水のクリスタルの巫女オリビアの所在を求めて訪れた艶花の国フロウエルは、競うように着飾った女の子と香水のにおいで溢れかえる、どこか歓楽街を彷彿とさせるそんな街だった。
敬虔な信徒が住まう町、と話に聞いていたものとはずいぶんと違う。
元の街とはがらりと様変わりしてしまった綺羅綺羅しい街並みにアニエスは渋面を浮かべ、ティズはどこか落ち着かない様子でいた。リングアベルは街中を歩く女の子たちに目移りをさせ、イデアはそんなリングアベルを呆れた眼差しで見ている。仲間たちのそれぞれの様子には微笑ましいようなそうでないような複雑な気持ちを抱いていた。
街に入ってそうそうアニエスが水を掛けられるという事件が発生したため、一行はとりあえず近くの宿に腰を落ち着けることにした。
ラクリーカから瘴気の森を抜けフロウエルへ。その道のりは決して楽なものではなかった。長旅をしてきたために体はすっかりと疲れ切っていたけれど、頭は妙に冴えてしまっていて、は眠れそうにないなとベッドの隅に腰を下ろしたままぼんやりと天井を眺めていた。
天井から視線を移せばいつの間にかアニエスとイデアはすやすやと健やかな寝息を立てていた。二人とも疲れていたのだろう。身を寄せ合って眠る様子が微笑ましくて、ふと口元を緩ませる。半分ずれ落ちてしまっている布団を引き上げて二人の体にかけてやると、はそっと部屋を抜け出した。
活けられた花の心地よい香りをかぎながら廊下を歩く。確かこの下にはバーラウンジがあったはずだ。アルコールに頼るのはあまり好きではないけれど、寝付けないのだしこの際仕方がない。明日寝不足で動けませんなんてことになったら話にならないし、少しだけ酒の力を借りることにしよう。
もっとも二日酔いで動けませんなんてことになったらもっと話にならないので、そこは気をつけなくてはなるまい。
そういえば隣の部屋に泊まったティズとリングアベルはどうしているのだろう。規則正しい生活リズムのティズは恐らくもう寝てしまっているだろうが、リングアベルはまだ起きているだろうか。彼がこんなに早くに寝てしまうとは思えないし声を掛けてみようか、とは考えてけれどもすぐにやめようと首を振った。
どうせリングアベルのことだからここぞとばかりに夜の街に繰り出して行っているに違いない。
そんなことを考えながらため息を一つ。階下へと降りて行くとはそこで意外な人物を見つけた。
「あれ、リングアベル…」
いないだろうとばかり思っていたリングアベルがカウンターでグラスを片手に座っていた。の声に振り返った彼は彼女の姿を捉えると笑みを乗せる。
「ああ、か。どうしたんだ?」
「眠れないから少し飲もうかと思って。そういうリングアベルは珍しく外に出て行かなかったんだね」
隣いい? と声を掛けながらリングアベルの隣に腰を下ろして、悩んだ後に少しきつめのカクテルを頼んだ。普段からあまりアルコールの高い酒を好まないだったけれど、少し酔いたい気分の時にはきついぐらいで丁度いい。
ほどなくして運ばれてきた酒は上品な甘さで口当たりが良いものだった。美味しい、と上機嫌でグラスを傾けるをリングアベルが意外そうに見つめる。
「なに?」
「いや、珍しく強めの酒を頼んでいると思ってな」
「まあ、たまにはね。これくらいじゃないと今日は酔える気がしなくて」
「飲み慣れないものを飲むと翌日辛いぞ」
「その時はその時よ」
くすくすと笑っては手にしたグラスを置いた。
カラン、と氷の融ける涼やかな音が二人の間に響き渡る。
ふいに会話が途切れて、けれど気まずさなど感じることのないまま穏やかに時が過ぎて行く。
男女のさざめくような笑い声やシェイカーの音をBGMに、はゆるりと思考を巡らせた。
こうやって二人だけで酒を飲むのはいつ以来だろう。カルディスラでリングアベルと出会って間もない頃、ティズたちと出会う前には時折このような時間を取っていた。けれど彼らと出会ってからは目まぐるしく状況が変化してゆっくりと落ち着ける時間がなかった。
頬杖をついて隣のリングアベルへと視線を向ける。の視線の気づくこともなく手元のグラスに視線を落とした横顔は何か考え込んでいるようにも見えた。
「……リングアベルも珍しいよね」
「何がだ?」
「女の子の後追いかけていかないの。可愛い女の子いっぱいいたのに、いいの?」
「まあ、たまにはな」
先ほどが発したものと同じセリフを口にして、リングアベルはすっと窓の外に目を向けた。つられるようにも視線を動かす。夜の帳を下ろしたフロウエルの街に煌びやかなネオンの灯りが場違いなほどに輝いている。綺麗だけれど落ち着かない灯り。この街に来たときからずっとは違和を感じずにはいられなかった。
それはこの街がもともとのあるべき姿ではなく、ひとの手で無理やりに歪められてしまったようなそんな意志を感じたからなのかもしれない。
「この街の女性は綺麗だが、少し毒が強い」
ぽそりと独り言のようにもらされた呟きには苦渋が混ざっていて、何かあったのだなと察したは小さく吹き出した。全く懲りない人だ。少しぐらい懲りて行動を改めてくれたらいいのに。
「リングアベルはほんとに女の子が好きね。でもほどほどにしないと、いつか刺されるわよ」
「男相手はごめんだが、女性に刺されるなら本望だな!」
「それを三人の前で言ってごらんなさい。怒られるから」
「む…」
「リングアベルに何かあったらみんな悲しむわ。ああ、でも女がらみのことだったら仕方ないって呆れられちゃうかしら」
言いながらはグラスを静かにあおる。細い喉が嚥下するように動いて、空になったそれをカウンターに置くと今度は先ほどのものよりも弱めのカクテルを頼んだ。空腹のせいか疲労のせいか、普段よりアルコールの周りが早い気がする。体が火照り始めたのを感じながら、は続ける。
「私思ったんだけど、リングアベルが女の子を追い回すのってやっぱり消えた過去に関係するのかしら」
「なんだ、今頃わかったのか? そうさ、俺は俺の心にぽっかりと空いた大穴を埋めてくれる人を探している! 絶対に、どこかにいるはずなんだ」
芝居がかった口調であったけれど、彼の言葉には真実味が込められていてはずんと鉛が落ちてくるように胸の奥が重くなるのを感じた。気付かれないように目を伏せて、そうと小さく呟く。
その人は。
リングアベルが探しているというその人物は、彼にとってどういう存在だったのだろう。家族? 姉妹? 恋人? 彼の口ぶりからすると想い人であった可能性は高そうだ。
記憶がないということをさほど気にした様子を見せないリングアベルだが、実際のところ彼がどう思っているのかはいつも図りかねていた。
「でもそれとは関係なく、あなたの場合単に女の子が好きってだけのような気もするけど」
「勿論それもある! 女性を口説くのは男の嗜み、礼儀だからな!」
「…威張っていうことじゃないわ」
胸を張って断言したリングアベルには隠さず苦笑した。
女の子が好きだと言う割には、自分に対して他の女の子に取るような態度を一切取らないくせに。
心のうちでぽそりと零す。
特別だなんて思ってくれなくていい。仲間の一人として扱われることも構わないけれど、自分だって女だ。少しは女性として意識してほしいと思うのは決して間違ったことではないはずだ。
ああ、やっぱり自分はリングアベルにとっては対象外ということなんだろうか。
そんなことを思ってしまったら、ふいに目の奥がじんわりと熱くなって、誤魔化すようにグラスをあおった。
普段より乱暴な飲み方をするを見兼ねたリングアベルが眉間に皺を刻む。
「少し飲みすぎだぞ、。せめてもう少しペースを落とせ」
「…そんなことないわ。たまにはいいじゃない」
「いや、言ってることがおかしいからな。そんなことないと言いながら飲みすぎてる自覚があるじゃないか! そろそろやめておけ」
「いやよ、リングアベルのあほ」
「あほとはなんだ、あほとは!」
ばっとグラスを奪われて、はリングアベルを睨みつけた。けれど彼がにグラスを返してくれることはなくて、ふくれっ面をした彼女はテーブルに突っ伏す。駄々っ子かと呆れたようなリングアベルの声が頭上から降ってきたけれどはそれをスルーした。
火照った頬にひんやりとした石の冷たさが心地よい。本格的に酔いが回ってきたようで、頭がぼんやりとする。もともとの目的でもあった眠気もやってきたようだ。
だけどどうしようもなく泣き出したいような気持にもなっていた。先ほどの会話と、思考。酔っているせいでセーブが効かず、ごちゃごちゃと鬩ぎ合う感情にはきつく瞼を閉ざす。
そんな彼女の前に冷たいソーダ水の入ったグラスがことりと置かれた。
しゅわしゅわと気泡の弾ける優しい音が耳に届く。
「今日はもうこれで我慢しておけ」
「…うん。……ねえ、リングアベル」
「ん? どうした?」
「ちょっとだけ、真面目な話、聞いてくれる?」
「…ああ」
リングアベルが頷いてくれたことにほっとして、は少し逡巡した後に静かに口を開いた。きっと彼はが何を言おうとしているのか気づいているだろう。そうしては自分の述懐に対して、彼がなんと答えるのか既に分かっていた。それでもは自分の想いを吐露する。
「今さらこんな話と思うかもしれないけど、私ね、ずっと羨ましいと思っていた。遊びでもあなたに相手をして貰える女の子たちが。声を掛けて貰って一緒に遊んで貰って…触れて貰える子たちが。リングアベルってば私にはちっとも見向きもしてくれないのに」
知っているのに。の気持ちをリングアベルは知っているのに、それでも一切態度を変えず、今まで通りの彼が少し憎くてだけど嫌いになれなくて。
酷くもどかしい。
「……それは、。君が俺に本気だからだよ。本気の相手に迂闊に手を出して傷つけたくはないからな。仲間なら尚更だ」
茶化すでもなく真摯に返された言葉に、は涙腺が緩むのを感じた。
それは、その言葉はずるい。リングアベルは優しいけれど、彼の優しさは残酷だ。
裏を返せばその言葉は、この先もリングアベルがの気持ちに応えることはないと言っているようなものではないか。
「ずるいわ、リングアベル…」
諦めろと言ってくれれば気持ちの整理も少しはついたかもしれない。時間はかかっても、それまでに色んな女の子の後をついていくリングアベルの姿を見て傷つくことはあっても、彼を諦めることも出来たのかもしれない。
けれど彼は決してはっきりとした拒絶の言葉を口にすることはなかった。
いつだって遠回りにやんわりと優しくを傷つけないように、彼女の想いを受け取ることはしないけれど突き放すこともしない。
ずるいな、と思う。酷いなと思うのに、は彼への想いを断ち切ることが出来ずにいた。
「………じゃ、なかったら……」
仲間なら尚更、と彼は言う。なら仲間じゃなかったら、あなたは私に触れてくれたのだろうか。
込み上げる問いを喉の奥に押し込めた。こんなことを言ったって彼を困らせるだけだ。もしもの話なんて意味がない。
突っ伏したまま口を閉ざし動かなくなったに、泣かせてしまっただろうかとリングアベルがわずかに焦りを見せた頃。むくりとは起き上がった。
「…あーあ、振られちゃった。でも一度や二度じゃめげないもの」
そういって笑うの笑顔が自然のものではなく無理に浮かべたものだと分かってしまったから、流石にリングアベルは何も言えなくなった。彼女の頬が赤いのはアルコールのせいだろうが、瞳が潤んでいるのはアルコールのせいだけではないのだろう。
「…」
「こうなったら本格的に自棄酒してやるわ。付き合ってよね、リングアベル」
「ああ…仕方がない。付き合おう」
否やを言う資格はないと心得ていたリングアベルは苦笑交じりに頷いた。
その後二人で夜が更けるまで飲み明かし、結局気を付けようと思っていた二日酔いに悩まされ若者三人に呆れられることになるのはもう少し後の話。
(二人の関係としては両片思いっぽい感じ)