蝉の声がけたたましく響く、葉月の初め。風に揺さぶられる梢の音は聞いていて心地よい涼やかさだが、それだけで涼しくなれば苦労はするまい。
暑い暑いときつく眉間に皺を寄せ、襟の袷を際どい位置まで開いて扇をぱたぱた動かしながらは己に向かって風を送り込む。本来の用途とは別の使用方法で大いに活用されている装飾も美しい衵扇は、の手の動きにあわせてゆらりゆらりと飾りを揺らす。時折御簾を揺らして部屋の中まで風は入り込んでくるものの、どこか生ぬるく肌にべっとりと纏わりつくようであまり心地が良いとは言えない。背中にかかる長い髪も熱気を込めてしまって暑いし、いっそ切ってすっきりしてしまいたいなんて姫らしからぬことを思うである。切れないならせめてどうにかして纏められないものだろうか。床に着くほどの長い髪は重さもかなりのもので一人で束ねようと思うものなら一苦労なのである。
「なんでこうも毎日毎日暑いのかなぁ」
部屋の奥深く、天照の御威光も届かぬ日陰で思いきりだれながらは呟いた。生絹織りを着ているとはいえ暑いものは暑い。
どことなく不貞腐れた様子のだが、原因は暑さのみではない。
現在弟の昌浩は陰陽量に出仕しているため邸にはおらず、半永久的に居候を余儀なくされている彰子は朝から露樹と共に市に出かけてしまっていて不在であり、つまるところは拗ねているのである。昌浩の出仕は仕方の無いことだが、市に行くなら自分も誘って欲しかったと天一に話を聞いてぼやいたのは半刻ほど前の事で、彰子と露樹が共に出かけた時分はうとうとと居眠りをしていたのだ。彰子もを誘おうと部屋を覗いてみたものの、眠っている彼女を起こすことを忍びなく思い声を掛けずに出かけたのだ。自身、彰子の心遣いは分かってはいるものの、たたき起こしてでも誘って欲しかったというのが実に勝手な言い分であり本心なのである。
「暑いー」
暇だし暑いし、とはぶつぶつ文句をたれながら額に浮かぶ汗を拭った。暑さのせいか、なんだかすこし苛ついてきた気もする。ばたばたと風を送る勢いは凄まじいもので、扇の飾りが引きちぎれんばかりに揺れ動いている様を部屋の隅に控えた神将たちが苦笑しながら見守っていた。それを横目でちらりと見て、はきゅっと眉間に皺を寄せる。寛ぐ彼らの誰一人として全く暑がっている様子がないのが腹立たしい限りである。
そのうち何を思ったか、ぱたんと扇を閉じたは徐に立ち上がり、纏っていた衣の上着を脱ぎ始めた。ぎょっとしたのは神将たちだ。しゅるりと衣擦れの音を立てて床に落ちた袿を呆然と眺め、それから慌てて天一は朱雀を、太陰は玄武を外へと追い出した。
そんな彼らに全くかまいもせずに、単姿になったは満足とばかりに爽やかな顔をして見せたが、次の瞬間太陰に怒鳴られ、天一には静かにたしなめられた。更には何事かと様子を見に来た勾陣には呆れたように溜息を吐かれた。
「ちょっと何考えてんのよ、!」
「だって暑いんだもの」
「様」
「ごめんなさい」
しょんぼりと肩を落とし、そろそろと脱ぎ捨てた衣を再び纏うに天一が手を貸してくれる。きちんと着込むと再び暑さが押し寄せてきて、扇をぱらりと開いた。呼び戻された玄武と朱雀が部屋の中に入ってくる。
「全くお転婆だな、」
苦笑交じりの勾陣にはつんと唇を尖らせて、だってと呟く。続く言葉は先ほどと同じもので、彼らはそれぞれに苦笑を浮かべた。神将たちは人と同じように寒暖を感じることがないので、がどれほど暑がっているのか想像することしか出来ないのである。
「どうにかして涼しくならないのかなぁ」
「玄武に水でもかけてもらう?」
「太陰、いくらなんでもそれはまずいだろう」
「駄目? でも涼しくはなると思うけど」
「涼しくはなるだろうが、万が一が風邪でも引いたらどうする」
「うーん。そうねぇ」
本気か冗談か。おそらくは本気だろう太陰の提案に玄武が異を唱えると、太陰は首を傾けながらもそれ以上言うことはなかった。
「でしたら、川涼みに行かれては如何でしょう」
「川涼み?」
扇を動かす手を止めてが天一を見ると、彼女はにこりと笑った。
「はい。あまり長い間はいられないかと思いますが、少しでしたら。気晴らしにもなるのではないかと」
「いいわね、それ! とっても涼しそうじゃない」
元気よく太陰が頷くのを見て、玄武はなんだか嫌な予感を覚えた。それは悲しいかな、すぐに的中することになる。
「玄武、を川に連れて行ってあげて」
「は? 何故我が…」
「あら、だって川といったら玄武でしょ?」
どういう理屈だ。当たり前だと言わんばかりの太陰の言葉に、当人を除く者たちは皆そろって首をかしげた。川には水があり、水といえば水将。さらに玄武は水将であるから、川といえば玄武とこういう理屈なのだろうか。意味が分からない。いや意味は分かるが納得はしたくないというか。
「玄武一緒に行ってくれるの?」
幼い顔いっぱいの渋面を浮かべていた玄武だったが、の期待いっぱいに輝いた目を見てしまったが最後、否と言えるはずも無く。太陰に対する不満や文句は喉の奥に押し止め、仕方がないと頷いた。
***
水面が光を弾いて輝いている。
邸から一番近い川岸まで白虎の風で送り届けてもらったは目の前に流れる川を見て、ぱっと顔を輝かせた。
「わー、川だぁ」
邸にいることの多いには間近に流れる自然の川は珍しく、滅多に見ることは出来ないものだ。子供のようにはしゃぎながら川岸によるの後を玄武はゆっくりとついて歩きながら辺りを見渡した。大丈夫だろうとは思うが、一応危険が潜んでいないか確認のためだ。
そんな玄武を余所に、草履を脱ぎ捨てたは袴のすそ絞りたくし上げると水の中に足を進めた。ちなみに川涼みに来る際、は昌浩の狩衣を拝借してきた。流石に袿姿でくるわけにはいかないし、狩衣の方が何かと誤魔化せて都合が良いだろうという勾陣の計らいだ。艶やかな長い髪は水に浸からないようにと天一が丁寧に高く結い上げてくれた。
「おい、!」
「うわぁ、冷たい。玄武もおいでよ、気持ちいいよ」
手招きするに玄武は溜息を一つつき、水の中に足を入れた。川岸で見ているよりは傍に居た方が何かあった時に咄嗟に対応ができる。水の流れはさほど速くない。ざぶざぶと水を蹴りながらの傍まで近づくと、水の中に両手を入れたは玄武を見てにっと笑いそのまま水を掬い上げて玄武に向かってかけた。突然の襲撃に顔を庇う余裕も無く。キラキラと水しぶきが天高く舞い玄武に降り注ぐ。
「うわっ」
頭から水を被りその漆黒の髪からぽたりぽたりと水が滴り落ちるさまを見て、はきゃらきゃらと楽しそうに笑った。
「何をする、」
「あ、怒った? ごめんね。でも気持ちいいでしょ?」
ぱしゃぱしゃと両手を入れて水を撥ねかせるは楽しそうで、先ほどまでの不機嫌さが嘘のようである。どうやら気晴らしにはなったようだ。
せっかく上機嫌になったところを諌めるのも気が引けて、玄武は溜息を一つつくだけにとどめるとはしゃぐに気付かれぬようそのままちらりと背後を見やる。河原から少し離れた木の下によく知った気配が三つ、微かに動くのを感じ嘆息した。は気付いていないが、実は邸を出てよりずっと玄武以外の神将たちもついて来ている。安倍家唯一の姫であるに、もし何かあれば事である。小さな怪我であったとしても後々晴明に何を言われたかわかったものではない。ゆえに他の神将たちもこそこそとに気付かれないようついてきたのだ。そうするくらいならば初めから堂等とついてくればいいだろうに、と思わなくも無いが賢明な玄武は口に出すことはしない。…しかし姿を隠す必要が何処にあるのだろうか。彼らの意図はよくわからないが、まあとにもかくにも。
「よ」
「なに、玄武」
「気晴らしにはなったようだな」
「うん。玄武や天一のお陰だね!」
単純と言おうか。素直なのである。昌浩も根が素直すぎるくらい素直なので、二人とも本当に良く似た姉弟だ。
明るい日差しのような笑みを見せて破顔するにそんなことを思い、不思議と自分も機嫌のよくなった玄武なのだった。