紅・散華

 が邸に訪れて、一月ほどが過ぎた。
 は敦盛や経正とは歳もそれほど離れていない為か、初めこそそれなりの距離をおいていたものの、今ではとても仲がよい。敦盛から見ればは姉のようで、経正からみれば妹のような感覚だろうか。時折、敦盛の笛と経正が琵琶を合わせ、それを傍らで聞くの姿が邸の片隅で見られた。
 また時には、彼らの楽の音に合わせ、が巫女舞をする姿も見られることがあった。
 季節を終え、散る花吹雪の下。巫女装束と神楽鈴を片手に、しゃんしゃんと舞う姿は美しく神聖で、近寄りがたくも尊い何かを感じさせた。
 毅然として、舞をするはいつも舞を終えると少し恥ずかしそうに微笑む。頬を紅潮させて、けれどどこか嬉しそうに。
 それは幼子のような笑顔で、敦盛はとても好きだった。
 仲睦ましい彼らの様子に、邸に仕える人々は顔をほころばせて見守っていた。



 日が落ちて、夜の帳が下りた頃。
 天照も眠りについたその刻限。僅かな灯りに揺らめく邸の一室で漏れ聞こえる会話があった。偶然通りかかった敦盛は聞こえてくる声に足を止める。
 聞き覚えのある、これは経盛との声だ。
 極最小限まで声を潜めているのか。ほとんど言葉として聞き取る事はできない。とはいうものの、盗み聞きするつもりも毛頭なかったので、少し気になったものの敦盛はすぐにその場を立ち去った。
 彼が去った後、部屋の中で交わされていた言葉はこんなものだった。
「実に惜しいものだ。そなたが―――でなければ、どちらかの妻にと望んだだろうに」
「もったいないお言葉です。経盛様は私を買い被りすぎですわ。私はただの巫女に過ぎません。たとえあの事実がなかったとしても、お二人とはつりあうはずもございません」
「そなたには申しわけないことをしたな」
「いいえ。私がそう……望んだのですから……」
 深く頭を下げて首を振るの表情は穏やかなものだったが、伏せられた瞳には少しだけ悲しみを帯びていた。
 経盛はの傍らに膝をつき、彼女の肩に手を置く。
「二人には折り合いを見て話すつもりでいる」
 袂の中の手に力を込め、は静かに頷いた。唇を引き結んだ表情は、先程より少しだけ硬い。
 無意識に胸元の赤い飾りを握り締めた。
 引き取ってもらっただけで満足だ。自分は決して、それ以上の事を望んではいけない。
 戒めのように自身に言い聞かせるその言葉は重く、生まれ始めたばかりの想いには辛いものだった。

「おはようございます。敦盛様。今日も良いお天気でございますね」
 鈴の音ともに庭先からひょっこり顔を出したは敦盛の姿を見て涼やかに笑った。
 初めてあった時のように敦盛が驚く事はない。鈴の音でが来る事は分かっていた。
 ちりん、という音が聞こえたならばそれはが姿を現す前触れなのだ。以前それをに話したら、じゃあ突然現れて驚かす事は出来ないのですねと心底残念がっていた。
 袖を翻して敦盛の前に立つは、まだ育ち盛りで伸びきっていない敦盛と比べても随分と小柄だ。膝裏まである長い髪が尾のように揺れていた。
殿はそのようなところで一体何をしていたのだ?」
「あ、私ですか? 私は少し巫女舞の練習を。宜しければお付き合いいただけます?」
「構わない」
「ありがとうございます」
 身を翻し、は木の下に立った。まだ僅かに残った桜が散る中、小袖から取り出した神楽鈴を片手に持って、背筋を伸ばし目を閉じる。
 心を落ち着かせ、意識を集中させる。全ての舞は神へ捧げるその為に。
 敦盛の笛の音が響き渡るのと同時に、は鈴を持った手をすっと伸ばし、手首だけを動かしてしゃんっと鈴を鳴らした。

 舞を終えたは閉じていた瞼を持ち上げる。
 敦盛と眼があうと、いつものように笑った。つられるように笑みを浮かべた敦盛は、ふとの胸元に揺れる赤いモノに視線を奪われ、まじまじとそれをみて初めて何なのか知った。
 赤い勾玉だった。紅玉だろうか。透けるように美しい色の。
 の動きに合わせてとん、とんと跳ねるように動く。光の加減で少しだけ色が変化して見えた。
「勾玉、だったのだな」
「? なんです?」
「ああ、いや……。殿が首から下げているその飾り。ずっと気になっていたんだ。けれど何かわからなくて……」
「そうだったのですか。仰ってくださればいつでも御見せしましたのに」
 歩きながらそれを手にとり、縁側に腰を下ろす敦盛に手渡した。
 ひやりとした感触が敦盛の手に伝わる。つるつるとした石の感触。
「これは幼き頃より母様に守るよう、命じられているものの一つです。だから肌身はなさず、ずっと身に付けているのです」
 綺麗でしょう? そういっては首を傾げた。
 ああ、綺麗だと返すとは嬉しそうに笑う。名を誉められたときと同じような、笑顔。
殿の母御はどうされたのだ?」
「母様は一年程前に亡くなりました。……そうですね、せっかくですから少しお話しさせていただいても宜しいですか?」
 頷いた敦盛の隣に腰をおろして、は勾玉を受け取った。
「私のこの装束からも想像できるかと思いますが、私の母様も巫女でした」
の母方の一族は古来より巫覡の血を受け継いでいて、代々三種の神器の管理を任されていた。神器の管理のみがその役目ではない。様々な祭事にも携わる。も母の血を受け継ぎ、役目を持つ身ではあるが跡目を任せ、今は平家に身を寄せていて、そのあたりの詳しい事情はまだ話せないけれどと語った。
「そうか。父上はいないのか?」
「……今はまだ、秘密ですわ。その辺りのこともいずれ、お分かりになると思いますよ?」
 父親の事を話せば必然的に、全ての事を話さなくてはならなくなる。だから今はまだ、秘密にしておきたかった。
 寂しそうに目を伏せたの横顔に敦盛は目がひきつけられる。
 胸をざわつかせる何かがあった。
 けれど生まれたばかりの思いに、敦盛はまだ気付いていなかった。

 いつも一緒にいた。どうしてかは分からない。理由なんてあまりなくて、ただ一緒にいると心地よかったから。
 笛を奏でて、それに合わせてが舞って、互いに笑いあう。
 何時の間にか、それが日常となって、当り前になっていた。
 だからなのか。
 敦盛はを、は敦盛を。
 互いに愛しみのこもった瞳で見ていることに、当人達は気付いていなかった。それに気付いたのは、第三者の立場で見ていた経正だけ。彼はそれに気付いても、あえて告げることはしなかったけれど。



 うだるように暑い夏の日だったと思う。
 と敦盛、経正は共に近くの河原へ夕涼みに出かけていた。
 暗く沈み行く天照の下、草の上に腰を降ろして他愛ない会話をしていて、どういった流れであったのか。巫女であるは死者を蘇えらせることもできるのかという話になった。
 はぱちくりと瞬きをして、少し困ったような顔をしていた。
「そうですね……私は陰陽師ではありませんから、直接そういった儀式に携わることは滅多にありませんけれど、知識としてはありますわ。稀に、魏に携わる事もありますが……」
「そのようなことが本当に可能なのですか?」
 経正の言葉に、は静かに頷いた。
 赤い勾玉が夕日を浴びて、血のように濃く染まる。
「可能であるから、その術が今日まで残り、尚且つ実際に行われているのです。それは忌むべき事だと私は思うのですけれど……」
「何故?」
「確かに自分にとって大切な方が亡くなってしまったらとても悲しくて辛いことでしょう。私も経験がないわけではありませんから、よくわかります。けれど、だからといって生者の都合で、黄泉路へ向かう死者の魂を呼び戻すなど、それは死者に対する冒涜でしかありません」
 天寿を全うし、死したならば。静かに眠らせてあげるべきなのだ。
 はそう続けた。
 そのまま二人を見て、にこりと笑う。
「安心して下さいませね。例えばお二人が私より早くに亡くなられたとして……その時は私が責任を持って魂送りの唄を歌って差し上げますから」
殿……」
「そんなに早く私たちを殺さないで下さい」
「冗談ですわ」
 袂で口元を覆ってくすくすと笑うにつられるように兄弟も笑った。
 夏の夕暮れ。赤く染まった景色の中で、何気なく交わした冗談のような約束事。本当にその時が訪れる日が来ようなどとは、このとき誰一人として思っていなくて……そして誰一人として。その約束が違えられる事になろうとは思っていなかった。
 あんなにも、早く……。


***


 強風の中に混ざる穢れの強さに望美は眉を潜める。
 彼女を守るようたった敦盛は、目の前に対峙する子供の姿を見つめた。それはかつて、自分の叔父であった人。
 敦盛の知らぬ叔父の姿に、彼は驚くこともなくただ悲しみを帯びた瞳で、優しい人だった叔父を見ていた。
「叔父上」
 昔の穏やかだった叔父の面影など少しも残っていない。あるのは源氏に対する恨みと憎しみ。それ故に蘇った怨霊の姿だけだった。
 手に握りしめるのは、記憶とともに思い出された大切なもの。手放さないと誓ったのに、一度は手放してしまった赤い……勾玉の欠片。
 三草山で望美に渡されたもの。何故彼女がこれをもっていたかは知らないが、敦盛にとって己を制する為に必要不可欠なものだった。
 これがなければ敦盛は本性を抑えきれず、血を求める獣の姿へと変化してしまう。
 それを知っている清盛は敦盛から勾玉の欠片を奪い取った。三種の神器の一つ。割れた八尺瓊の勾玉を。

 ドク…ン。

 敦盛の心臓が強くなった。
 全身を血が逆流するような感覚が走る。押さえられていた本性が現れ始める。
 体中が熱い。炎の中にいるように、全身が熱くて渇きが襲う。血を求める。
 変化し始めた敦盛の手が望美の喉元を掴み上げた。地に足が着かず、彼女の細い体が宙に浮く。
「あ、つもり……さん」
 苦しげな吐息の元吐き出された声は掠れていて、敦盛を見つめる瞳は涙で滲んでいた。

 ―――敦…盛……様―――

 もうひとつの声が敦盛を呼ぶ。耳に馴染む二つの声。

 ころん……。
 ―――ちりん。

 異なる音色を奏でる、二つの鈴の音。

「……ぁ」
 瞼の裏に蘇ったのは、いつも柔らかく笑うの姿と。彼女の見せた涙だった。
 自分はまた大切な人を失うのか。敦盛の心が悲鳴を上げる。体は言うことを聞かなくて、望美を掴み上げる手には更に力が加わる。
 望美の苦しそうなうめきに混じって、誰かの声が耳に届く。

 ―――大丈夫。大丈夫です。敦盛様。今の、あなたなら大丈夫……。

 失われ始めていた自我が取り戻される。
 喉を閉める手は徐々に力を失っていき、望美の足は地面に着いた。そのまま望美は地面にへたり込み咳き込んで、それでも敦盛を見上げて微笑む。
 その微笑みが、今しがた耳に届いた声の人のモノと重なった。
、殿……」
 今は亡き、その人と。