止せ、と言ったのだ
泣くのはわかっていたから
冷静になれと、何度も
だけど彼女は困った様に微笑んで
冷静になれるなら
目が眩むほどの熱さを伴わないのなら
歪んだ感情
穏やかな春があれば、じりじりと蒸し暑い夏もある。
季節や時の流れという概念から取り残されたようなレックナートの屋敷とは異なり、ここ城では季節の訪れを明確に感じることができる。
今の季節は冬。
過ごし易いとは言えない季節ではあったが、ネットリとした不快感を感じさせる真夏よりはよほどルックは冬の静謐(せいひつ)な空気を好んでいた。
しんしんと降り積もる雪は外界の音を軟らかく受けとめ、まるでここにいるのは自分ひとりであるような錯覚を起こさせる。
石造りの廊下に靴音を響かせて、ルックはゆっくりと進んだ。
普段は人通りの多いこの廊下も、太陽さえ昇っていない今の時刻ではすれ違うものもいない。
月が空に溶け込み太陽がまだ地平線の下にある、空が誰の領域にも無い、この僅かな時間がルックは好きだった。
誰よりも早く起床し、白々と空が白んでくるのを眺めるのを密かな楽しみとしてきたのだ。
普段の日課を満喫すべく、ルックは迷い無く足を進めた。
が。
「何やってるわけ?」
約束の石版の前。
普段と変わらない、いや、普段と「ほとんど」変わらない光景がそこにはあった。
しん、と冷え切った空気も、窓からうっすらと射しこむ雪明りも、普段と何一つ変わらない。
たったひとつの異分子は、小さな背中。
ルックの声が聞こえている筈の後ろ姿は、ぴくりとも動かず、今だその背を向けたままだ。
無視?全く、この自分に対していい度胸だ。
しかも、自分のささやかな楽しみの空間を壊され、些か不機嫌だったルックは苛立ちを隠さず言葉を発した。
「」
ずずっ、と何かを啜るような音がそれに答えた。
だけど、背中は振りかえらない。
「、聞こえてるんだろ」
射るような視線をその小さな背に向けたまま、ルックは先ほどより心持ち大きな声を張った。
「」
吐き出された息が鼻先を掠めて散った。
焦れた声に押されて、ようやくのろのろと背中がこちらを向く。
真っ赤になった目と鼻を見て、ルックはまたか、と口を突きそうになった溜息を何とか飲み下した。
はいわゆる戦争孤児であり、城のレストランでウェイトレスとして働いている少女だ。明るく人懐っこい性格から、城の大半の者と仲がよいのだが、どういうわけか人一倍懐かれたのが自分だったのだ。
は感情表現が素直で、やや幼い印象を与えるものの、実際の年齢はルックとほとんど変わらない。そのせいか、ルックとの関係を邪推するものもいたが、実際その関係には色気の欠片も存在しない。
ルックにがやたら構いまくったのも、後で聞いてみれば昔飼っていた猫に似ていたという脱力ものの理由だったし、第一彼女の視線の先には別の男がいることをルックは知っていた。
がこうしてルックの元で泣くのも珍しいことじゃない。
どうもの涙腺は他人と比べ随分緩く出来ているようで、ちょっとしたことで栓が外れてしまうのだ。
の泣く理由は様々だったが、泣き場所は何故かいつもルックのところだった。
部屋にいようが、誰かと話している最中だろうがお構いなしに飛びこんできて、訳の分からないことを叫びながら大声で泣き喚くのだ。
おかげでルックとの噂は尾ひれがつく一方だ。
一度思いきり突き放してやればいいのだろうが、どんなに冷たく接してもくじけず向かってくるし、泣きながら抱きついてくる時は、いっそウェイトレスより兵士として参加してくれと思うくらいの握力で服を握られ、逃げられない。
どうやっても改善しない現状に、ルックは最近ではどうにでもなれという心境に達していた。
面倒ではあるが、放っておくとあとでさらに億劫なことになるのはこれまでの経験で嫌というほど認識していた。
赤く腫れ上がった瞳をしたに1歩近づく。
「・・・あたし」
あと1歩という距離で、黙りこくっていたが口を開いた。
「ふられ、ちゃった」
「・・・あぁ、そう」
他に何か言うべきだっただろうか。
だけど、咄嗟にルックの口をついて出たのはそれだけだった。
「好きな、人がいるんだって」
残念だったね、とか、早く忘れなよ、とか。
そんな言葉はひとつも零れず、ただルックは立ち尽くした。
だから止めとけって言ったじゃないか、とこっそり思う。
の思い人はいつも特定の人物を目で追っていたのだ。
冷静に観察すればすぐにわかるのに、どうして誰よりもあいつを見ていたはずのは気付かなかったのだろう。
「どうしよう。・・・困らせちゃった」
「・・・・・・・・・は?」
が歪んだ唇で呟いた言葉を正しく把握するまで、しばしの時間がかかった。
「・・・シーナさん、困った顔してた・・・っ」
ゆっくりと、目尻の縁から雫が零れた。
「・・・っく、困らせる、つもりなんか、なかったのに・・・ッ・・・」
堰を切った様にぼろぼろと零れ出した涙を隠す様に、は顔を背けた。
「涙、とまんなく、・・・って・・・」
こんな風に泣く奴ではなかったのに。
の泣き様はどこか爽快感を伴うような、威勢のよいものであったのに。
泣いているの姿など、何度も見てきたはずなのに、どう対処していいかわからず、ルックは途方にくれた。
目の前にルックがいるのに、は自分の体を抱きしめるだけで、決してルックにしがみついたりしなかった。
「どう、しよ・・・っ、・・・こ、んなっ、顔じゃ、また・・・っ、困らせ・・・」
こんな時でさえ。
こんな時でさえ、はシーナを想う。
ルックは急速に体が冷えていくのを感じた。
吐く息が白いことや、指先がかじかんでいる事が急に気になりだした。
は冷たくないのだろうか。
彼女の吐く息も同じように白く凍えているのに。
「・・・っく・・・」
必死に涙を拭う指先を無理矢理掴むと、ひんやりとした冷たさが手の中に伝わった。
驚いた彼女が顔を上げるのを見計らって、彼女の視界をもう一方の掌で遮断する。
小さく呪を紡ぐと、ゆっくりと彼女は崩れ落ちた。
「あれ?今日は休み?」
「・・・体調不良だよ」
レストランに入ってくるやいなや、真っ直ぐ自分のテーブルに向かって尋ねたに、ルックは溜息まじりに答える。
今日になって何度同じ質問をされたのか、正直数えるのもうんざりするぐらいだ。
魔法で無理矢理眠らせたを比較的近い自分の部屋のベッドに放りこんだ後、ルックはレストランの給仕長には体調不良で休むと告げた。
だから給仕長に聞けば、のいない理由などすぐにわかるはずなのだ。
なのに、どうして皆が皆、自分に尋ねるのか。
すでにセットとして認識されているという事実に、ルックはがっくりと頭を垂れた。
「アップルちゃーん、一緒に飯食おうよー」
耳に飛び込んできた軽薄な声に、ルックは思わず下げた視線をもち上げる。
そこにはいつものようにへらり、と笑う男の姿。
ちりり、と何処かが焦げつくような音がする。
琥珀の瞳は目の前の女を追うのに忙しく、いつもの明るい声が聞こえないことにも気付かない。
激しく突き上げる冷たい衝動にルックは小さく震えた。
止せ、と制止の声をあげたのは隣にいたか、それとも自分の中にある理性か。
次の瞬間には壁の一部が吹っ飛んでいた。
「な、何すんだよ!!あぶねぇなっ!!」
しん、と静まり返った中、いち早く声をあげたのは一瞬飛びのくのが遅ければ瓦礫の仲間入りをしていたはずの青年だった。
「あぁ、悪いね。手がすべった」
「嘘つけぇっ!!」
シーナが悪いわけではない。
シーナにはシーナの想う相手がいて、との想いがかみ合わなかっただけの話だ。
だけど。
「うるさいな。謝ってるだろ」
「っ!!」
シーナが気圧された様に、一歩後ずさる。
周りの怯えたような視線に、自分はそれほど今険しい表情をしているのだろうかと考える。
あぁ、でもそうなのだろう。
自分の中を酷く残酷な感情が支配しているのを感じる。
彼の言い分も、何もかも踏みにじってやりたいと。
低温ながらフツフツと煮えたぎるような何かが、確かに自分の内にある。
ゆっくりと。
殊更ゆっくりと、ルックはレストランを後にした。
自分の中の凶悪なものを押さえつける様に。
中央ブロックと南ブロックを結ぶ渡り廊下を抜けたところで、ルックは足を止め、目蓋を閉じた。
脳裏には、泣きつかれて眠っているはずの
の顔が浮かぶ。
止せ、と言った声は
今度こそ自分の内から聞こえた
届かないのだから
声が聞こえた
あぁ、そうだ
冷静になれるのならば
恋など しない