Etude ―練習曲―


 澄んだ冬の朝の空気。目が覚めた瞬間まず感じるのはそれで、まだどこか霞んだ意識の中ほづみはゆっくりと寝床から起き上がった。
 キラの家のベッドも柔らかかったが、ここのはそれ以上だ。体が埋もれてそのまま沈んでしまいそうなほど柔らかなベッドの上で、しばらくそのまま微動だにせず、やがて意識がはっきりしてくると大きく伸びをした。
 薄紅色の夜着の袖が二の腕まで下がり、白く細い腕があらわになる。
「んー、よく寝た」
 はぁ、と息を吐き出してもぞもぞとベッドから這い出した。

 キラに保護され、姫の身代わりとして城に住むようになってからはや五日。代人とはいえ姫として過ごす毎日は退屈で仕方がない。
 アレをしてはいけない、これをしてはいけない。なってから分かったことだが姫というものは色々と制限が多いらしい。したいことを出来ないなんてつまらない。
むやみに人前に出ることも許されないし、元気に走り回ることもしてはいけないらしい。淑やかに控えめにが姫の条件。本来のほづみの性格とは全く正反対のそれに、彼女は苦痛で仕方がなかった。早く姫の身代わりなんて辞めてしまいたいけれどそういうわけにもいかないようで。
 綿密に言えば姫ではなく女王なのだが、どちらにせよ今の生活が退屈でつまらないものであることに変わりはなかった。

 窓を開けると冷え込んだ朝の空気が室内に入り込み、その冷気に一度小さく身震いをする。雪も降り積もっている季節だ。さすがに夜着のままでは堪えたか、と室内に身を翻し昨晩就寝の際適当にベッドサイドにひっかけてあったガウンを肩から羽織ると、バルコニーへと出た。足許ははだしだし、ガウンの下は薄い寝巻き。少しはしたないかと思ったが今は誰も見ていないのでいいことにしよう。凝った作りの白い柵に肘をかけ下を見下ろすと雄大に広がる雪の降り積もった庭と、そこを横切る二つの人影があった。もうすっかり馴染みとなった人物に、ほづみの顔が自然と綻ぶ。
「あ、キーラー! アースラーン!」
 身を乗り出してぶんぶん手を振りながら声を掛けると、上を向いた二人がぎょっとしたように目を丸くして慌てて走り出した。走りづらい雪道を疾走した二人はそのまま城内へ続く回廊へと入っていく。姿が見えなくなるまで見送っていたほづみは何かまずいことをしただろうかと首を傾げるも、すぐにまあいいや思いなおしと再び室内に身を返してベッドの脇に腰を降ろした。そのまま仰向けに倒れると、ふんわり柔らかなベッドは優しくほづみを迎え入れてくれる。
 ベッドの天蓋を眺めながらほづみは今日一日何をしようかと考えた。しかし考えたところで色々と制限の多い姫である。どうせしたいことをさせてもらえないんだろうな、と思うと些か気分が沈んだ。
「……とりあえず着替えるかなぁ」
 そうまずは着替えて、それからだ。勢いをつけて起き上がる。ベッドから離れた場所にある衣装棚の扉を開けると、ずらりと中に並ぶのはもちろんほづみの慣れ親しんだ洋服ではなく、沢山のフリルとリボンそれから宝石のあしらわれた所謂ドレスというものだった。カリダが貸してくれたものとは全然違うそれらを目にした瞬間ほづみはうんざりした。
 この城へ連れて来られてからというもの、朝になると必ず侍女というものがやってきて着替えを手伝ってくれる。というか強制的に着替えさせられる。今まで人の手を借りて着替えをする、といった経験の無いほづみは戸惑い一人で出来るから大丈夫だと断ったものだが、侍女は仕事だからとほづみを押し切った。仕事だから、と言われてしまえば仕方が無い。人の仕事を奪ってはいけないのだ。彼女らはそれで生活するお金を稼いでいるのだから。そこまではいい。問題はその先だった。侍女が用意した服というのが、ほづみの嫌う女の子らしいドレスであったからだ。裾は長く袖はふんわりと広がっていて、襟は大きく開いていて胸元が少々不安になるような、そんなドレス。もちろんほづみは全力でそれを拒否したが、侍女たちに押さえつけられて強制的に着替えさせられてしまった。
 ほづみは女の子らしい服装をあまり好まない。どちらかといえばシンプルで、機動性に富んだものを好むのだ。けれどここにはそれがない。もうその事実だけでなきたくなってくる。  衣装棚の扉に手をかけたまましゃがみこみ、四日前の朝の出来事に思いを馳せていたほづみは、扉を叩く音で我に返り首をめぐらせた。侍女たちがやってきたのだろうか。
「どうぞー」
 投げやりな気分で返事をしてからまだ寝巻き姿のままであったことに気付く。果たして訪れ人が侍女ならばよいが別の人間だった場合…どうしよう。
「…ま、いいか」
 楽観的に呟いて立ち上がると来客を迎えるべく、ほづみは扉に近づいた。ゆっくりと開いた扉から姿を見せたのは、先ほど雪道を疾走していたアスランとキラで、心なしか息は上がっているし髪も乱れている。それぞれほづみを見下ろして、しばし固まっていた。まさか寝巻き姿のまま出てくるとは思って居なかったらしい。
「おはよう、二人とも。どうしたの? そんなに疲れた様子で」
 誰のせいだ、誰のと内心突っ込むアスランだったがそれを口にする気力も無いらしい。
「大丈夫?」
「いやあの、大丈夫っていうかさ。ほづみ…お願いだから、その格好のまま外に出るのはやめてくれないかな」
「仮にも姫の代人である自覚はあるのか、お前」
「え、あー。やっぱりまずかった?」
「「まずいに決まってるでしょ(だろ)!」」
 さすが幼馴染にして親友同士。息もぴったり。見事なハモリを披露してくれた二人に心の中で拍手を送りつつ(実際やると怒られるからだ)、ほづみはぽりぽりと頭をかいた。
「あはは、ごめんねぇ。次から気をつけるようにするよ」
「そうしてくれ」
 疲れたように言うアスランにほづみはケラケラ笑って、二人を部屋に招き入れようとしたが、断固拒否された。何で、と不服そうなほづみを諭したのはキラだ。
「ほづみ、寝巻きのままでしょ。いくら女王付きの騎士だって言っても、流石にその格好の君と僕らが一緒にいるのはまずいよ」
「そういうもんですか?」
「そういうもんだ」
「ふーん」
 よくわかっていない様子のほづみにアスランは二度目の溜息をついた。
 そこへぱたぱたと慌しい足音が近づいてきて、突如悲鳴が上がる。何事かと目を剥いた三人がそちらを見やれば、三人の侍女とその前に立つ侍女頭が扉の前にいるアスランとキラを見てわなわなと震えていた。何だ。三人の侍女に何か言いつけた後侍女頭のティーザがつかつかと歩いてきて、ごほんと咳払いをする。そしてアスランとキラの二人を見上げて、きっと睨みつけた。
「アスラン様、キラ様。いくらお二人が姫様付きの騎士であらせようとも、寝起きの女人の部屋を訪れるなど無礼ですよ」
 ティーザの小言に、キラとアスランの二人はいつに無く低姿勢で素直に謝っていた。どうやらこの二人、口うるさい侍女頭のティーザが苦手であるようだ。
 新しい発見にほづみが一人関心していると、こそこそと小声で話し合う若い次女たちの姿が目に入った。
 なるほど先ほどの悲鳴の正体はティーザではなくあの侍女たちのようだ。注意してみてみれば彼女らはアスランとキラの二人をちらちらと盗み見るようにして小声で何かをささやきあっていた。心なしかその表情は嬉しそうで、頬は赤く染まっている。思い出してみれば先ほどの悲鳴はどちらかといえば黄色い声、と表せそうなものであったし…。
 はぁ、なるほど。二人を見上げてこくこくと一人頷くほづみを訝しげに見下ろすアスランとキラである。
 若い上に大変見目の良い二人である。おそらくは、大変人気があるのだろう。本人たちにその自覚があるかないかは別として。
 一人別のところへ思考を飛ばしているとティーザの厳しい視線が飛んできた。
「ほづみ様も」
「は、はいっ」
 思わず背筋がびしっと伸びる。
「そのようにはしたない格好で、うかつに殿方の前に姿を見せてはなりませんと、このティーザが散々申し上げましたでしょう。お忘れですか?」
「う…は、いえいえそんな。忘れてなんていませんよ、はい」
 そんなこと言われたっけか。ぎくりとしながらほづみはへこへこと頭を下げている。
 忘れていなければ寝巻き姿でバルコニーに出てきたりはしないだろう。こっそり溜息をつくキラとアスランを、ほづみは目の前でくどくどと説教をたれるティーザに気付かれないように睨みつけるが、その視線から逃れるように二人は肩をすくめてそっぽを向いた。薄情者め。
「……であるからにして、…ほづみ様。聞いていらっしゃいますかっ?」
 意識が余所に逸れていたことに気付いたらしいティーザが鬼の形相でほづみに迫った。そのあまりの迫力に思わず後退し、両手を前に彼女を制したほづみは引きつった笑みを見せながらこくこくと頷く。聞いてなどいなかったが、ここで正直にそれを告げようものなら今日の午前いっぱいティーザの説教と基本マナーの教習で終わるだろう事は目に見えている。それだけは勘弁願いたい。何せ説教もマナー云々もほづみの苦手なものである。
「聞いてる。聞いてますちゃんと。ごめんなさい、以後気をつけるようにします」
「…まあ、いいでしょう。今日のところは多めに見ます。ではほづみ様、おめしかえを。騎士様は外でお待ちになってくださいね。くれぐれも、覗き見たりなどしませんよう」
 そういって三人の侍女に目配せすると、後方で控えていた彼女たちはそそくさとティーザの傍により、ほづみを部屋の中へと連行し、廊下に残されたアスランとキラの二人は顔を見合わせてそれぞれ肩をすくめた。
「ティーザさん、いつもすごいね」
「まあ、あのティーザを言いくるめられるのはラクスくらいのものだろうな」
「ラクスに敵う人っていないと思うよ」
「…確かに」
 何時もふわふわと微笑んでいながらどこか威厳のある己の婚約者の姿を思い浮かべて、アスランは頷いた。
 ラクスは今頃、どこで何をしているのだろう。