ちりん……。
軽やかな鈴の音と共に現れたは悪戯を思いついた子供のような笑みを見せ、階に腰を下ろす敦盛に言った。
「敦盛様、今お暇ですか?」
「? ああ……」
特別用事もなかった敦盛はそう返事をかえす。はうれしそうに笑うと、じゃあ少しだけ付き合って下さいと敦盛の腕を引いた。
平家の邸から少し離れた場所を二つの人影がゆっくりと歩いていた。
そろそろ天照大神が姿を隠す刻限である。あたりの景色は沈み行く太陽に、赤く染め上げられていた。
「どこへ行くのだ、殿」
「ふふ、秘密です。もう少しでつきますから」
少しだけ前を歩いていたが敦盛の声に振り返り目を細める。
が軽やかに一歩踏み出すたび、衣に縫い付けられた鈴がちりんちりんと音を立てる。
風に吹かれ、さやさやと鳴る木々の梢の中に鈴の音が混じり不思議な音色があたりに響いていた。
巫女装束のと、貴族階級では平常の装いである狩衣姿の敦盛。一見奇異な組み合わせのようではあるが、どこか打ち解け仲の良さそうな様子から二人は兄弟のようにも見受けられる。
事実血のつながりはあったのだけれど、初めからすべてを承知で平家に来たと違い敦盛はこの時何も知らされてはいなかった。
それを知るのはもう少し、先の話になる。
「あ、もうすぐですわ。こっちです」
繋いだままの敦盛の手を引き、は川辺の方へと歩を進めた。
やがて二人の耳に、静かな流水の音が聞こえてくる。それと同時に水の匂いが鼻に届いた。
「川があるのか?」
「はい。つい先日見つけたんですよ。とても小さな、小川のようなものですけど…」
そういいながらもはうれしそうだ。そういえばはよく邸から姿を消す。
平家の姫などは一人で邸から出ることなど滅多に、というかほぼ皆無に等しいがもともとの生まれが違うはあまりそういったことに頓着しないようだった。
おっとりとしていて穏やかな人柄のだが、縛られることはあまり好きではないようだった。
だから敦盛の父である経盛に引き取られてからも、度々一人で出かけることは多かった。経盛もそれを承認しているのか、知って尚特別何かを言ってくることはなかったけれど。
「前に来た時も夕暮れ時で…。偶然見つけたんです。とても綺麗で…」
の言葉に耳を傾けながら歩を進めていた敦盛は、次第に水音が近くなるのを感じていた。
草を踏み分け一度木々に視界をさえぎられる。それを抜けた先に、ささやかだが確かに川と呼べるものが存在した。
底まではっきりと見て取れるほど淀みなく透き通った水。時折小さな魚が泳ぎ、ぱしゃんと水がはねた。
ゆるく流れる水面が朱色で染め上げられている。一日の終わりの時をゆっくりと感じることが出来そうな景色に、ああ確かに綺麗だと、敦盛は小さく口にした。
横に立ったがでしょう? と少し得意げに顔をほころばせる。くんと敦盛の手を引いて、川岸に連れて行った。
適当な石に二人並んで腰を下ろして水面を眺める。
耳に届くのは梢の音と、水の音。時折混ざる鈴の音…。
静かな空間を好む二人に、それはとても心地よい時間であった。
「昔…」
ぽつりとが言葉を漏らす。
あまりにも小さすぎて聞き取れなかった敦盛は一瞬空耳かと思ったが、隣で聞こえた衣擦れの音に目を向けると、が視線を落として唇を動かしていた。
「もうずっと昔の事です。私の中にも、曖昧な…おぼろげな記憶としてしか残ってないんですけど、一度だけ父上に川に連れてきてもらったことがあるのです」
それは十年以上も前。がまだ、五つにも満たないほどに幼い童子であった頃。それゆえ記憶は曖昧で、交わした会話もはっきりと覚えてはいない。
ただ父親と約束を交わした。たった一つだけ。
いつか迎えにくる。必ず。
父である男はそういった。
と母を、いつか必ず迎えに来ると。彼はそういっていたけれど、約束は果たされ、しかし果たされなかった。
「約束をしました。それはとても儚くて、脆いもの…。父上はとうに、忘れているのだろうと思っていましたが…」
「覚えておられたのか?」
「そうですね…。覚えていたのでしょう」
曖昧なの答えに敦盛は首を傾げた。
約束を覚えていた。だから父は……経盛はを迎えに、引き取りに来たのだ。多分はじめから、母子を迎え入れることは困難だったのだろう。母がなくなり、その直後を迎えに来たことがいい証拠だ。
恨みつらみを述べるつもりはない。出来ることならもう一度。親子三人、そろうときを夢見ていたけれど。
地面に視線を落としたの横顔は少しだけ、寂しそうだった。
じっと見つける敦盛の視線に気づいたのか、顔を上げたがにこっと笑う。
「変な話をしましたね。お忘れくださいな」
敦盛は逡巡した後、うなずいた。
「ありがとうございます」
目を伏せて礼を述べたはおもむろに立ち上がった。
先ほどまで夕暮れ時で、赤かった世界はすっかり闇に染まりかけている。ああ、そういえばとは座ったままの敦盛を見た。
「蛍も見られるんですよ」
「蛍?」
「はい。以前見かけました。初めて目にしたのですけど、綺麗なものですね」
嬉しそうに笑う。何気なく口にした言葉なのだろう。
しかし敦盛はなんと答えるべきか、己の中で判断つきかねていた。
蛍が見られるのは完全に夜の帳が下りてから。つまり、まったく明かりが差さない刻限になってからということになる。
はその頃まで一人でふらりと歩き回っていたのだろうか。
……危ない。
けっして安全平和な世の中ではないのだ。武術の心得のない女人の一人歩きは危険すぎる。少しは自重してもらわねばならないかと、敦盛はこっそりため息を漏らした。
「どうかなさいました?」
「殿はそのような刻限まで一人で出歩いているのか?」
「ええ…たまに」
「殿……。差し出がましいようだが、そのような刻限に一人歩きをするのはあまり関心できない。危ないし、何かあったら……」
一度言葉をとめ、から目をそらした。
「父上も経正兄上も悲しむ。……私も」
虚を衝かれたように目を丸くしたはやがて頬を染め、嬉しそうに笑った。
くすぐった気持ちだが、心配されたことが純粋に嬉しい。
いさめられたはずなのに、気分は沈むどころか浮上した。
「はい」
りん、と音を立てて身を翻す。
来たときのように敦盛の手を引いて、と敦盛の二人は帰路についた。