世の中常識じゃ計り知れないようなおかしなこともあるもんだ。
この世に生を受けて十九年。お母さん、娘は初めてタイムスリップなるものを経験してしまいました。
無事家に帰れるか、不安です。
それは本当に突然だった。
友達と一緒に旅行に行っていたのだ。景観の良いといわれる岬へと足を運んだその矢先。
背中に衝撃を感じて気がつけば、私の体は宙に舞っていた。
誰かが故意に押したわけではない……多分、事故だったのだ。
生まれて初めてのコードレスバンジー…なんて馬鹿なこと言ってる場合じゃない。
友達が悲鳴を上げている声が遠くに聞こえて、視界いっぱいに広がるは岸壁に打ち付けて白いしぶきを上げる決して穏やかとは言いがたい青い海。
耳元で風を切る轟音が響いて、こんな状況だというのに「あ、死ぬかも」なんてどこか冷静に頭の端っこで考えていた。
だってどうしようもできない。私はただの人間で翼があるわけじゃない。一度落ちてしまったらそのまま落ちるしかないのだ。
そうしている間にも私の体はぐんぐん急降下していき、海面が目前まで迫ってきていた。
思わず目を閉じる。
そして、衝撃。
痛みという痛みはなかった。ただ全身を打ち付けて息が詰まるような衝撃を感じた。
ぶくぶくと水音を立てながら沈んでいく私の体。岩に打ち付けられなかっただけでもよかったと思いたい。あの高さから落ちて岩に打ち付けられていようものなら、たとえ遺体として引き上げられていたとしても、生きていたとしても五体満足じゃいられなかっただろう。きっと腕の一、二本吹っ飛んでたと思う。
海へ沈んだその後はどうなったか覚えていない。当たり前だと思うけど、私は意識を手放してしまったから。
暗転する意識の中これだけを思った。
ああ、お父さん。お母さん。
先立つ娘をお許しください。合掌。
***
照りつける日差しはずいぶんと暑い。
むっとした熱気が押し寄せる真夏の熊野。川涼みも良いが今日は海で貝でも採ろうと言い出したヒノエの提案により、敦盛とヒノエの二人は海岸へと足を運んでいた。
「敦盛、どっちが沢山採れるか競争しようぜ!」
「う、うん」
あまり乗り気ではないらしいが、そういわれてしまっては断るわけにはいかない。
敦盛は控えめに頷くと先に波打ち際に入っていた幼馴染の追うべく、歩きにくい砂浜を一生懸命歩いていた。
水に入るために着物のすそを捲り上げ、濡れないよう袖を紐で括って水に足をつける。
夏とはいえ、普段はあまり感じることの出来ない冷たさに敦盛は一瞬顔を歪めた。
けれどそれも一瞬で、すぐに水に両手を突っ込んで漁るヒノエに倣うよう敦盛も水の中へ手を差し入れた。
二人で貝漁りを始めてどれほどたったころか。
突如、沖の方向ですさまじい水音が響き渡った。
その盛大な水音に、ヒノエと敦盛は砂を漁っていた手を止め二人そろって振り向いた。
「なんだ?」
ヒノエの言葉に敦盛は首をひねる。
何か大きなものが水面に落ちたような、そんな音だった。こんな浅瀬では鯨が現れるはずもないし、船が転覆した音とも違う。近くに断崖はないから、そこから何かが落ちてきたというわけでもない。
首を傾げながら二人そろって音がした方へ顔を向けていると、僅かだったが波間に人影のようなものを捉えた。
驚いた二人は顔を見合わせて人影に向かって駆け出した。
バシャバシャと水をはねかせて海の中へ入っていく。着物が濡れてしまうだとか、そういったことは今は二人の頭にはない。水間に浮かぶ人物は、二人の小さな体が胸まで水に使ってしまうほどの深さの辺りにうらゆらと揺れて漂っていた。
近くに寄ってみると、それは不思議な着物を着た女性だった。敦盛とヒノエよりは大分年上だが、女性というよりは少女という形容の方が当てはまるかもしれない。
あまりに見慣れぬ衣装にまじまじと眺めてしまったヒノエの袖を引き、敦盛が遠慮がちに声をかける。
「ヒノエ、引き上げなくて良いのか?」
「あ、ああ。じゃあ俺が頭のほうを持っていくから、お前は足のほうを持ってくれ」
「わかった」
水の中だったのは幸いだったのかもしれない。大の大人一人、子供の二人が抱えるには無理がある。けれど水中であればその負荷は激減する。波打ち際まで運んでしまえば、後は大人を呼んでくれば何とかしてくれるだろう。
岸までたどり着いた二人は上がった息を整えながら、改めてその人物の顔を覗き込んだ。
短く切られた黒い髪が血の気を失った白い頬に張り付いている。唇は色を失い青ざめていたが、胸は上下しているから死んでいるわけではなさそうだ。そのことに二人はほっと安堵の息を吐き出す。
「敦盛はここでこの人を見ててくれよ。俺、邸まで戻ってあいつ呼んでくるから」
「わかった」
駆け出していった幼馴染の背を見送って、敦盛は再び気絶しているその人に視線を落とした。
それからどれくらい時が過ぎたのだろう。
ヒノエに呼ばれてやってきたのは色素の薄い髪を持った青年だった。彼の名は弁慶という。ヒノエのおじに当たる人物であるが、その年はまだ二十歳かそこらだ。
横たわる人物を見て軽く目を見張ると、表情を引き締めた。砂浜だということを気にせず膝を突く。
「……ああ、大丈夫です。ただ気絶しているだけのようですから。邸へ運びましょう」
「この人は大丈夫なのですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。安心してください。さ、敦盛君もそんな格好じゃ風邪を引きますから。行きましょう」
軽々と少女の体を抱えあげ歩き出した弁慶の後に敦盛とヒノエは続いた。
体が重い。
手足が鉛のようだ。あちこち鈍く痛むような、変な感覚。
さっきまで一体何をしていたんだったか。
そこまで考えて、はっと思い出した。
確か崖から落ちたんだ。海へ向かってそりゃもう見事なくらい一直線に。
さぁっと血の気が引く。
私は…死んだのだろうか。いや、でもそれならこんなに思考がはっきりとしているはずはない。
体中の神経を総動員させて、今自分が置かれている状況を探った。
手足はちゃんと動く。大丈夫。どうやら海の中ではないらしい……どこか、柔らかいものの上に寝かされているような気がする。これは、布団?
目は開けられるだろうか。よし、試してみよう。
そうしてゆっくりと瞼を持ち上げた。
「ああ、気がつきましたか」
「……」
やっぱり天国だったのかもしれない。お父さん、お母さん。親不孝な娘でごめんなさい。天使さまをみてしまいました。やたら美形で和風な天使さまでした。私はこれからこ天使さまについていかなければならないようです。
「おや、まだ意識がはっきりとしていないようですね」
熱はないのですが。
そういいながら天使さま(多分)が私の額に手を置く。
ん? あったかい。
ってことは、人間か。よかった天国じゃないみたいだ。…当たり前か。
「あ、の……」
声を出そうと思ったのに、自分でも驚くほど掠れた変な声しかでなかった。
なんだろう。喉がからからに渇いている。
口を動かしたら頬に引き攣れたような痛みが走った。
「ああ、無理にしゃべらないほうがいいですよ。顔に少し傷があるんです」
「誰?」
開口一番にそれはないだろうと言われそうだが、今はなによりそれが気になった。
かすれた声でそれだけをたずねると、彼はにっこりと微笑んだ。
「僕は薬師ですよ」
「くすし……あの、すいません。水を、いただけますか?」
声を絞り出すようにそう言うと、はいと言って湯飲みが差し出された。
体を起こそうとする私に手を貸して起き上がらせてくれる。
なんとか起き上がるとゆっくりと水を口に含んだ。喉の渇きが潤されて落ち着く。相変わらず頬は軽い痛みを訴えていたが、気にするほどのものでもない。
ほっと息をついて「ありがとう」というと「いいえ」と彼は首を振った。
ぐるりと室内を見渡してみる。やたら古めかしい調度品が並ぶここは、一体どこなのだろう。
どうやら状況把握をしなければならないようだ。
「あの、ここはどこですか?」
「ここは僕の兄の邸です。覚えてませんか? あなたは気を失って海で漂っていたんですよ」
「はぁ…そうなんですか? 覚えてるといえば覚えてるんですけど……崖っぷちから転落して海にどぼん、なとこまではなんとか記憶があるんですよ。つまり、あれえすか。あなたが助けてくれたんですか?」
「いえ、あなたを助けたのは僕じゃなくて―――」
彼が言葉を続けようとした瞬間、スパンと小気味よい音がして襖が全開した。
思わずそちらに顔を向けると襖の向こうに立っていたのは十歳になるか、ならないか程の少年が二人。燃えるように赤い髪の少年は活発そうな印象を与え、その後ろに隠れるようにしている紫色の髪の少年は大人しそうな印象を受けた。二人ともずいぶんと可愛らしい顔立ちをしていて、少女でも通るんじゃないだろうかと一瞬そんなことを考えた。
「弁慶! その人目が覚めたんだな!」
「ヒノエ、襖はもう少し静かに開けてくださいね」
はぁと溜息をつきながらの彼の言葉に、赤い髪の少年は構わず部屋の中に入り込んできた。私が座る布団の真横までぱたぱた歩いてくると真横にすとんと座る。じっと見つめてくる瞳は深い真紅色をしていた。
入り口で入ろうかどうしようかといった風で逡巡している少年に手招きで中へ入るよう促す。おずおずと彼は足を踏み入れて、赤い髪の少年の隣にちょこんと座った。
「この子達があなたを助けてくれたんですよ」
「あ、そうなんですか? えーと、名前を聞いてもいいかな。私はっていうんだけど……」
「俺はヒノエ」
「私は平敦盛……です」
「ヒノエ君に敦盛君ね。じゃあ改めて、助けてくれてありがとう」
しかしヒノエ君とはまた変わった名前だな。
それに隣の子。平敦盛ってどっかで聞いたことあるような名前…。
「そういえば僕もまだ名乗っていませんでしたね」
穏やかにそういわれ、はっと気がついた。
「あ、そういえば……え、となんと仰るんです?」
「僕の名前は武蔵坊弁慶です」
「武蔵坊弁慶さんですね……え……べっ!!?」
言い返してみて、思わず頭を抱え込みたくなった。
……なんですと?
む さ し ぼ う べ ん け い で す と ?
いやだってちょっとあんたその顔で!? あまりにもイメージ違…って、そうじゃなくて!
武蔵坊弁慶っていやあ、かの有名な源義経の家来。歴史に詳しくない私だって、それくらいは知ってる。 ついでに現代人にそんな名前の人がいるはずがないってことも。
なんとなく、なんとなくだが。嫌な予感がしてきた。
「なんていうか…うわぁ?」
言いながら見上げてくる少年二人のうち、一人をちらりと見た。
思い出した。平敦盛って、あのまたもや有名な平清盛の甥っ子だ。無官の太夫平敦盛。
もしこれが夢オチとか、ドッキリじゃない場合私は。
もしかしてもしかすると。
タイムスリップなるものをしてしまったのだろうか……!
周りにカメラらしいものがないことを確認して、三人の顔をそれぞれ見渡すとがくっとうなだれた。
「参ったね…こりゃ」
お父さん、お母さん。大変です。事件です。
娘はどうやら無事生き延びたようですが。しばらく家に帰れそうにありません。
だって私、鎌倉時代へタイムスリップしてしまったみたいなんですもの……!
でも……そうは思うものの、不確定要素が多すぎるな。
「あの、どうかしましたか?」
一人で百面相やってたら弁慶さんが私を覗き込んで心配そうに聞いてきた。
「えーと。なんといいますか。ちょっとややこしい話というか、大分胡散臭い話というか…信じてもらえるかどうかわからないんですけど、私が今置かれているらしい状況の説明、聞いてくれます?」
そう前置きをして、長いんだか長くないんだか。ややこしいんだかはっきりしてるんだか解らない自分の置かれている状況を三人に話した。
ヒノエと敦盛にいたってはまだ小さいからだろう。私が口にすること全てを理解できてはいないようだったけど、弁慶は難しい顔をしてそうですかと頷いていた。
「あー信じられませんよねぇ? 普通に考えたらものすっごい胡散臭いですし、私おもいっきり不審者ですもんね?」
あーさて今日の宿はどうしよう。なんて現実逃避気味に考える。
うふふ、と怪しげな笑いを浮かべて視線をさ迷わせていた私の耳に、思いもかけない一言が飛び込んできた。
「信じますよ」
「は?」
ちょっともう一度言ってくださいます?
まじまじと弁慶の顔を眺めていると彼はにっこりと微笑んだ。
「あなたが着ていたものをみれば…少なくともこことは違うどこかから来たらしいだろうことはなんとなくですが予想がついていました。未来からきた、ということにはさすがに驚きましたがどうやら嘘を言っているようではなさそうですからね」
「本当に……信じてくれるんですか?」
「はい」
「ありがとう! 弁慶さん!」
ああ、なんていい人!
私は思わず弁慶さんの手をしっかりと握り締めてしまった。
「さんは行くあてがないのでしょう? ならさんがここにいられるよう、兄には僕から頼んでおきましょう。まああの人のことです。理由を話せば無下にはしないでしょうから」
「俺からも親父に頼んでやるよ!」
「わ、私からもお願いしてみる」
「なんていうか…非常にありがたいんですけど、本当にいいんですか? そこまでしてもらって。だって私思いっきり不審者ですよ? 自分でそう思うくらいですし」
「いいんですよ。あなたはそんなことを気にしなくても」
「はぁ…ありがとうございます」
なんだかとてつもなく申し訳ない。とはいえ、このまま放り出されたらそれこそいくあてはなくて困りもんなんだけど。とにかく、まあ多分確定なんだろうけどここが違う時代なのかどうか。それだけでもしっかり確かめておきたかった。
「あの申し訳ついでに少し外に出てもいいですか?」
私の申し出に、三人は揃って首を縦に振った。
やたらと広い邸らしい。
寝かされていた部屋から外に出るまでに随分と時間がかかった。右に左に何度も曲がり、幾つもの部屋の前を通り過ぎてようやく見えてきた邸の入り口。そこから履き物をひっかけて外に出ると見たこともないような立派な庭園が広がっていた。
思わずぽかんと口を開けて間抜け面をさらす私に、後ろで忍び笑いを零していたのは弁慶で。私の両脇には何時の間にか懐かれたらしい二人の子供がしっかりと陣取っていた。
歩いてる最中に気付いたんだけど、私の服は何時の間にか浅葱色の小袖になっていた。不思議に想って訊ねると、元々着ていた服は海に落ちた時びしょびしょになってしまっていた為に着替えさせてくれたらしい。もちろん、弁慶がやったわけではなく、女房さんが着替えさせてくれたのだと言うことだった。
外に出た私はぐるりと周囲を見渡して、空を仰いでみた。遠くを眺めてみても、いつもなら気にも止めない、けれど絶対に目に付くものが存在しない。電柱だ。世界中何処にでも張り巡らされているそれは、今や無くてはならない必要不可欠なもの。それがここには存在しなかった。
固まりかけた顔の筋肉を何とか動かし、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「やっぱり……私が居た時代じゃないみたいですね。あ、あは」
なんだろう。すごい不安になってきた。
お世話になる場所はなんとかなるとしても。この時代の事、私は何も知らない。
大体鎌倉時代あたりだということしかわからないし、その頃の生活用式なんて見当もつかなかった。こんなことならもっと真面目に歴史の勉強しとくんだったと今更悔やんでも、後悔先に立たず。だって誰が一体予想できるよ? 自分が過去へタイムスリップしちゃうなんてさ。
心中の不安が顔に出ていたのか、私の左手を握っていた敦盛がくりっとした大きな瞳で私を見あげていた。
「大丈夫ですか?」
「え、ああ。うん。大丈夫。心配してくれたんだ? ありがとう」
そういって笑いかけると、敦盛は一瞬きょとんとして、それからにこっと笑った。
……何この子! ちょー可愛い!!
その笑顔はちょっと鼻血もんですよ!
幼い笑顔にノックアウトされ、ついでに脇道にそれかけた思考を訂正しつつ。敦盛とヒノエの手を握ったまま、邸に戻った。
最初に居た部屋に戻り、三人と向き合うようにして座る。
一応礼儀だから。挨拶はきちんとしておかないといけない。
「改めまして。しばらくご厄介になります。宜しくお願いしますね」
「はい。こちらこそ。あとで兄さんにも声をかけておきましょう。一応挨拶して置いた方が気が楽でしょうから」
「何から何までありがとうございます」
ああもう本当にいい人だ。
弁慶の笑顔を見て、見あげてくる幼い子供たちの顔を見て。飛ばされたのがこの場所でよかったと心からそう思った。
こうして。
わけが解らないまま現代から鎌倉時代(推定)へタイムスリップをしてしまった私は彼らの口ぞえの元、ヒノエの家でお世話になることになったのだった。