。
「身だしなみはしっかりしないと駄目だよ、昌浩。彰子ならほら、そこに」
「ありがとう。あ、彰子。あのさ」
 烏帽子を直してくれた姉に礼をいい、示された方を見ると確かに座ったまま昌浩を見上げる彰子が居た。
 慌てて居住まいを直してこれ、と昌浩が差し出した右手に握られていたのは白い花弁の愛らしい小さな花。
 なるほど、とは一人頷く。これが枯れてしまわないうちに、と急いで帰ってきたのか。
 立ち上がった彰子は大きな瞳を更に大きく丸めて昌浩を見た。
「これを、私に?」
「うん。綺麗だろ」
「ええ、とても。綺麗だし小さくて可愛らしいわね…ありがとう、昌浩」
 昌浩からの贈り物がよほど嬉しかったのか。それこそ花のように顔をほころばせる彰子に、喜んでもらえて昌浩も嬉しいのだろう。にこにこと笑みを見せている。
 仲睦まじい二人をほのぼのとした気分で見守り、邪魔をしてはいけないとは足音を立てずに昌浩の部屋をあとにして、なんとなく訪れたのは自分の部屋だった。
 開け放たれた蔀戸。そこから臨むのは昌浩の部屋から見るのとはまた違った、初夏を彩る庭の景色。
 もう少し庭を眺めていたいと顔を隠す扇も持たずに、重たい衣の裾を引きずって濡縁まで出ると辺りに人が居ないのをいいことに階に足を投げ出す格好で座り込んだ。
 そのまま欄干に持たれて風景を楽しんでいると、ふいにぽとり、と一輪の花が膝の上に落ちてきた。
 昌浩の持って帰ってきた花とは違う、薄い紅色の花弁が美しい花。
「え…」
「やる」
 続いて短い一言が耳元で聞こえ肩には軽い重みを、首にはふわりとした温もりを感じた。
「あ、もっくん。おかえり」
「お前な、仮にも姫なんだから扇も持たずさらには袖で顔も隠さず、こんなところに座り込んでるのはどうかと思うぞ?」
「う…ごめんなさい」
 軽くたしなめられ、しょんぼりして謝るに仕様が無いといった風に物の怪は溜息をついた。
「まあ今に始まったことじゃないけどな」
「酷いなぁ。でもさすがもっくん、よく分かってるね」
 耳元で呆れたように言われ、はくすくすと笑みをこぼす。
 膝の上の花をつぶさないようそっと掴み上げて、これは? と物の怪に訊ねた。
「ああ、今日な、船岡山の方まで行ってきたんだ。そこに咲いてた。名前までは知らないが綺麗だろう?」
「うん。すごく綺麗。お土産に持って帰ってきてくれたの?」
「まあ、そうだな。土産、というか、だな…」
 もごもごと言い辛いそうにする物の怪にが首を傾げる。肩の重みが瞬間消えて、膝の上に温もりを感じると真白い毛並みが移動していて、が見下ろす先で物の怪は花を折らないよう口に挟むと二本足で立った。
 夕焼け色の瞳が間近になって、耳元に温もりを感じる。
 物の怪が離れるのと同時にそこに手を持っていけば、先ほどの花がちょうど耳の上に差し込まれる形で飾られていた。
「ああ、似合うな。お前の黒髪も見事だから、映えると思ったんだ」
 どことなく得意げに言う物の怪。
 の顔がぼふんと火を吹いたように紅くなり、それは満面の笑みへと変わった。
 嬉しい。
「…っ、ありがとう」
 ぎゅっと抱きしめられわたわたと慌てる物の怪と、構うことなく抱きしめるの耳元で赤い花弁が初夏の風に撫でられて優しく揺れていた。




**おまけ**


「あ、でもこのままじゃすぐ枯れちゃうね」
 水鏡で自分の顔と、髪に挟まれた花を見つめながら残念そうにが言う。
 折角貰ったのにすぐに枯らしてしまっては勿体無いような気がする。
「そうだな。晴明に言えば少しくらい長持ちする術でもかけてもらえるんじゃないか?」
 物の怪の一言にの顔がぱっと明るくなる。
「ホント? じゃあちょっとじい様に頼んでくる!」
 すくっと立ち上がると衣の裾を翻し猛然と邸の中へ駆け出していったの後ろを姿を見つめて、「全く落ち着きが無いと」物の怪は一つ溜息をこぼした。