不毛だよね。ぼそり、と呟かれた言葉にマアサは視線だけそちらに向ける。不毛? 何が。聞き返すと返ってきたのは、無言の返答だった。分かってるくせに、と相手はそういいたいんだろう。
夕暮れの教室。机にノートを開き、右手にシャーペンを握り締めたまま。一向に先の進まない課題と向き合うこと数十分。しかし集中出来ずダメだとノートを閉じて机の上に身を伏せた。
「なんでかなぁ」
「それは、どっちに対して?」
頬杖をついたまま訊ねられ、顔だけ向けて睨む。が、相手は全く気にせずに紫の瞳を細めてくすくすと笑った。
「だって好きなんだもん」
「振り向いてもらえないのに?」
「それでも好きなもんは、好きなの。理屈じゃないんだよ。あぁ、もう…」
頭をかきむしりたい衝動に駆られて、やめる。ぎゅっと目を閉じて、今ここにいない想い人を瞼裏に思い描いた。
「なんで好きになっちゃったんだろうね。ずっと友達でいいと思ってたはずなんだけど」
「でも理屈じゃないんでしょ?」
「そうなの。理屈じゃないの。気付いたら好きだったんだから、もう、なんていうか、あぁ」
ノートに額をぐりぐり押し当ててマアサが唸っていると、それを眺めていたキラの呆れたような声が頭上から降ってくる。
「そんなみっともないカッコしてると、笑われるよ?」
「誰に。今キラと私しかいないでしょーが」
「いやそれがいるんだけど」
「…は?」
「キラ、マアサ」
「うぎゃああっ!?」
突然の第三者の声に驚いてマアサは飛び起きる。ばくばく激しい音を立てて主張する心臓を宥めて、声の主を視界に捕らえた。
「あ、アスラン。いつからそこに」
「え、今だけど…」
「あ、そう。ならいいんだ」
「?」
不思議そうに首を傾げるアスランに、先ほどまでの会話を聞かれていないことに安堵する。そんなマアサを見やって、キラは意地悪げに笑った。
「あ、僕用事思い出した。アスラン、悪いけどマアサの課題見てあげてくれない? さっきから全然進まなくてさ」
「は、ちょ、キラ!?」
余計なことするな、と叫びかけて口を押さえる。そんなこと言おうものならいくら鈍いアスランでも、気付かれてしまうかもしれない。それは勘弁して欲しいことだし、今この状態で二人きりにされるのも正直嬉しいけど辛い。
やめろと視線で抗議するマアサを一瞥するもそ知らぬ顔で肩をすくめ、キラはアスランに向かってにこやかに微笑んだ。
「いいよね、アスラン」
「ああ構わない」
「じゃあ後頼んだから」
鞄を持って出て行くキラと入れ替わりでアスランが向かいの席に腰を降ろす。キラを引き止めることが出来なかった右手は空中の微妙な位置で固まり、どうしたもんかと悩むマアサを不思議そうに眺めて、やらないのか、とアスランは閉じたノートを示した。
「う、やる。やりますとも」
「それにしても珍しいな。マアサが課題で引っかかるなんて」
「たまたま苦手な問題があっただけ」
「どれだ」
開いたノートをアスランが覗き込む。その至近距離に、鳴り止んでいた心臓がまた音を立て始め顔に昇りかけた熱を抑えるように、さりげなく片手を頬に添え意識するなと自分に言い聞かせる。
「これ」
シャーペンを再び握り締めた指で問題を示すと、それを見たアスランがマアサの手からシャーペンを借りてすらすらと問題を解き始めた。
「これはだな…」
良く通るアスランの声。耳の奥にしっとりと馴染むようなこの声が好き。微かな風に揺れる藍色の髪も、伏せた長い睫が陰影を描く翡翠色の瞳も全部好きで。
(でもその瞳に映るのも彼が愛を紡ぐ相手も私じゃない、べつの女(ひと))
彼が誰よりも大切にしている愛しい人は、彼の婚約者。ラクス・クライン。
ずくん、と胸の奥底が痛む。
「これだけか?」
聞き返すアスランに、はっと顔を上げて頷きかけ、しばし逡巡した後に今のとはまた別の問題を示した。
「あと、これ」
「ああ、これは…」
丁寧に説明してくれるアスランの顔を見つめて目を伏せた。
本当は教えてもらわなくとも自力で解ける簡単な問題だ。だけどわざわざそれを選んで、教えてもらっていることの意味に、アスランが気付くことはない。
(気付かなくても無理ない、か。まあ気付いてもらっても困るんだけどさ)
夕日に紅く染まる教室。
好きな人の顔を見つめて、マアサはふと自嘲するように笑みを浮かべた。
片思いのお話。その1。
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