紅・散華

 散らぬ、散り行く赤い花。
 ゆらりゆらり水面に踊る。
 ちらりちらり風に舞い、
 はらりはらり儚く消えゆ……。



『どうか。どうか……決してこれをお放しなさいますな。いつ、何時も……』
 揺れる幻影、炎のように鮮やかなソレは。
 燃えるように熱く、熱を帯び。
 記憶の片隅に。そして今も、この手に。



***



 何故忘れていたのだろう。どうして、覚えていなかったのだろう。
 大切なはずだった。何よりも、大事でいとおしいはずだったのに。
 いつから、それは失われた。いつから、それは自分の中から消えていた。
 気付いたときには全てが消されていて、それは誰かの故意によるものだったのか。
 初めから何もなかったように、何も知らなかったように。この手から、ソレが失われた時には既に、大切なモノは記憶から消えていた。

 きっかけはなんだったろう。
 三草山で望美にこれを渡された時から徐々に。そして、ああそうだ。知盛と戦ったあの直後から。
 あの時から急激に消えていたそれは思い出されて……いや、そうじゃない。
 隠されていた、ソレは姿を現し始めていて。
 今ははっきりと、何よりも鮮やかに思い出せる。
 あの人の微笑みを、あの人の声を―――涙を。


***


 はらはらと遠く、厳島の断崖から山桜が花弁をちらつかせている。
 水面に落ちて揺れるその様を眺めていた敦盛はふいに声をかけられ振り向いた。
「綺麗ですね」
「ああ……」
 いいながら同じように隣に立ち、前方に聳える厳島を臨むのは白龍の神子である望美だった。
 いつものように明るく笑ってはいるが、その表情は少しばかり緊張を滲ませている。もうじき最後の戦いになるのだから、無理もないことだろう。
「もうすぐ…終わるな」
「そうですね……。敦盛さん」
「なんだ?」
「何を考えていたんですか?」
「……」
 驚いて望美を見やれば、彼女はただ笑みを浮かべて敦盛を見ていた。
 敦盛は答えずに、一度だけ目を伏せる。
 それほど自分は何か、思いつめた表情をしていたのだろうか。
 考えていたわけではない。思い出していたのだ。少しだけ、昔の事を。
「あ、答えたくなければ別にいいんです。ただ少し、いつもと様子が違うなって思っただけですから」
「いや……大したことを考えていたわけではないんだ」
「これからのこと、ですか?」
 敦盛は静かに首を振った。
「少し昔を思い出していた」
「昔? あ、平家にいたころのことですか?」
「ああ……」
 もう何年も前。平家にいた頃……敦盛がまだ人であった頃。
 思い出されるのは桜の下で舞う巫女姫の姿……微笑み。

『敦盛様』

 少しはにかんだ笑顔で手を振って。
 その度に微かに奏でられる鈴の音。
 優しい彼女はきっと、敦盛が兄である経正と戦った事実を知ったならば悲しむことだろう。
 そう考えて、敦盛はふと疑問を抱いた。
 そういえば、彼女はどうしたのだったろう。
 敦盛は覚えている限りの記憶を辿って、戒められた鎖に視線を落とした。
 ああ、そうだ。彼女は……。
「聞いてもいいですか?」
 望美の言葉に敦盛は落としていた視線を上げ頷いた。
 厳島上陸までまだ間がある。
「もう何年も前のことだ。私も、兄上もまだ人であった頃。父上が一人の巫女を連れてきた」
 名を呼ぶ声は流れる水の如く澄み渡り、微笑みは花のように無垢で清らか。
 幼子のように純粋な、美しい巫女だった。



***



 昨日までの冷え込みが嘘のように暖かく。先頃梅の花は終り、庭に植えられた桜の花がようやっと綻び始めた。
 寝やすい夜であったけれど、寝付くことが出来ずにいた敦盛は一人庭へと赴いていた。静かな夜だ。まだこの季節、虫の音一つ聞こえない。
 縁側に腰を下ろして、夜風に身をまかせているとふいに、遠くで鈴の音が聞こえた。
「猫か……?」
 一門の誰かの飼い猫が紛れてきたのだろう。その程度に思って敦盛は、青葉の笛を取り出すと唇を寄せた。
 息を吸い、魂を込めるかのように音色を奏でる。
 高く澄んだ音が響いて、静寂と混ざり合う。どこか憂いを含んだ音色。それは美しく、聞く者の心を打つ調べであった。

 ちりん……。

 再び聞こえた鈴の音に、落としていた瞼を持ち上げ何気なくそちらを見遣った敦盛は驚いて、笛に息を吹き込むことをやめた。ぴたりと音が止まると、途端にあたりを支配するのは静寂。その中に、ちりんちりんと不規則に鈴の音が混ざる。
 がさ、と茂みが鳴った。
「あら、あらら。まあ……」
 茂みから鈴の音とともに姿を現したのは、敦盛より少し年上に見える少女だった。彼女は笛を構えたまま己を凝視する敦盛に気付き、きょとんと目を丸くした。
 闇の中に浮かび上がる少女の衣は、真白い小袖と朱色の切り袴。長い黒髪を腰下ほどでちょこんと結び、典型的な巫女の装束を纏っていた。縫い付けられたものであるのか、少女が袖を動かすたびにちりん、ちりんと軽やかな音が奏でられる。赤い何かが小袖の胸元で揺れていた。
 突然現れた少女の存在に戸惑う敦盛。力なく笛を下げる様子を見て、少女は自分の犯した失態に気付き、慌てて頭を下げた。
「驚かせてしまって申しわけありません。寝付けずにおりましたら笛の音が聞こえて……とても美しい音色でございましたから、どなたが吹いてらっしゃるのかと気になって……」
「いや、それは構わないが……あなたは……」
 見知った顔ではない、名も知らぬ少女。
 何故この刻限に、巫女らしい少女がここにいるのか。
 敦盛の心の内を察したか、少女が小さく首を傾いで、微笑した。
「……明日になればきっとおわかりになりますわ。敦盛様」
「名を……」
「ええ存じておりますわ。せっかくですから、もう少し笛を聞かせていただいても宜しいでしょうか?」
 少女の言葉に頷いて、敦盛は再び笛を構えた。
 少し乱れた心を落ち着かせ、息を吸ってそっと目を伏せる。
 やがて先程と同じように澄み渡った美しい調べが夜闇の中に響いた。
 まだ幼さの残る敦盛の横顔を少女は見つめる。少し嬉しそうに、そして哀しげに。それが意味するものを知るものはこの場にはいなかった。
 しばらく笛の音が続き、それが止んだ時少女はまだそこにいた。
「とても……綺麗な音色でございました」
 聞かせてくれたことへの礼を述べ、少女は軽く会釈をすると身を翻して去っていってしまった。
 鈴の音が徐々に遠くなっていく。

 ちりん……ちりん、りん……―――。

 それはやがて、突然現れ去っていった少女とともに闇に紛れるように消えていった。



 翌朝敦盛は、兄の経正に夕べの出来事を話した。あれは誰であったのだろうかと訊ねる敦盛だったが、しかし兄も知らぬという。
 そのような巫女は見たことがないと。
 それぞれが首を傾げていると、揃って父経盛に呼び出された。
「父上が?」
「はい。すぐ参らせよ、との仰せでございました」
 御簾の向こうから声をかける女房に直ぐに行くと返事をし、二人は父の部屋へと赴いた。薄暗い部屋の中にいたのは父と、もう一人。経盛の前に単座する女の後姿。
 腰の下ほどで結ばれた艶やかな黒髪と、白の小袖、朱袴。
 見覚えのある姿に、敦盛はあ、と声を上げた。昨日の夜、出会った巫女。
 声に反応するようゆるりと振り向いて、敦盛を捕らえた黒曜石の瞳は驚いたように佇む彼を捉えると柔らかく和んだ。
 紅を引いたように赤い唇が笑みを刻む。
「まあ、これは……」
「あなたは昨日の」
 敦盛と少女を経盛はやや驚いたように、交互に見遣った。
「ん? なんだ二人とも既に知り合っておったか」
「少しだけ、お言葉を交わしただけでございます」
「父上、この人は……」
 敦盛の言葉を遮るように手を上げ、とりあえず座るよう促した。
 腰を落ち着けた敦盛と経正は改めて、目の前に巫女は誰なのか問う。経盛は僅かだが言葉を濁し、一門に仕えることとなった巫女だ、とだけ告げた。
 他の詳しい説明は一切なかった。ただそれだけ。何故一門に仕えることとなったのか。巫女として、どういった役目を持つのか。敦盛たちは何の説明もなかった。
「この邸に住むこととなる。顔を合わせることも多かろう」
 少女は体の向きを変え、二人に対して頭を下げる。削髪がはらはらと零れ、頬にかかった。
「名は何と?」
と申します。亡き母が、与えてくれた名にございます」
「良い名ですね」
 誉められた事が嬉しかったのか、面を上げたはふわりと顔をほころばせた。花のように柔らかで、無垢すぎるほど純粋な微笑みだった。

 後に敦盛はこの笑顔に惹かれていく。
 それが辛い別れとなることも知らずに。

 十八、敦盛十五の初春のことだった。
 まだ何も愁うことなく。何者にも縛られる事なく。何も知らず。悲しみもなかった。ただ心のままにいる事ができた、昔の事。



***



 気が付けば、先程まで遠くにあった厳島の山桜が目前まで迫ってきていた。花びらが風に飛ばされ手元に届く。
 船はじき岸に着く。上陸まではあと半刻といったところだろうか。
 望美とともに海を眺め、昔話をしていた敦盛はそこで言葉を止めた。
「じき上陸だ。話はまた……後にしよう」
「そうですね。ここからはさらに気合をいれていかないといけませんよね」
 ぐっと拳を握り締めて、顔を引き締める。
 そんな望みの様子を見て、敦盛は微かに笑い一度目を閉じた。



 厳島に上陸した一行は、背後に聳える弥山を見上げた。
 包ヶ浦に上陸した最たる理由は、これから対決することになる清盛がいる厳島神社の舞台から最も死角に当たる場所である為。とはいえ相手は人ではなく、怨霊だ。この島に上がった瞬間、既に存在を気取られているかもしれないけれど。
 それを聞いて顔を顰める望美。彼女を励ますよう八葉が声をかけた。
 準備を整えた一行は舞台を目指す為弥山をのぼり始めた。
 八葉の最後尾を歩く敦盛は、疲れているだろうに少しもそんな素振りを見せない神子の後ろ姿を見ながら思う。
 もし、と。
 もしもあのことを知っても神子は……。今までと同じように接してくれるだろうか。
 それとも……。

『敦盛様』

 耳の奥に蘇えるの声。何時までもずっと忘れる事がないだろうこの声は。愛おしくもあるけれど、同時に酷く哀しい思いを胸に蘇えらせる。
 弥山の頂上に辿り着くと、満開の山桜が花吹雪を舞わせていた。

 ―――りん、ちりん……。

 目を細めた敦盛も耳に、聞こえるはずのない鈴の音が届く。

 ―――敦盛、様……。

 もう二度と、聞くことが出来ないの声が。
 耳の奥に木霊し、名を呼び続ける。