紅・散華

 失いたくなかった、大切なもの。
 失われてしまった、大切なもの。
 それはどちらも、同じもの。


***


 雪のちらつき始めた霜月の初めだった。
 突然届いた訃報に、はただ言葉を失いこみ上げてくる震えを押さえ込んで、使者を見つめていた。
 庭には薄っすらと雪がつもり始めている。
 吐く息が白く凍るほど空気が冷えていて。今しがた届いた報せで、の心もこの冷え切った空気と同じくらい、冷たく凍えていた。
「……真ですか、それは」
「はい」
「……亡骸は、何処に?」
「北対屋の方に」
「そう、ですか。わかりました」
 使者が立ち去った後、はその場にへたり込んだ。途端全身を激しい震えが襲う。それは決して、寒さのせいではない。
「嘘、でしょう……」
 じんと目の奥が熱くなったと感じた刹那、視界はボヤけて景色はかすんだ。
 手の甲で目元を拭って、振るえる足を叱咤して立ち上がる。
 目指したのは告げられた北対屋。
 信じたくなかった。
 敦盛が死んだ、などと。



 向かった先には望んでいなかった光景が広がり、敦盛は既に冷たい骸と化して褥に横たわっていた。生気のない青白い頬に、ただ言葉を失う。
「……っ、敦盛様」
 物言わぬ敦盛に止めどなく涙は溢れての頬を滑り落ちた。駆けより膝を突いて、両手で口元を覆ったの耳に届いたのは、経盛のとんでもない言葉だった。
「死反の術を行う」
 涙も止まるほど驚き、目を見開いては経盛を凝視した。
 死反。それは即ち、使者を現世に呼び戻す、黄泉返りをさせる儀式のことだ。
 はきつく眉を潜めた。
「正気、ですか……」
 悲しみに染まっていた瞳は怒りを宿し、射抜くように鋭い眼光で経盛を見る。
「この父より先に逝くなど許しはせぬ」
「……思いとどまってくださいませ。経盛様。真に敦盛様のことを思うなら、このまま……死反の術など、死者を冒涜する行いです!」
「そなたも巫女ならば力を貸すがよい。貸さぬというならば今すぐこの部屋を出てゆけ」
「何を……何をおっしゃいますか、父上!」
「……
「敦盛様は……いえ、敦盛はこのにとっても大切な弟です。ならば私はわが身を挺しても止めましょう。どうか、それだけはおやめください。どうかこのまま……眠らせて上げて下さい」
 涙ながら懇願するの言葉は、しかし息子を失い悲しみに暮れる父の耳には届かなかった。
「……ならぬ」
「父上!」
 の叫びは届かぬまま。経盛は人を呼ぶとを牢に入れると命じた。愕然とし、どうすることも出来ないまま、三種の神器の一つである八尺瓊勾玉を取り上げられ、は牢に閉じ込められた。
 薄暗い牢の中、僅かにともった蝋燭の火のみが唯一の灯りとして揺らぐ。暖を取れるものなど何もなくて、巫女の装束のみでは体の体温は急激に奪われた。
 けれど今は寒さよりも、痛み。悲しみのほうが強かった。
「どうして……」
 嗚咽交じりに小さく呟くの声は誰にも届かない。
「どうして………」
 これは罰だろうか。弟と知りながら、わずかばかりとかいえ想いを寄せた自分への。
 は膝を抱え込み、ただ時が過ぎるのを待った。

 日も差さぬこの場所ではどれほど時間が過ぎたのか全く分からない。
 感覚が麻痺してしまたかのよう。長いようにも感じたし、意外と短かったのかもしれない。
 灯してあった蝋が全て溶けて火が消えてしまったことから、それなりの時が過ぎたのだろうと推測するばかりだ。
 は響く足音で伏せていた顔を上げた。赤く腫れた目。すっかり憔悴しきって、涙の後が頬に痛々しく残っている。
「誰ですか」
殿」
「……経正様」
 敦盛の兄である彼の現れに、は声を詰まらせた。彼の持ってきた報せはきっと、の望んではいないものだ。
 聞きたくない。けれど聞かなくはいけない気がして、は自分から経正に訊ねた。
「儀式は……どうなりましたか。敦盛様は……」
 経正はから視線を逸らし、懐から何かを取り出す。
 手渡されたのは取り上げられていた八尺瓊の勾玉だった。
「これを父上から、あなたに返すよう頼まれました。それと、殿は嬉しくないでしょうけれど、儀式は成功しましたよ。敦盛は、蘇えりました」
「――――ッ」
 受けとった勾玉を手に、顔を伏せてはきつく目を閉じた。
 ぱたぱたと音を立てて弾けるは涙。嗚咽の合間に、漏らされたものはかつて交わした約束を違えてしまったことに対する謝罪の言葉。
「ごめんなさい……っ」
 牢の中ではただ涙を零し、謝りつづけた。

 牢を出ると辺りは日が落ちて暗くなっていた。
 何もいわぬまま、は歩きなれた邸を歩く。目指すのは敦盛の部屋。
 縁側から中を覗くと数刻前と同じように敦盛は褥に横になっていた。けれど数刻前と明らかに違うのは、呼吸に合わせて上下する胸と、赤みの差した頬。生きている証拠ともいえるべきもの。
 は敦盛の傍らにつくと膝を尽き、くしゃりと顔を歪ませた。ごめんなさいとただ一言だけ告げて、すぐに立ち去ったを経正は追う。
殿」
 呼びかけられたは背を向けたまま返事をして、少しだけ経正に体を向けた。
「……はい」
「父上に聞きました。殿は私たちの姉妹であると。何故黙っておられたのですか?」
「いずれ、お話しするつもりでした」
 初めて出会った春の日から季節は移ろい、雪のちらつく冬の日に至るまで数ヶ月。その間幾度となく機会はあったけれど、が彼らの異母姉妹であることを告げなかったのは、自身迷いがあったからだ。
 彼らの父親が、外で子を作った事実を。敦盛や経正はどのように受け止めるのか。そしてそれを告げても尚、彼らは今までと同じように自分に接してくれるのか。不安もあった。
 それともう一つは、抱いてしまった自分の心に対して踏ん切りがついていなかったから。
 いつか。そう、いつかは。
 そう考えて、先延ばしにしていた。
「あなたは敦盛の事を……」
「その先はどうかおっしゃられませんよう……。経正様は全てお見通しなのですね」
 あるいは本人達でないからこそ、見えるものもあったのかもしれない。
「……申しわけありません。もう宜しいですか。少し疲れました」
 会釈して、は袴の裾を翻し経正の元を立ち去った。
 鈴の音が次第に遠く。消えていく……。



 死反の儀から数日がたったある日。敦盛の姿は忽然と部屋から消えた。
 何も知らされていなかったは戸惑い、近くを通りかかった侍従を捕まえて敦盛はどうしたのかと問い掛ける。返された答えは予想だにしていないものだった。

「敦盛様!?」
 慌てて駆けつけたのは先日が閉じ込められた牢だった。
 薄暗いその中に、敦盛はいた。
 首と、手首を大きな鎖で戒められたその姿は罪人のようで、には何故彼がこのような仕打ちを受けなければならないのか理解できなかった。
 けれど敦盛は全てを受け入れているように常と変わらず。ただ静かな表情で牢の中にいる。駆けつけたを見ると、僅かに笑みを見せた。
殿」
「どうして……何故、あなたがこんな……」
 ちりん、ちりんと小刻みな鈴の音とともに敦盛にかけより、牢の格子にかけられていた彼の手に触れようとした瞬間。

 パシンッ

 二人の手の間で何かが弾けた。
「―――ッ?」
 軽い痛みに顔を顰める。は弾かれた自分手をまじまじと見つめ、それから全てを悟ったように眉根を寄せた。
「なんという……」
 悲痛な色を含んだ声は震えていて、敦盛を見る瞳には涙が盛り上がって、零れ落ちた。
殿?」
 気遣うようにかけられた声に、はただ俯いて首を振る。
 触れられなかったその理由はとても簡単なことだ。
 それは戒められた鎖の理由でもある。敦盛は人としてではなく、怨霊として蘇えってしまった。そして巫女であるは……神に仕え、聖なる身であるには穢れた存在となってしまった敦盛に触れることが出来ない。許されないのだ。
 二人の間で弾けたものは、越える事が出来ない境界線。
「敦盛様……」
 ぽろぽろとは涙をこぼした。いつも朗らかに、柔らかに。笑っていたの涙を始めてみた敦盛は、戸惑い困惑した。
 零れる涙を拭ってあげたくても、に触れることは出来ないようで。
 例え触れることができたとしてもそれはにとって苦痛にしかならない。
殿。あなたが泣く事ではない。私の為にそれほど泣かなくていい……」
 格子に手をかけたまま、はさらに顔を歪ませて涙を零す。
 唇を噛み締めたまま、深く俯いた。
 優しすぎる。この少年は。怨霊となってしまっても尚、生前となんら変わらないのに。
 怨霊となってしまった敦盛は、いつかその性は確実に現れ彼を苦しめる事だろう。それが痛ましくてならない。
 全ては予期していたことだった。どれほど拒んでもやがてやってくる。
 その日は。それからそう遠くない日に、訪れるだろうことも。
 分かっていたことだった……。



殿!!!」
 慌てたような侍従の声に、祭壇を設えていたは振り向いた。
「どうしたのです?」
 ただ事ではないらしい彼の慌てように、は落ち着くよういいきかせる。
 呼吸を整え、少し落ち着いたらしい侍従の続けた言葉に、は瞠目し駆け出した。
 鈴が鳴る。同じようにの鼓動も早鐘のようになる。過ぎるのは、最悪な結末。どうかそれだけは、阻止できるよう。胸元の勾玉を握りしめて、祈るように牢へ向かった。
「敦盛様っ」
 叫びとともに駆け込んだ牢の中には苦しむ敦盛の姿があった。
 瞳の色が赤い。鎖だけでは戒める事が叶わず、獣としての本性が現れようとしているのだ。
 徐々に姿を変えていく敦盛の体。華奢な少年のものから怨霊としての、本性へと。爪が伸び、頭髪からは鋭い角が伸びる。
、どの……来るな――――ッ」
 理性を失いつつある中、悲鳴のような敦盛の叫びが牢の中に木霊した。


 その後の事はよく覚えていない。
 ただ柔らかな肉を引き裂く感触と、甲高い悲鳴。
 何かが割れる音と、鈴の音と。
 様々なものが混ざり合い、きつい鉄の匂いが漂う中意識を取り戻した。

「あ、ね・・・・・・うえ……―――」

 人の姿をしていたときには触れることが出来なかったのに。獣の姿ではいとも簡単に引き裂いた。の細い体。
 真白い小袖が赤く染まって、頼りない体が血溜まりの中に倒れている。
 咳き込むと喉の置くから血が溢れてきて、口の端から滴り落ちた。
 痛みはなく。ただとても寒い。
「泣か、ないでくださいな。敦盛様……敦盛」
 は懇親の力を振り絞って、敦盛の手を取った。
 割れてしまった勾玉の欠片を彼の手に握りこませる。
「もっと早く……渡す、べきだった……決して、これを……お放しなさいますな……いつ、何時も」
殿……姉上、私は……」
「敦盛様、あなたは、優しい……人だから」
 きっと覚えていると悲しみを引きずってしまう。心を痛めてしまうだろうから。
「全てを、忘れて……」
 は鈴を鳴らした。神楽鈴ではない。それはただ衣に縫い付けられていただけの小さな鈴の音。呪いと祈りを込めて。
 手を伸ばす。敦盛の頬に触れて、そっと笑った。
 死は一つの穢れ。黒不浄。
 最後に、触れられた温もりには喜びを覚え、静かに目を閉じた。
 それきり、瞼が開かれることはなく。
「あ、ね・・・・・・う…え……」
 光を失い閉じられる敦盛の瞳。崩れ落ちた体はと折り重なるように、倒れた。

 は。怨霊となった敦盛が最初に殺めてしまった人だった。
 怨霊と化した敦盛は、を追ってきた侍従を殺めようとした。それを阻止せんとしたは自ら、敦盛の手にかかったのだ。
 大切だったのに、この手でその命を奪ってしまった。
 だから失うのはもうこれきりでいいと。薄れゆく意識の中、誓った。
 二度と大切な人を傷つけたくない。失いたくない。そう思っていたのに。
 その誓いすら、敦盛は失われた記憶とともに無くしてしまっていた。


***


「敦盛さん?」
 逆鱗にかけられた清盛の最後の呪詛に渦巻く強い穢れ。吹き荒れる風の中、敦盛は地に落ちていた勾玉を拾い上げぎゅっと握り締めた。
 穢れの中心にある逆鱗を砕けば、全ては終わる。
 人の身であればあの穢れの中に入っていくのは困難であろうが、怨霊の身である敦盛には苦痛ではない。
 敦盛は不安そうに見上げる望美にふっと笑いかけた。
「私が行こう」
「でも敦盛さん!」
 望美の叫びが風に掻き消される。敦盛はゆっくりと渦巻く穢れの中へと身を投じた。
 やがて逆鱗は砕かれ風はおさまる。
 清盛が消え、逆鱗が砕かれ。怨霊は浄化された。
 全ての戦いが終わった時、敦盛の姿はそこになかった。


***


 暗い闇の中にいた。
 導いてくれたのは、懐かしさを感じる仄かな光と鈴の音。

 遠いようで、遠くない。懐かしい、記憶の中。
 思い出すのはの笑顔。
『敦盛様』
 光が導よう闇の中を漂って。
 光を眺めて、敦盛は顔を伏せた。頬を暖かい何かが伝う。
 胸を塞ぐ想いがある。告げることが出来なかった、気付くことも出来なかった、に対する想い。
 好きだった。
 姉であると知る以前から。知らされても尚、その気持ちは薄れることなく。ただ一人の人として、が好きだった。
 けれど今、一番伝えたいのはその言葉ではない。別の言葉。
殿……姉上、ありがとう」
 答えるように、光が一度瞬いた。


 ―――敦盛、どうか……幸せに……。


 闇を抜け出した敦盛は、今誰よりもいとおしい人と再会を果たす。
 抱き締めあう彼らを見守る一つの光は、夕陽の中に淡く消えていった。
(完)