早いもので。それから一月。
ん? 早すぎるとかそういうツッコミはなしね。
いいの。とにかく一月が過ぎたの!
私は現在も熊野の藤原邸にご厄介になっているのでした。
ある程度予想はしていたけれど。楽する事になれてしまった現代人に、ここでの生活はかなり堪えた。なんでもかんでも自分の手でやらなければならない。炊事洗濯すべて手動。水道は無いし、ガスコンロはもちろん、電子レンジもオーブンも冷蔵庫すらない。洗濯は洗濯で井戸で水を汲んできて、洗うという結構な重労働。でもそれも大変だったのは最初だけで一月たった今では大分慣れたもんだ。
人間の適応力ってホントすごい。つくづくそう思ったね。
そんなわけで今日も今日とて朝早くから炊事場に立って朝餉(ここでは朝食を朝餉というらしい)の支度をしていたわけなんだけど。
現れた子悪魔に見事邪魔されたのだった。
「こらー! ヒノエ! 待ちなさいってば!!」
「やだよー。待ったら、怒るだろ!」
「当たり前だー!!!」
ドタドタと邸の中を走り回る大人と子供。
原因は目の前の走る小童に在る。またやられたんだよ、ちくしょうめ。
これで一体私が何回皿割ったと思ってるんだ!
今度こそ捕まえてとっちめてやる。
口で言ってわからない子供には体で覚えさせてやるんだ!
…とはいうものの。子供ってホント素早い。それに加えてこっちは大分運動神経も鈍くなりつつある年頃の、しかも慣れない格好の現代人。中々追いつけない。
つるつる滑る足元に気を取られていると思うように前に進めない。足袋で廊下を走るのはなかなかに危険が伴うものだ。
何度か滑ってすっ転んだ痛い思い出がある。だから今度はそうならないよう、走るというよりは早足でずんずん進んでいたら、突然曲がり角からにゅっと出てきた人影に思わず足を滑らせた。
努力の甲斐も空しく。
あ…尻餅。これは痛そうだ。
反射的に構えたのだが、いつまでたっても予想していた痛みは来ず、変わりに腰の辺りに誰かの手の感触。
ゆるゆると顔を上げると朝から目に眩しい美しい顔(かんばせ)が。
「あ……」
支えてくれたのは弁慶だった。腰に当てていた手を退けるとおはようございますと、やっぱり朝から麗しい笑顔。
「おはようございます。弁慶さん」
佇まいを直して挨拶をすると微笑を浮かべたまま、弁慶が僅かに首を傾けた。
「何やら急いでいたようですけど……もしかしてヒノエですか?」
「そうです。ヒノエです。またやられました」
悔しげに舌打ちすると弁慶は微笑みから苦笑へと変えた。笑い事じゃないんですよ?
「今日こそはとっちめてやろうと思ったんですけど、素早くて。逃げられてしまいました。仕方ないですね。……あ、丁度よかった。弁慶さん、今御暇ですか?」
「はい」
「よかった。じゃあ膳を運ぶの手伝ってくれません?」
にっこり笑顔でそう言うと、弁慶はいいですよと一つ返事で頷いた。
お世話になる変わりに朝餉の支度は私が担当させてもらっている。朝早くから支度を始めて、皆がおきはじめてくる頃には出来上がるよう準備を整えるのは中々大変だが慣れてしまえがそれほど苦ではない。ちなみに皆、というのは邸の人たちだけじゃなくて。後から聞いた話なんだけど、ここは熊野水軍という水軍の本拠地らしい。その水軍の人たちの分も入っているからそれなりに量がある。ちなみにヒノエのお父さんが水軍の頭領なのだそうだ。どうりでこれだけ立派な邸に住んでるわけだ。
毎朝朝餉の支度をしているわけなんだけど、そうすると決って何処からかひょっこりヒノエが現われてくる。そうして私の邪魔をするのだ。懐いてくれるのは結構だけど、邪魔をされるのはさすがに勘弁願いたい。膳を運んでる最中に飛びついてきたりするもんだから、今まで何度皿を落として割った事かかずしれず。さっきヒノエを追っかけていたのにはそういう経緯が含まれている。
弁慶とともに炊事場へ戻って膳を運ぶ。その作業を幾度か繰り返している内、背後から駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「おはようございます。殿」
「おはよう、敦盛。ヒノエと違って君は今日も良い子だね」
頭を撫でてやりたかったが、生憎と両手がふさがっている為そうもいかず。わざわざ膳を下ろしてまでするわけにもいかなかったので、ただ笑顔を手向けるだけに留めていた。
「そういえば今日はヒノエと敦盛君と海へ行くそうですね」
「ああ、はい。そうですよ。弁慶さんも一緒に行きます?」
「いいえ、僕は。所用があるので、折角のお誘いですけど……すみません」
「いえいえ、それなら仕方ないですよ。気にしないでください」
申し訳なさそうに謝ってくる弁慶にぶんぶんと首を振った。
ずっと年上だと思っていた弁慶だけど、どうやら実年齢は私とあまり変わらないらしい。ヘタをすると私のほうが年上なのかもしれない。すごく落ち着いているからすっかり年上と思い込んでいた。そう見えたのは、あれか。現代のアホで落ち着きのない同年代の男子どもを散々見続けてきたが故なのか。
隣に立つ高い位置にある横顔を眺めて、一人うんうんと納得した。
弁慶が不思議そうな視線を向けてきたが、それは笑顔で誤魔化して膳を運ぶ作業を続けていると背後からどたどたと近づいてくる足音が聞こえた。敦盛は弁慶の反対隣りで静かに歩いている。となるとこの足音の人物はあいつだ。この邸には敦盛とヒノエ以外の子供はいない。
さっき追いかけた時には逃げたくせに、追いかけるのをやめると向こうから近づいてくるというのは…構って欲しい子供ごころってやつか。わからん。
とにかく近づいてくる足音に反射的に身構えると、ぼふっと後ろに衝撃を感じた。
「!」
予想通り元気な、でもちょっとふてくされたようなヒノエの声。
子供の力だからそれほど威力は強くないけど、膳を運んでいるときだけは本当に勘弁してほしい。何度言ったら理解してくれるんだろうか、こいつは。
「あのね? ヒノエ」
口元が引きつるのを何とかこらえながら後ろでしがみつく小童を振り向いた。
「何度も言うけど。っていうかさっきもやられたけど、膳を運んでいるときは後ろから飛びつくのは止めなさい。危ないでしょう?」
怒りをこらえた私の笑顔がそれほど怖かったのか。
びくりと顔を引きつらせてヒノエがごめんなさいと小さく謝った。
まあ謝ったから許してやろう。
しがみついたまま離れないヒノエはさておいて、多少歩きにくいけど歩けないこともなかったので、そのまま私は弁慶と近くの部屋まで膳を運んでいった。
朝食を終えた後、私たちは近くの海へと向かっていた。
今日は少し風が強い。短く切られた私の髪は海風に煽られて、好き勝手に舞い上がっている。
長ければ縛ることも出来たのにと、このときばかりは髪を短くしていたことを後悔した。
海へたどり着いた私たちは、まず砂浜で貝拾いを始めたのだがややってヒノエが見せたいものがあると言い出した。
連れて行かれたのは岬。断崖になっているその場所はまるで私がここへくる原因となったあの場所のようだった。
なんとなく。
いやぁな予感がした。
でも子供たちの前でそれを口にするのは憚られて、不安は私の胸に内だけに留めておくことにした。
お昼に食べようと握ってきた強飯の包みを開きながら手元を覗き込んでいるヒノエに訊く。
「ねぇ、ヒノエ。見せたいものって何?」
「秘密。もう少し時間がたったら見られるぜ」
得意げに言うヒノエ。
彼がそれほど見せたいものとはなんだろうという興味も沸いて、変わりに胸にあった不安は薄れていた。
少し塩味の強くきいた強飯を食べながら、私たちは他愛ない会話をして時を過ごした。
あっという間に数刻が過ぎ去って、太陽が傾き始めた頃。
ようやくヒノエが見せたいと言っていたものがなんであるのか知った。
それはとても美しい景色だった。
橙色の太陽が水平線の向こうへと消えていく最期の瞬間。照らしだされる淡いどことなく寂しい光は美しく、思わず溜息が漏れるほど。
これを見せたいと、ヒノエは言っていたのだ。
「すっごい…キレー」
「だろ? 穴場なんだぜ。あんまり知っているやついないんだ」
「すごいな、ヒノエ」
目を輝かせて得意そうに言う幼馴染を見る敦盛。微笑ましい二人の姿に思わず笑みがこぼれる。
「もっとじっくり堪能していたい所だけど、あんまりいると遅くなっちゃうから。そろそろ帰ろうか」
二人に向かって言いながら開いた包みをしまって立ちあがった。
この時、私はもっと注意すべきだった。
自分のいる場所が、かなりきわどい位置であったこと。現代のように崖の際を覆う安全対策のための作なんてものが存在しないこと。
なんというか。
今回は思いっきり自分の不注意だ。足を滑らせてしまった。
「え……」
まずいと思ったときには既に時遅く。
私の体は海に向かってまっさかさまに落ちていた。
「!!」
「殿!!」
二人の焦ったような声をが聞こえていたがそれに答えている暇も余裕も、ついでに距離もなく。
海に落ちるのは二度目の体験とはいえ落ち着いちゃいられない。自分の物とは思えない甲高い悲鳴を上げながら海面に向かって落ちていく。
今度こそ絶対絶命。
そんな考えが頭を過ぎって私の体は海へと叩きつけられた。
突然視界から消えたにヒノエと敦盛は一瞬状況を理解できずに固まった。
それから彼女が足を滑らせたのだと知ると、大急ぎで断崖へ寄り下を覗き込んだ。落ちていくの姿が見える。
敦盛が泣き出しそうな顔で、いや既に泣きながらの名を呼ぶ。
彼女の体が海面に叩きつけられた。そのまま浮かびあがってくるのを待つが、しばらくしてもの姿が見えることはなかった。
ヒノエは敦盛の腕を引いて立ち上がらせると邸へと駆け出していった。
その後、ヒノエの話を聞き湛快が船を出して辺りを捜索するもののの姿を見つけることはできなかった。
あまりにも突然に、は彼らの前から姿を消したのだった。