身じろげば涼やかな音を立てて流れて行く艶やかな黒髪。射干玉のそれは背に長く引かれ、床の上をするりと滑る。白い頬に扇形の睫が落とす影はさりげなく目元を彩り、何処と無く憂いを帯びて見えた。小さなつくりの形の良い鼻。唇は熟れた果実のように赤くふっくらとしていて、纏うものは季節に合わせた梅の重。ゆったりと広い袖口から覗く手首は細い。
安倍の一族でも秀でた容姿を持つ彼女は、昌浩の実姉だった。陰陽師としての力は持ち合わせて居なかったが、やはり晴明の孫であり安倍の姫である。見鬼の才はたぶんに持ち合わせていた。
そんな彼女の手には型抜かれたいくつかの白い紙片が乗っている。白魚の指先が愛でるように一撫でし、そっと息を吹きかければそれらははらはらと掌から舞い上がり、白い鳥や蝶となった。ひらりひらり、命を吹き込まれた可愛らしい式には微笑を乗せる。
に息吹を与えられた式たちは主を慕うようにふわりと周りと飛び交い、その光景は彼女の美しさと相まってとても幻想的なものであった。
姉に呼ばれ、彼女の部屋を訪れた昌浩はその光景にしばし息を呑む。見慣れた実姉の姿でも美しいものは美しい。昌浩の肩に乗り耳元をわしゃわしゃと掻いていた物の怪に呆れたように後ろ頭をぺしりと叩かれ、昌浩ははっと我に返った。
「姉上」
昌浩の声にがゆっくりと振り向き、弟の姿を目に止めるとふわりと笑う。花が綻ぶ笑みってこういうのを言うんだろうなぁ、などということをぼんやりと頭の片隅で思う昌浩である。
「あら、昌浩。そんなところで立ち尽くしてどうしたの? こっちへおいでなさいな。紅蓮も、さあ」
「あ、はい」
手招きする姉に応じ、部屋に足を踏み入れた昌浩は置かれた円座の上にちょこんと腰を下ろした。そんな弟を見つめてはにこにこと笑みを絶やさない。
もじもじと居心地悪そうな昌浩と機嫌の良さそうなの二人を見比べて、物の怪は夕焼け色の瞳を一度瞬かせると口を開いた。
「それにしても、」
「何かしら、紅蓮」
柔らかな双眸が物の怪を見る。
「あの式文は一体なんだったんだ? 用事があるから来て欲しいだなんて、お前らしくない文だったろう」
「そうかしら? ごめんなさい、呼びつけたりして…」
「いや、別に怒っているわけじゃないぞ」
「そう? ふふ、そうね。紅蓮はそのようなことで怒ったりはしないわね」
袂で口元を覆ってはたおやかに笑った。
「本当はね、私がみんなの下へ行きたかったの。でも一人ひとり回るより、一箇所に集ってもらった方が効率が良いと思ったから」
晴明の護衛をしているもの、用がなければ下界に下りてこないもの。それに重鎮とされる天空などは殆ど下界に下りてくることが無いから、が接触を図るのは困難だ。かといってわざわざ祖父に呼び出してもらうのも気が引ける。
ならば手の空いている神将たちに来てもらえばいいとおもったのだ。
そうが説明している間にも彼女の式文を受け取ったほかの神将たちが姿を現し始めた。
太陰は物の怪の姿を視界に止めてびくりと固まるが、玄武の後ろに隠れてやり過ごす。その様子を天一と朱雀が眺めて苦笑し、六合は無言のまま柱に背を預けた。
「太陰、玄武、天一、朱雀、六合、青龍、勾陣、そして俺。…半分だな」
姿は見えないが青龍と勾陣も来ているらしい。ぐるりと見渡した昌浩は、これだけの神将が一度に会するのも珍しい光景だと思った。
は彼らを見て一つ頷く。艶やかな黒髪が胸元にさらさらと零れた。
「全員はやっぱり難しかったわね。皆それぞれ役目があるのだもの、仕方ないわ」
「いいのか?」
「他の神将たちにはあとで渡すか…頼んでも良いかしら…」
「渡す?」
聞き返すように呟いたのは六合で、はそれに対してにこりと微笑むと袖口に隠していた小さな袋を取り出した。しゃらりと、中で何かが擦れ合う音がする。
「前に昌浩が彰子さんに渡していたでしょう?」
固く結ばれた紐を細い指先が解いていく。するりと解け、逆さにした袋の中から滑り落ちてきたのは小さな石のついた腕飾りの束だった。
「これ、どうしたの? 姉上」
覗きこんでくる昌浩に作ったのよとは答えた。
「成親兄様や昌親兄様に教えていただいたの」
一体いつの間に。神将たちは同時に思った。これだけの量を作るのは相当な労力と時間が必要とされたはずだ。代わる代わる晴明の護衛につく神将たちに気づかれないよう作り上げるのは至難の業だったに違いない。
それに。弟の昌浩はじめとした神将たちは知っている。彼女が、実は手先が酷く不器用であることを。
「いつもおじい様や昌浩を助けてくれるみんなに、私から感謝の意を込めて作ったの。貰ってくれるかしら?」
不安そうに首を傾げるに神将たちはそれぞれに頷いた。彼女の真心の篭った腕飾り。断れるはずがなかった。
それぞれに手渡しては嬉しそうに笑う。それから手の中に残ったいくつかの腕飾りとこの場に居ない一人の神将の姿を思い浮かべてそっと目を伏せた。きっと彼は祖父の元にいるのだろう。そう思ったら途端にそわりと心が落ち着かない。
しばらく悩み、衣擦れの音と共に立ち上がったは彼の元へ向かおうとして、腕飾りをつけようと渋面で格闘していた昌浩に見つかった。
「何処行くの、姉上」
素朴な弟の疑問にどきりとして、手の中の腕飾りを握り締める。微かに視線がそよぐのを物の怪はしっかりとみていた。
「おじい様の分も作ったから、お渡ししてこようと思って」
納得したのかしていないのか。微妙な返事を返した昌浩にそういい置いて部屋を後にした。
祖父の部屋の近くまで訪れたは深く息をした。
彼はがここにきていることに、とうに気づいているに違いない。そういえば久しく顔を見ていないなと思いながら、どきどきと高鳴る胸を押さえてそっとその名を口にする。
「太裳…」
ふわりと空気が揺れて、ひとつの神気が傍に降り立った。
「お呼びですか、様」
穏やかな風貌に優しげな笑みを乗せて、異国の衣を纏う青年がそこに居た。
「うん、あの…これを…」
そっと差し出す掌には、先ほど他の神将たちに渡したものと同じ石の飾りのついた細い腕輪が乗っていた。ほんの僅かに震える指先。彼を前にするとはいつもどうしようもなく緊張してしまうのだ。
「みんなの為にと思って作ったの。太裳にも…」
ありがとうございますと己の手に添えられた大きな手に、は雪のように白い顔(かんばせ)をさっと頬を赤く染めた。
「つけて頂けますか?」
太裳の問いかけにこくりとひとつ頷く。
緊張に震える指先は上手く言うことを聞いてはくれなかったが、差し出された太裳の腕に紐を巻きつけて、何とか解けないようにきつく結び付けることに成功する。その様子を眺めていた太裳はの白い指先に走る一本の赤い筋を目に留めた。
「様」
「え、なに?」
「その傷はどうされたのです?」
あ、と声を上げてさっと両手を後ろに隠す。
「これは…その…」
しどろもどろと必死に言い訳を考えて目を泳がせる姿は小さな子供のよう。他の神将や昌浩が見たら驚くこと間違いなしだろう。普段の彼女は年相応に、いやそれ以上に落ち着いている姫なのだから。
「見せてください、様」
有無を言わさない笑顔で太裳が言えば、は観念したように左手を差し出した。袖から覗く細い手の、白魚の如き指先に浅いけれど長く走る切り傷がひとつ。思わず眉根を寄せ穏やかな風貌を曇らせた太裳に怒られると思ったのか、はしゅんと肩を落として謝った。
「ごめんなさい。いつも気をつけるよう言われてたのに」
器用そうに見えて手先が不器用なは、切り傷や擦り傷が耐えない娘でもあった。
その昔、見かねた太裳に注意をされてからは気をつけるようにしていたのだが、今回はついうっかりとやってしまったのだ。もちろんその刹那、の脳裏に太裳の憂い顔がよぎったのは言うまでもない
「…これは?」
「式を作っていたの。考え事をしていたら、小刀で少し。でもこんな小さな傷だもの、すぐに治るわ。だから大丈夫」
言い繕うに太裳は、彼女の指先を軽く持ち上げて傷口に触れるだけの口付けをした。驚き、突然の彼の行動に顔どころか耳までもを真っ赤にしたはパクパクと酸欠の鯉のように口を動かす。
「た、太裳っ」
「消毒です。…おや、お顔が赤いようですね。お熱でもあるのでしょうか」
焦ったように彼の名を呼ぶと、指先を解放した太裳はにこりと笑んでの額に手を伸ばした。ひやりと触れる冷たい手の感触は心地よいけれど羞恥が勝る。火照る頬を隠すように掌を当てて、からかわないでと消え入りそうな声では言った。
「子供扱いしないで頂戴。私はいつまでも、小さな童ではないわ」
「勿論、存じておりますよ。様は立派な姫君におなりです」
だからこそ、と太裳は続ける。
「安倍家の大切な姫でもあらせられるのですから、もっとご自身を大切にして頂かなくては」
穏やかに細められた瞳。は太裳の言葉にほんの少しの寂しさを感じて目を伏せた。
分かっていたことだけれど。
太裳が自分を大切にしてくれるのは、が安倍の姫という存在であるからだけなのだろうか。それ以上を望むのは我侭であるのだろうか。
恋しく想うこの人に、一人の女としてみてもらいたいと願うことは…。
そっと手を伸ばして太裳の袖を掴む。
「太裳…」
「はい。どうなさいました?」
「あなたにとって私は、いつまで子供のままなのかしら。私は使えるべき主の孫娘でしかないの? それ以上の存在には…なれない?」
語尾が次第にかすれて小さくなっていく。必死に言葉を紡ぐ彼女の顔は先ほどから耳までもが朱に染まったまま冷めやらず、黒髪から除く首筋も同様だ。太裳の袖を握る手には力が込められていた。常の凛とした姿からは想像もつかない弱々しくも可愛らしい姿に太裳は愛しさを覚える。袖を握るの手にそっと触れ、覆うように優しく握りしめた。
この姫は何も知らないのだ。それ以上の存在になど、とうの昔に…。
「様は、今も昔も私にとってはかけがえのない大切な存在です」
太裳は口元をほころばせて、もう一方の手をの頬に添える。びくりと肩を揺らしてそろそろと顔を上げたは、今にも泣き出しそうに瞳を揺らして太裳を見上げていた。
「昔は晴明様の孫娘として、あなたを大切に思っていましたけれど、今は……一人の女性として、あなたを愛おしく思います」
「それは、本当に? またからかっていたりしない?」
「おや、心外です。いつだって様に向ける言葉は、私の本心ですよ」
微笑んだ太裳は少し身を屈めるとの額に己の額をこつんとぶつけた。鼻先が触れ合い、互いの吐息が混ざる至極近い距離に、の鼓動はかき鳴らされるように激しく鳴り響く。ぎゅっと袖口をつかむ手に力が入り、そうして…。
「っ、様?」
へたりと腰が抜けたように座り込んだに太裳は慌てたような声を出すのだった。
実はひっそりこっそりとのあとを付いて来ていた神将たちと昌浩は、そんな二人のやり取りを見守って息を吐き出した。
「まあ、なんだかんだでうまく言ったみたいで良かったじゃねぇか」
皆の心を代弁したかのような物の怪の呟きに、神将たちと昌浩はそろって頷く。そしてそんな彼らの存在に気付いたが真っ赤な顔をして逃げ出すのは、この直ぐあとの出来事。