川岸でうたた寝をしていた少女はゆっくりと身を起した。
ゆらゆらと揺れる水面に視線をおとして、目を凝らす。
映し出された景色を見て、ああ、と声を漏らした。
あれから十年も過ぎていたのか、と。
人の身で、十年とは長いものであるのに、人でなくなったこの身では十年など本当にあっという間だった。
二色の双眸をゆったりと細めて微笑う。
さて・・・・・・。
久々に、会いに行くか。
愛しい、彼らの元に。
* * *
「最近さぁ、妙な視線を感じるんだよねぇ。睨まれているというかただ見てるだけって感じなんだけど」
出仕の為大内裏に向かう途中、ふいに昌浩がそう漏らした。
日が昇りきっていないこの刻限、辺りはまだ薄暗く肌寒い。
白い尾をひゅんひゅん揺らしながら隣を歩いていた小さな物の怪は昌浩を見あげて怪訝そうな顔をした。
「あぁ? 見られてる? でも妙な気配とかはないぜ?」
「んー、そうなんだけどさぁ。なんかこう・・・・・・ひしひしと・・・・・・んー」
首を傾げて唸る昌浩の肩に飛び乗って、物の怪は小さな手を昌浩の頭にぺしぺしと当てた。
「あまり悩むとはげるぞ、孫」
ブチッという音とともに物の怪を自分の頭からひっぺがした昌浩は、手に持った物の怪を自分の顔の前にぶら下げて大きく息を吸い込んだ。
「・・・・・・孫言うな――――――ッ!!!」
明け方の朱雀大路に、本日第一回目の昌浩の叫びが響いた。
その二人の様子を見下ろす人物が居る。
白い狩衣を纏い髪を高く結い上げた、形は少年のようだが少女だ。
どこぞの貴族か知らぬ館の屋根の上に座り、足を組んでさも面白そうに昌浩と物の怪のやり取りを眺めていた。
さて時間は少し流れ、出仕を終えた昌浩は特に申し付けられた用事も無かったので大内裏を出ると真っ直ぐに帰宅した。
少し遅めの朝食をとり、少しばかりの仮眠をする。
日が暮れて、都が夜の帳に覆われた頃。むくりと起きた昌浩は、母の露樹が用意してくれた暖かい夕餉を済ませて行動を開始した。
唐櫃から衣装を引っ張りだしてきて手早くそれを身に纏う。
墨染の狩衣に狩り袴。黒い手っ甲をはめて、懐には数枚の呪札と数珠を忍ばせて。
「さあ、行こうかもっくん」
一通りの準備を済ませると、傍らにお座り体勢を取っていた物の怪に声をかけた。
家人に見つからぬよう家の塀をよじ登って路に出る。
とはいえ祖父にはとっくに気付かれているだろうが、露樹などは昌浩が夜の見回りに出て魑魅魍魎の類と闘っている事を知らないので気付かれたくなかった。
夜の路は暗く、灯かりが無ければ足元を見る事すらかなわぬほどであったが、暗視の術を施してあったので歩くのにさほど苦労はしなかった。
そうしてしばらく路を数えながら歩いて行く。碁盤の目のように区切られた都は一見複雑そうであるが路の名前させ暗記してしまえば迷うことはない。
やがて三条大路に差し掛かった頃、何かがうごめく気配を感じた。
ザワリと背筋に冷たいものが這い上がってくる感触に、二人が瞬時に背後を振り向く。
その刹那。
闇の中から鋭い蔦のようなものが昌浩と物の怪めがけて飛んできた。
「昌浩!」
物の怪の声に、昌浩が慌てて背後に飛びのく。
今まで昌浩が立っていた場所に蔦が突き刺さり、その衝撃で地面が僅かに抉れた。
飛びのいていなかったら今ごろ冥府の役人とお知り合いになっていただろうと考えて、昌浩は思わず引き攣った笑みを浮かべた。
その昌浩に物の怪がしっかりしろ、と声をかける。
気を引き締めて、サッと周囲に視線を走らせると三条大路と油小路の交差点に暗闇の中、ひときわ濃い闇の塊があった。
陽炎ようにゆらゆらとゆれて、一対の赤い瞳を光らせて昌浩と物の怪を見据えている。
昌浩は懐に手を忍ばせて臨戦態勢をとり、傍らの物の怪に訊ねた。
「ねえ、もっくん。あれは何だろうね」
「さあな」
何時もと変わらぬ口調で返す物の怪だったが、白い毛並みを逆立てている事から、目の前の怪しに警戒していることは明らかだった。
やがて陽炎のような妖しはずるずると不気味は音を立てながら二人に近づいてきた。
昌浩は懐から符を取り出し、手早く真言を唱えると妖しめがけて放った。
音を立てて燃え上がる妖し。鋭い咆哮を上げ、大きくあぎとを開いた。
血色の瞳を光らせて最期の足掻きとばかりに、鋭い蔦を昌浩めがけて伸ばしてくる。
「っ!」
それが昌浩に触れる、直前。光の矢が影を貫いた。
あっけなく霧散する妖しに、呆然とする二人の元へ声が振ってくる。
「やはりおじい様が後継と定めただけに力は強いようだな」
突然、頭上から聞こえた声に驚いた昌浩はバッと夜空を仰ぎ見た。
同じように空を仰いだ物の怪は、驚きの余り声を失う。
数多の星が輝く夜空を背負うように、長い黒髪を結い上げ、白い狩衣を纏った少女がそこに・・・・・・居た。
足を組み、頬杖を突くような体勢で空中に浮き二人を見下ろしている。
少女らしい面立ちには僅かな笑みを浮かべて。
それを見た物の怪は先程までの緊張感は何処へ、まるで酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせていた。
「久しいね、紅蓮。いや・・・・・・その姿のときは『もっくん』と呼んだ方がいいのかな?」
くすくすとさも可笑しそうに笑う声音は鈴を転がすように涼やか。
「お、お前・・・・・・」
物の怪は器用にも二本足で立ち、小さな前足を突き出して少女を指差しわなわなと震えていた。
その表情は「なんでお前がここにいる!?」とでも言いたそうだ。
物の怪の様子に昌浩が首を捻りながら訊ねる。
「もっくん知り合い?」
「・・・・・・ほう・・・・・・私の事を忘れているとはね」
少女の目が剣呑に細められた。
独り言のように呟いて、漆黒の髪を翻らせながら音も無く二人の元へ降り立つ。
昌浩と目線を合わせるようにして少女は薄く微笑み、そのまま容赦無く昌浩の頭を引っぱたいた。
「痛っ! 何するんだよ!」
「良い度胸だな、昌浩」
名を呼ばれ、昌浩は驚きと不満混じりに少女を見た。
少女はといえば目を眇めて昌浩を睨んでいる。その視線は冷たく険しい。
どうやら本気で憤慨しているようだったが、その理由が昌浩にはわからなかった。
なんで? と胸中首を傾げる。
「全く。あわや、というところで助けてやったというのに、私の事は記憶の中から綺麗サッパリ消えているときた。あれほど可愛がってやったというのに、昌浩。私は悲しいぞ」
つらつらと、たいして表情も変えずに述べるその口調。覚えがある、というよりは誰かに似ている気がする。いや、似ている。
「死んでも死にきれんとは、おじい様もよく言ったものだよ」
はぁ、とあからさまに溜息を吐いてみせ、少女は昌浩を見た。
射るように強い眼光に気圧されて、立ちすくむ昌浩だったがこの時初めて少女の瞳が双色であることに気付いた。
紅と黒。異彩を放つ、この瞳を・・・・・・自分は知っている・・・・・・?
二人のやり取りを、物の怪は渋いなんとも言い難い表情で見ていた。
その視線に気付いた少女は、物の怪を見るとにっと口元を歪めた。
視線を昌浩に戻して、首を傾げて見せる。
「思いだせないかい?」
「え、と。誰・・・・・・?」
少女は笑顔のまま、昌浩の後頭部を殴りつけた。
「私はお前の姉だ馬鹿者!!」
「・・・・・・姉ぇ――――――ッ!!?」
本日二度目の叫びが、夜の三条大路に木霊した。
「えっと。姉って・・・・・・あれ、だってもう何年も前に亡くなってるって・・・・・・」
とりあえず、なんとか自分を落ち着けて現状を把握した昌浩が首を傾げて少女に訊ねる。
「ああ、死んでいるさ。十年以上も前にね。肉体はとうの昔に朽ちた。本来ならば・・・・・・ここにいるべきはずの身ではないのだがね」
「じゃあどうして」
「まぁ。いろいろとあるのだよ・・・・・・。死んでから私は川を渡らずばあ様と川岸に留まり続けていた。どうしても未練があってね。ここ十数年川面を眺めていたわけさ」
少女は昌浩に説明しながらちらりと物の怪をみやる。だがすぐに又、視線を昌浩に戻す。
「私の力は少し特殊でね。大変だったよ。官吏にこき使われて。私は川岸にいる、と言い張ったんだが・・・・・・冥府の手伝いをさせられていて。ようやく仕事が片付いたから一眠りして、下へ降りる許可をもらったのさ」
そんな極ありきたりな日常の一部みたいに離す少女に驚いて口をあんぐり開く昌浩に、まあそんなところだと言って少女は笑った。
「・・・・・・どうした紅蓮。さきほどから固まって。剥製にでもなるつもりか?」
「、お前・・・・・・」
何か言いかけて口をつぐむ。
昌浩が言う「痛そうな表情」でしばらく黙り込んでくるりと背を向けた。長い尾がひゅんと揺れる。
「・・・・・・帰るぞ昌浩」
そういって歩き出した物の怪の後ろ姿を、はどこか切なそうに見送っていた。
夜が更けて、空が白みはじめた頃。
物の怪は邸の屋根に上がった。
眺めの良いそこにはすでに先客がた。
「・・・・・・」
と呼ばれた先程の少女は首を巡らせて物の怪を見る。
「ああ、紅蓮か」
物の怪の姿を捉えると、ふっと微笑んだ。
ぽてぽてと自分の傍らに歩いてくる物の怪を横目で見やる。
「昌浩は寝たのか?」
「ああ。今日は物忌みだしな。久しぶりにゆっくり休めと言ってきた」
「相変わらず過保護なことだ」
くつくつと喉を鳴らして笑うに物の怪は些かばつの悪そうな顔をした。
後ろ足で耳の辺りをわしゃわしゃ掻いて、後ろに垂れた長い耳をそよがせる。夕焼け色の瞳を僅かにすがめてを睨むように見た。
「・・・・・・どうでもいいことなんだが、よ。お前、随分性格とか口調とか変わったな」
「そうか? ・・・・・・ああ、そうかもしれんな。まあ十年以上も経っているのだ。少しくらい変わるだろう? それにしても・・・・・・」
そのまま物の怪に手を伸ばして首根っこを掴みあげ膝の上に乗っけた。
中身を知っていてそんな扱いが出来るのは昌浩の他にはしかいないに違いない。父親の吉昌が見たらどんな反応をするだろう、なんて考える人間は残念ながらこの場にはいなかった。
驚く物の怪を一瞥して一言。
「お前に言われたくないぞ。なんだこの白い姿は」
小さな頭をなでて面白そうには言った。
は物の怪の本当の姿を知っている。彼が人々になんとよばれ、畏怖される存在であるのかを。そうしてまた彼が、今のような小さき物の怪の姿をしている理由も知っていた。
身に宿る力ゆえ。見え過ぎるその力ゆえに鬼見の才を失い、異形のモノが見えなくなった昌浩にも見えるようにとその姿をしていることを。
幼い昌浩をおびえさせない為であることも、は知っていた。
押し黙った物の怪を見て、は昨日の事のように思い出せる過去に思いをはせた。
「紅蓮」
「なんだ?」
「昔・・・・・・私が言った事を、覚えている・・・・・・?」
「・・・・・・ああ」
の言わんとしているところを正確に汲み取って、物の怪は低く頷いた。
二人の胸に蘇るのは十年以上前の雪の日の出来事。
告げられた想いを、告げられなかったあの時の気持ちを忘れるはずがなかった。
「あの時の言葉、気持ちに偽りなど無いしそれは今も変わらない。死してなお、貴方への想いは募るばかりだった。不思議なものだよ。だからこそ私は川を渡れなかったわけだが」
全てを振り切って、うち捨てて。
未練など何一つ無く旅立ったならば、きっと今ごろ転生を待つばかりであったろうに。
だがそうならなかったのは、紅蓮への想い故にだった。
「全く情けない話だよ。自分の死を受け入れる事はできても、貴方への思いは吹っ切れなかったなんて」
肩を竦めて語るに物の怪は目を伏せて、一つの決意をした。
の膝の上から彼女を見あげる。
「。俺は・・・・・・お前に言わなきゃならんことが、ある」
「改まって・・・・・・なんだ?」
「十年前、お前の気持ちを告げられたとき」
「ああ、人間に懸想することはできない、とほとほと困り切った顔で言っていたな。あれはおかしかったぞ」
苦笑混じりに、でもほんの少し昔を懐かしむような口調で言うに物の怪は苦い顔をした。
「それなんだが・・・・・・」
そのまますっと小さな前足を伸ばしての頬に触れる。
珍しくきょとんとするに物の怪は告げた。
「本当はな・・・・・・お前と同じ気持ちだったんだ。だからこそ、言えなかった」
「・・・・・・っ!?」
「すまんな」
物の怪の告白に、は口元に手を当てて目を丸くする。
喜びよりも衝撃の方が勝っていた。
しばらくそうして物の怪を見つめていて、自分を落ち着けるように二度瞬きをする。
「あ・・・・・・あぁ、いやいい。仕方ない事だ。それは・・・・・・確かにな。言えるはずが無いだろう。あの時にそれを告げられていたらそれこそ怨霊の類にでもなっていたかもしれんしな」
まあ今の状況も似たようなものか、とはひらひらと手を振る。
「ただな、紅蓮。一つ言わせてもらうならば」
いいながらは物の怪の小さな手を握って悪戯っぽく微笑んだ。
「その姿で言われてもあんまり説得力がないぞ?」
一瞬、ぽかんと口を開いて固まった物の怪には押し殺した笑いをもらす。
やがて憮然としながら物の怪がふいっとそっぽを向きの膝の上から退いた。
少し離れた場所で立ち上る緋色の閃光。
現れた人影を見て、は嬉しそうに瞳を細めた。
そっと手を差し伸べて互いにぎこちなく、だがしっかりと抱きしめあう。
すっぽりと紅蓮の腕の中に収まったは小さく呟いた。
「嬉しいよ、紅蓮」
何故自分が、と思わない事など無かった。
当たり前だ。生まれたときから内に秘めていた力の生で寿命が短く、それ故に邸から出る事も適わなかった。
そんな中、偶然見掛けた祖父の式神。
十二の神将の内の一人、「驚恐」を司る騰蛇の悲しげな瞳に惹かれた。
力故に孤立しているその彼に、自分と重ねるように。
気付けば回りだした歯車が止まる事のないように想いは加速していったのだ。
死の間際に告げた自らの想いを、ただ告げるだけでいいと思っていたその想いを。
彼もまた自分に抱いてくれていたという事実に。
涙が出るほど嬉しかった。
「さて。そろそろ昌浩が起きる頃だろう? 傍に居てやらないとお前の姿を真っ先に探すだろうから」
何時の間にかすっかり白い物の怪姿に戻った紅蓮は、照れたように顔を紅くしてに背を向けていた。
そのことに込み上げる笑いをこらえながらは空を見て彼に告げる。
同じように空を眺めていた物の怪がそうだな、と頷いた。
立ち上がって飛び降りようとしたその間際に首根っこを捕まれて宙ぶらりんな格好になる。
何事かと目を見張る物の怪をが優しく抱きかかえた。
「、お前な・・・・・・」
「今更照れるな」
明らかに面白がっている風体のだったが、物の怪はまあいいかと一つ溜息を吐くと大人しくの腕に収まっていた。
白みはじめていた空は何時の間にか。
すっかり顔を現した天照大神が、明るく優しい日差しを京に注いでいた。